羅芝賢『番号を創る権力』

 鳴り物入りで導入されたマイナンバー制度ですが、そのしょぼさと面倒臭さにうんざりしている人も多いでしょう。行政事務を効率化し、国民にもさまざまな利便性を提供すると言われていたマイナンバーですが、蓋を開けてみればマイナンバーの通知カードをコピーしてハサミで切ってのりで貼るというアナログな作業が増えただけと感じている人も多いと思います。

 思い起こせば住基ネット住基カードというのもありました。当時、免許を持っていなかった自分は身分証明書代わりに住基カードを取得しましたが、結局、身分証明書の役割を果たしただけで、何かが便利になったという記憶はありません。そして、ひっそりとマイナンバーカードに取って代わられて終わりました。

 

 スウェーデンや韓国やエストニアのように「国民総背番号制度」が確立している国がある一方で、日本ではその導入が遅々として進みません。

 この本は、その理由を日本の戸籍制度の変遷や情報化政策の影響、そして国際比較などを通じて明らかにしようとした本です。

 「国民総背番号制度」に対する反対としてまず持ち出されるのは「プライバシーの保護」で、日本における反対論でもたびたび持ち出されてきましたが、「日本人は他国の人々(例えばスウェーデン人)に比べてプライバシーの意識が高いために「国民総背番号制度」が成立しなかった」という理由ですべてを説明するのは苦しいです。

 この本ではそうした「プライバシーの保護」という「建前」に隠された制度的な理由を掘り出していきます。

 

 著者は韓国人の女性の方で、韓国で学んだあとに東京大学大学院法学部政治学科研究学科に研究生として入学しており、この本はその博士論文をもとにしています。

 タイトルの「番号を創る権力」については、博論をもとにした本としては前田健太『市民を雇わない国家』以来の洒落たタイトルだと思ったのですが、前田氏とは行政学ゼミの先輩後輩の関係とのことです。『市民を雇わない国家』は「公務員が多すぎる」という一般の常識をくつがえす本でしたが、本書も、次々と通俗的なイメージを覆していく非常に面白い本です。

 なお、著者名はナ・ジヒョンと読むようです。

 

 目次は以下の通り。 

序論
第1章 日本の戸籍制度と番号制度
 第1節 住民管理の始動
 第2節 住民管理行政の漸進的発展
 第3節 番号制度の形成過程
 小括
第2章 プライバシーの政治的利用
 第1節 言説と実態
 第2節 国民総背番号制の浮上と挫折
 第3節 反対世論の形成
 小括
第3章 情報化政策の逆説
 第1節 行政組織と情報技術
 第2節 コンピュータ産業政策をめぐる政治
 第3節 産業政策の意図せざる結果
 小括
第4章 韓国における国民番号制度の成立
 第1節 植民地時代の住民管理
 第2節 住民管理の新たな展開
 第3節 住民登録番号の誕生
 小括
第5章 多様な番号制度への道
 第1節 福祉国家と番号制度
 第2節 帝国主義の陰に生まれた国民番号制度
 小括
結論

 

 はじめにも述べたようにマイナンバー制度が今までの行政や社会保障制度を劇的に変えるような気配は感じられません。今までのしくみにマイナンバーを書く手間が1つ増えたというのが多くの人々の感じる印象でしょう。

 第1章では、戸籍制度をはじめとするさまざまな国民管理の仕組みがかなり早い段階で分権的に整備されてしまったことが、日本の「国民総背番号制度」の成立を阻んだということを、各制度の歴史的変遷を明らかにすることで示そうとしています。

 

 日本の国民管理の基本となってきたのは戸籍制度です。戸籍制度の特徴は、個々人を血縁集団である「家」を通じて把握しようとするところにあり、その背景には血統主義によって日本人の境界を確定させようとする考えがありました。

 同時に政府は戸主に徴兵の免除や参政権といった権利を与える代わりに徴兵や徴税制度の運用の末端を戸主に担わせ、戸籍制度はたんなる住民管理だけではない側面を帯びていくことになります。

  

 第二次世界大戦後、「家」制度は廃止されましたが、戸籍制度はそれほど大きな変化を被りませんでした。戦時下では配給制度の運用などのために世帯台帳がつくられ、それが住民票へと進化していくのですが、1951年の住民登録法で住民票と戸籍の連携が図られたことから戸籍制度は生き延びていきます。

 90年代から戸籍事務のコンピュータ化が始まりますが、ここでも戸籍制度の抜本的な見直しは行われず、逆に各市町村で独自のシステムが導入されたことから、戸籍制度は分権的な性格を強めました。

 住民把握の基本に戸籍制度が残り、それが分権的な性格を強めたことによって、「国民総背番号制度」の導入は難しくなりました。

 

 もっとも、番号自体は健康保険や年金、免許証などで導入されています。これらの制度もスタート時には分権的な性格が強く(例えば、年金は国民年金、厚生年金、共済年金などに分かれていた)、統一的な番号はない状態で運用されていましたが、行政事務の膨張やコンピュータ化などを背景にして統一的な番号制度がつくられていきます。

 例えば、健康保険では1973年の高齢者の医療費無料化などに伴う受診率の増加が、診療報酬請求事務を増大させ、日本医師会の要請などを背景に保険者番号の形式が統一されていきました。

 

 第2章では、国民総背番号制度を阻み続けた「プライバシーの保護」という言説に焦点をあげ、それがどのようなかたちで唱えられてきたかを明らかにしています。

 国民総背番号制度に類似した制度が導入されそうになると、「プライバシーの保護」の面から懸念の声が上がります。これは当然とも言えるのですが、最初に述べたように日本で国民総背番号制度の導入が失敗しているのは日本人のプライバシー意識が強いからだと単純には結論付けられないでしょう。

 2007年に戸籍法や住民基本台帳法が改正されるまで、なりすましなどによってこれらの情報を取得することは容易でしたし、序章で紹介されている国際的な世論調査でも、「便宜のためにプライバシーを犠牲にしたことはありますか」という問いに対しても、日本人は他国に比べて高い割合で「はい」と唱えています(6p)。

 

 つまり、「プライバシーの保護」は日本人のプライバシー意識の高さとは別に、ある種の方便として用いられてきたのです(もちろん、日本人の政府に対する一般的な信頼の低さなどを要因として考えることは可能でしょが)。

 1969年、行政改革本部において第二次行政改革計画の政府案が内定し、そこには「個人コードの標準化」(71p)が盛り込まれていました。ところが、この計画に対して労働組合自治労)が反発します。

 1971年の「広域行政・コンピューター集会」では、「情報の民主的管理と運営」、「人間疎外の克服」、「プライバシーの保護」という3つの原則が提起されます。自治労にはコンピュータ化が雇用を奪う、あるいは職場環境を悪化させるという認識があり、それが「プライバシーの保護」と絡めて主張されたのです。

 

 さらに70年代になると各地で革新自治体が生まれますが、革新首長にとって労組は支持基盤の1つですが、当選するにあたって幅広い支持が必要な首長にとって、「合理化の阻止」よりも「プライバシーの保護」の方がはるかに通りのいい主張でした。

 

 70年代後半、大蔵省でグリーンカード制度の構想が持ち上がります。大蔵省は「マル優」や郵便貯金などの非課税貯蓄の透明性を確保するために、このカードとカードに記載された番号を使って銀行口座の「名寄せ」を行おうとしました。

 1981年にはグリーンカードシステムを開発するための予算も計上されており、順調に制度は導入されるはずでした。

 ところが、81年に自民党グリーンカード対策議員連盟が発足し、翌82年になると反対論が盛り上がります。この自民党内の反対論は主に郵政族議員から上がりました。グリーンカード制度が計画されたときは田中派竹下登が大蔵大臣を務めていたため、田中派郵政族は表立って反対できませんでしたが、大蔵大臣が渡辺美智雄に代わると、田中派金丸信が反対に動き出します。そして、その自民党内の動きを追うように新聞などでもプライバシーの懸念が報じられるようになるのです。結局、このグリーンカード制度は83年に断念されました。

 

 1999年住民基本台帳法が成立し、2002年から住基ネットの運用が開始されます。しかし、この住基ネットも順調に運用が開始されたわけではありません。

 住基ネットが可動するとなると、福島県矢祭町、東京都国分寺市、杉並区、三重県小俣町、二見町、神奈川県横浜市と、住基ネットから離脱する自治体が相次いだのです。ここでおプライバシーへの懸念が唱えられましたが、著者はこの時期に行われた地方分権改革とそれにのった改革派首長の動きがこの背景にあったと分析しています。

 この章では住基ネット離脱の動きを先導した杉並区の山田宏区長の動きが分析されていますが、山田は元衆議院議員で杉並区長を辞めたあとも国政に復帰している人物です。彼にとって国と自治体の対等な関係というものが重要であり、それを示すために選ばれたのが住基ネットだったという側面もあるのです。

 

 第3章は「情報化政策の逆説」と題して、通産省の産業政策がかえって統一的なコンピュータシステムの導入を阻んだ経緯が明らかにされています。

 日本のコンピュータ産業は少なくとも20世紀までは順調に発展しており、技術不足が国民総背番号制度を阻んだわけではありません。

 もともと自治体の使用するような汎用コンピュータの世界ではIBMのシェアが圧倒的でした。これに対して政府、特に通産省は国内のコンピュータ産業を育成する政策をとっていきますが、その政策の1つが政府や関係機関での国産コンピュータの優先的な導入でした。この政策によって、中央省庁におけるシェアは73年の段階で、NEC32.4%、東芝24.8%、富士通23.0%、日立12.2%、沖電気5.5%となりました(111p)。地方自治体でもこの5社に三菱電機IBMを足した7社がシェアを握ることになります。

 

  当時の汎用コンピュータは複数の機械からなるユニットで、当時の23区では20~30名規模の組織が導入にあたって発足しました。当初は税や給与などの計算に使われていたコンピュータですが、中野区は60年代後半から住民管理にも用い始め、徐々にその他の自治体へも広がっていくことになります。

 自治体におけるコンピュータの活用は上からではなく、自治体独自の取り組みとして広がっていきますが、それが強固な分権的システムをつくり上げることになります。

 また、国内のコンピュータ産業を育成しようとした政策が、次期システムの選択に際して既存のシステムを無視できなくなる「ベンダーロックイン」といわれる状態を生み出しました。122pの図3-5では、65~95年の東京23区の使用メーカーが示されていますが、途中での東芝の撤退による影響を除くと あまり変化がありません。そして、こうした中でメーカー独自の文字コードなどが使われるようになり、システムの変更はますます難しくなっていったのです。

 そして、これが集権的な国民管理システム構築へ向けた大きな障害となります。

 

 第4章では比較事例として韓国がとり上げられています。韓国は植民地時代に日本によって戸籍制度が導入されましたが、現在では国民番号制度が導入されています。この経緯を明らかにすることで、日本との違いを探ろうとしています。

 

 1910年に日韓併合が行われると、23年には「朝鮮戸籍令」が制定されます。しかし、日本の戸籍制度が戸主に権利を与える代わりに徴兵や納税などの末端事務を担わせる仕組みだったのに対して、朝鮮人の戸主には与えるべき権利(参政権や徴兵免除)がなく、末端事務を担ったのは「洞・里」と呼ばれる住民組織でした。

 この洞や里には区長が置かれ、1937年に日中戦争が始まり戦時体制が強まると、区長は有給になり、さまざまな事務を行うようになります。

 

 日本の植民地支配が終わると、米軍は当初、食料配給を廃止しますが、これは大きな混乱を生み、結局は住民組織を使って食料配給を行うことになります。このときに使われたのが洞籍簿であり、食料配給と結びついて洞籍がもっとも信頼できる住民把握の手段となりました。

 さらに冷戦状況が生まれてくると共産主義者摘発の手段として身分証明書が利用されるようになります。朝鮮戦争が勃発するとこの身分証明書は顔写真付きとなり、これが朴正熙政権のもとでの住民登録番号制度へとつながっていきます。

 

 また、62年に制定された住民登録法では住民登録と戸籍を区別しており、日本にあるような「戸籍の附票」はありません。

 その後、韓国では70〜80年代にかけて福祉制度がつくられていき、行政サービスも拡大していくのですが、そこで使われたのが住民登録番号でした。結果として、韓国の行政サービスは住民登録番号制度と連動しており、行政手続きのワンストップサービス化や電子化が進んでいます。

 戸籍制度の定着度合いの薄さと、冷戦構造によってプライバシーへの関心が高まる前に住民登録番号制度が導入されたことが、日本との違いを生んだと言えます。

 

 第5章では、国民総背番号制度が導入されているスウェーデンエストニア、台湾の3カ国をとり上げ、その導入の経緯を探るとともに、アメリカやドイツで国民総背番号制度が導入されなかった経緯も明らかにしています。

 

 スウェーデンでは1947年に個人識別番号が導入され、福祉の発展とともにこれが広く使われるようになりました。

 アメリカやイギリスが「分権・分離型」の中央地方関係であるのに対して、スウェーデンは「集権・融合型」の関係であり、自治体の活動は中央政府の規定した範囲内で行われました。このことと福祉を教会や職業団体などではなく中央政府が担ったことが一元的な国民総背番号制度の成立につながったと考えられます。

 

 エストニアに関しては、近年電子政府の取り組みなどが注目されていますが、国民総背番号制度のルーツに関しては、ソ連からの圧力とソ連への併合、そしてソ連時代の経験を抜きにしては語れません。

 エストニアは独立した翌年の1992年に個人識別コードを導入し、パスポートや運転免許証や学生証にそれがもれなく記入されています。身分証の携帯も義務付けられており、韓国と同様に冷戦下、あるいは冷戦崩壊後に必要とされた国民管理のしくみが電子政府などに生かされていると言えます。

 なお、台湾についても戒厳令下での国民管理の仕組みが国民総背番号制度の成立へとつながりました。

 

 こうした国際比較をした上で、著者は結論部分で次のように述べています。

 番号制度を検討の対象とする本書が、プライバシーに関する問題を議論の中心に置かなかったのは、監視社会の危険性よりも、国家権力の両義性を強調するためである。国民番号制度を受け入れた国々の市民に対して、そうした人々が利便性のためにプライバシーを犠牲にしたという見方をするのは妥当ではないと筆者は考える。重要なのは、近代国家が、そうした制度を人々に受容させる権力をいかに獲得したかを理解することである。そのためには、秩序の安定を目指して発揮される国家権力と、福祉国家の便益を享受する市民の支持を受けて増大してきた国家権力の両方に注目する必要がある。(191p)

 

 例えば、韓国や台湾では国民総背番号制度は秩序の維持を目的として誕生したものかもしれませんが、それは現在、行政サービスの利便性の向上に役だっています。一方、ドイツのように過去の記憶が一元的な国民番号制度の成立を阻んでいるケースもあります。各国の国民番号制度の現在の姿は、それぞれの国家の歩みを表したものでもあるのです。

 

 日本については、第1章から第3章に書かれている理由などによって国民総背番号制度の導入が阻まれてきており、マイナンバーがこれらの障壁を乗り越えることができるかどうかは不透明です。

 最後に著者はマイナンバーの構想が新自由主義的な政策をとっていた小泉政権期い生まれたことに触れ、その行方について次のような見方を披露しています。 

以上のように、マイナンバー制度の成立は、日本の福祉国家の質を向上させるために政治エリートたちが悩み抜いた結果であるとは言えない。むしろ、その動機は、福祉国家の縮小、あるいは現状維持であった。そのための手段として設計された番号制度が、市民にそれほど歓迎されないのは、ある意味では当然のことのように思われる。本書を執筆を終えた段階では、マイナンバー制度に対する規範的な評価を下すことは難しい。だが、一つはっきりしたことがあるとすれば、それは福祉国家の質的向上をもたらさない形で番号制度の改革を進めても、その試みは、常に市民の抵抗に直面するだろうということである。(195p)

 

  このようにこの本は日本において国民総背番号制度が成立しなかったさまざまな要因を探っています。この手の制度に対しては常に「プライバシーの保護」という反対意見が対置されますが、そうした言説の裏にある制度的・構造的な要因を探っていく内容は非常に刺激的で面白いです。

 博士論文をもとにしており、論点の多岐にわたっているために読みやすい本ではないかもしれませんが、国民総背番号制度だけではなく、電子政府、あるいは行政全般に興味がある人にもお薦めですし、また、「制度」とか「経路依存」などの言葉に反応する人にもお薦めできます。

 

 

 

『バイス』

 ブッシュ(子)政権で副大統領を務め、イラク戦争を主導したとも言われるディック・チェイニーを描いた映画。監督は『マネー・ショート』のアダム・マッケイで、チェイニーを演じるのがクリスチャン・ベールラムズフェルド役にスティーヴ・カレルと『マネー・ショート』のメンバーが再結集という趣きで、同じように政治経済の思いテーマをコメディタッチで描こうとしています。

 

 ただ、それが成功しているかというとやや物足りない面もあります。

 まず、前半は非常にいいと思います。ゴロツキ的な生活を送っていたチェイニーが、頭もよく上昇志向に燃える恋人のリン(エイミー・アダムス)に尻を叩かれる形で政界に入り、かなりイカレたキャラであるラムズフェルドのもとで修行を積み、フォード大統領のもとで首席補佐官になる。チェイニーとラムズフェルドのコンビが面白く、ここまではコメディとしても良く出来ています。

 その後の下院議員時代についても、演説の苦手なチェイニーに代わってリンが大活躍するとことなども面白いです。

 サム・ロックウェル演じるブッシュ(子)も、やや戯画化されていますが、本人を彷彿とさせます。彼から副大統領にならないかと持ちかけられるシーンも良いと思います。

 

 ただし、脚本からはチェイニーが副大統領になったあと、イラクへこだわる理由が見えてこないです。

 チェイニーが法律顧問などの知識を駆使して、大統領権限の拡大をはかるところなどは面白くも怖くもあるところですが、大きな権限を手に入れたチェイニーがイラク戦争へと突き進む理由はあまりよくわかりません。

 これはチェイニーがブッシュ(親)政権時代の国防長官だった時代をすべてカットしてしまってることに1つの原因があると思います。湾岸戦争で相手を圧倒しながら、結局はフセイン政権を打倒できなかったという経験が、チェイニーをはじめとするブッシュ(子)政権のスタッフをイラク戦争に駆り立てたのではないかと思うのですが。それがきれいさっぱりカットされています。

 

 また、イラク戦争やその影響などを描く場面ではどうしてもイメージに頼ってしまっています。もちろん映画なのでイメージに頼って当然なのですが、なんとなく脚本の薄さを埋めるようなものに思えました。

 イラク戦争に関しては、単純にチェイニーを悪の権化として描くような部分もあり、マイケル・ムーアの『華氏911』に通じる平板さがありました。

 

 随所に盛り込まれたメタ的な展開など、トータルすれば面白い部分も多かったのですが、肝心な部分で期待に届かないところもありました。

 

 

小林道彦『児玉源太郎』

 ミネルヴァ日本評伝選の1冊で、著者は『日本の大陸政策 1895‐1914』(のちに『大正政変』と改題されて復刊)、『政党内閣の崩壊と満州事変 1918‐1932』などを書いている人物です。

 特に『日本の大陸政策 1895‐1914』は、山県有朋とも伊藤博文とも違う桂太郎児玉源太郎後藤新平の大陸政策の内実とその行方を描いたもので、児玉の伝記の執筆者としては適役といえます。

 

 児玉源太郎というと司馬遼太郎の『坂の上の雲』のイメージが強いかもしれません。児玉はメッケルにその才能を認められ、日露戦争では内務大臣から参謀次長に降格し陸軍の戦いを勝利に導いた戦術の天才として、また、正面からの力攻めにこだわって旅順攻防戦で大損害を出した「精神主義者」乃木希典に代わって旅順を陥落させた「合理主義者」という印象も強いでしょう。

 この本では児玉が戦術の天才で合理主義者であることを認めながらも、旅順攻防戦に関しては、乃木の作戦にも合理性があったこと、児玉にも判断ミスがあったことを指摘して、その修正をはかっています。

 また、児玉の台湾統治のスタイルや満州経営の青写真を紹介するとともに、伊藤博文と協調して明治憲法下での軍のあり方を変えようとして、「政治家」としての児玉の姿を描いています。

 

 児玉は1852年に徳山藩士の家に生まれています。児玉家は毛利家の譜代の重臣であり、毛利輝元の二男の就隆が徳山藩主となると、その家臣となりました。児玉源太郎の幼名は百合若、児玉家は義兄の次郎彦が継ぐはずでしたが、尊攘派だった次郎彦は禁門の変長州藩が朝敵となったあと、藩内の対立の中で惨殺されます。当時13歳だった百合若はこの殺された義兄の姿を見ており、これが児玉が政治的イデオロギーを遠ざけることになった大きな要因だと考えられます。

 

 児玉は函館五稜郭の戦いで初陣を飾りますが、戊辰戦争で目立った活躍を見せることはできませんでした。児玉が陸軍内においてその名を大きくあげるのは1876年の神風連の乱になります。

 神風連は攘夷を掲げる復古的な士族の集団でしたが、最初の襲撃で県令、警察幹部、熊本鎮台の司令長官種田政明と参謀長を殺害することに成功したために、熊本鎮台は大混乱に陥ります。

 ところが、襲撃を免れた児玉が到着すると、児玉はあっという間に指揮系統を立て直し、乱を鎮圧します。政府が種田の死を知って軍の派遣を決めた頃、乱はすでに鎮圧されていたのです。この戦いで児玉は大きな称賛を浴びることになります。

 

 さらに西南戦争では熊本籠城戦で西郷軍の攻撃をしのぎきることになります。もっとも、このときの熊本鎮台は司令長官・谷干城、参謀長・樺山資紀、さらには川上操六、奥保鞏、大迫尚敏といった人物がおり(さらに軍人ではないが品川弥二郎もいた)、籠城戦の成功が児玉の功績というわけではありませんが、軍人社会における児玉の声望は決定的なものとなりました。

 この本では、その後の豊後方面での戦いも詳しく紹介されています。政府軍は西郷軍のゲリラ的な戦いにかなり苦戦するのですが、著者はここで児玉は台湾の「土匪」との戦いのノウハウを学んだとみています。

 

 その後、児玉は東京鎮台歩兵第二連隊長となり佐倉の地で5年間勤務します。そして、1885年に参謀本部に入ると、そこでメッケルと出会い、メッケルにその才能を認められました。

 さらに児玉は桂と連携して陸軍の改革にも取り組み、軍政家としても非凡なものがあることを示します。その後も監軍参謀総長兼陸大校長として軍の監察や教育を任されますが、そこで児玉が重視したのが陸軍の政治的中立性でした。

 1891年には初めて洋行し、フランス、ドイツ、ロシア、オーストリアなどを視察します。そして、帰国後の1892年には陸軍次官となります。日清戦争においては、大山巌山県有朋が出征するなか、事実上の陸軍大臣として寺内正毅とともに、兵站システムの構築と運用を取り仕切りました。

 ちなみにこの部分では、児玉家の使用人は情報漏洩を防ぐためにすべて文盲であったという興味深いエピソードも紹介されています(144p)。

 

 児玉は日清戦争後に軍備拡張などをめぐって大蔵省の阪谷芳郎と出会い、凱旋軍の検疫問題において後藤新平を知ります。また、この頃大山陸相が行った帷幄上奏は、伊藤博文の怒りを買い、児玉を悩ませるものとなりました。

 1898年、児玉は台湾総督となります。台湾統治は樺山資紀や乃木が担当しましたがいずれもうまくいっておらず、児玉に白羽の矢が立ったのです。

 ご存知のように児玉は後藤を民政局長に抜擢して台湾統治を軌道に乗せるのですが、文官の後藤が実力を発揮できたのは、立見尚文らの歴戦の軍人たちを児玉が抑えることができたからでした。児玉の軍歴が物を言ったのです。

 児玉は土匪集団に対して、その来歴を調べ、旧「良民」には基準を許し、生粋の「犯罪者」は厳しく討伐するという方針で臨み、効果を上げます。

 また植民地経営のために欧米に留学していた新渡戸稲造総督府技師に抜擢しますが、新渡戸がまず台湾を視察しようとすると、児玉と後藤は次のように述べたといいます。

「実際的なことなら、われわれの方がよく知っているから、別に君の意見を煩わす必要はない。われわれの望むところは、君が海外にあって進んだ文化を見て、その眼のまだ肥えている中に、理想的議論を聴きたいのであって、台湾の実情を視察すればするごとに眼が痩せて来る。人はこれを実際論というが知らぬが、われわれの望むところは君の理想論である」(177p)

  

 非常に頭のいい人物の受け答えという感じですが、のちに新渡戸は「頭の宜しいことを言うならば、寧ろ児玉さんの方が[後藤よりも]ずっと上だと思う」(193p)という言葉を残しています。

 

 1900年の厦門事件では、中央との連携不足もあって、厦門への進出を画策した児玉の狙いは失敗に終わりますが、同年に成立した第4次伊藤内閣で児玉は陸相となります。児玉は伊藤との関係もよかったのですが、第4時伊藤内閣は短期間で瓦解、児玉は桂太郎の擁立に動くことになります。

 桂内閣でも陸相に留任した児玉は、陸軍の経理事務を大蔵省より官吏を招致して執務させるなど、執行可能な業務を文官に任せることで軍人を本来の任務に集中させようとしました。

 しかし、予算案の作成に関して大山巌参謀総長に諮ることなく議会に諮ってしまったことが大山の怒りを呼び、結局、児玉が陸相を辞めることとなります。この問題の背景に、著者は児玉の帷幄上奏権を制限したいという考えがあったのではないかと見ています。大山と児玉という日露戦争でコンビを組む2人の関係は必ずしもよいものではなかったのです。

 

 日露関係に関しては、児玉は桂や小村寿太郎と同じく日英同盟論者でした。日英同盟の成立は「やや長い平和」(206p)をもたらすと考えられたのです。1902年に日英同盟が成立すると児玉の海外出張が決まりますが、これは当時の政府、そして児玉にも対露関係の楽観論があったからです。

 ところが、日英同盟をバックにしてもロシアの姿勢は変化せず、小村の楽観論は打ち砕かれることになります、児玉は外遊を前にして内相兼文相として入閣。外遊は取りやめ止まります。

 この児玉の入閣は桂が目指した「小さな政府」実現のためであり、文相を兼任したのは遠からず文部省を廃止してその機能を内務省に移すためだったと言われています(211p)。このときの改革はかなり思い切ったものを目指したもので、児玉の考えた府県半減案が213pに載っていますが、山口県広島県に吸収され、大阪が奈良県の全部と和歌山県の一部を吸収するなどかなり思い切った案です。

 

 しかし、この改革は実現しませんでした。参謀次長の田村怡与造が急逝すると、その後任として異例の降格人事で児玉が就任することとなったからです。

 田村の後任には大山が伊地知幸介を推し、福島安正などの声も上がりましたが、陸相寺内正毅が考えたのが児玉の降格人事でした。異例の人事に大山は自分の代わりに児玉を参謀総長に就任させるのが長州閥の考えとみて辞任を申し出ますが、桂がこれを慰留し、大山総長―児玉次長のコンビが実現します。

 なお、明治天皇は平和になったら児玉が辞任し、それとともに大山も辞任するのではないかと心配しましたが、寺内は天皇に「ロシアとの交渉が上手くいったら、次は児玉をして参謀本部改革に着手させるつもりだと答えて」(215p)おり、児玉起用の裏には参謀本部改革という意図もありました。

 

 いよいよ開戦が近くづくと、児玉は参謀本部や山県の突出を抑え、陸海軍の調整に力を発揮します。

 開戦後も、大本営を東京に設置して山県を大本営付とするとともに、大山参謀総長を幕僚長とする強力な外征軍司令部を創設することを狙いますが、これはさまざまな障害があって失敗します。この司令部の権現の問題は旅順攻略を行う第三軍の指揮権の問題とも絡んでこじれます。結局、大山を総司令官、児玉を総参謀長とする満州軍総司令部が成立しますが、陸軍省参謀本部の間にも軋轢が残りました。

 

 この本では、日露戦争の記述において特に旅順攻防戦に紙幅を割いています。最初にも書いたように、司馬遼太郎の『坂の上の雲』によって、正面攻撃に固執した「精神主義」の乃木と、二〇三高地に攻勢の重点を転換させ、旅順攻略の道を拓いた「合理主義」の児玉というイメージがつくられましたが、『坂の上の雲』以前から、日本史研究者はこれとは違った見方をしてきたといいます。

 まず、本防禦線への攻撃にこだわっていたのは乃木希典・伊地知幸介のコンビだけではなく、大山や児玉ら満州軍総司令部の総意でもありました。

 

 児玉は当初、旅順を落とすことを重視していませんでしたが、海軍の要請を受けて攻略を急ぐようになります。また、児玉には旅順を叩くことで、ロシアの野戦軍を引っ張り出せるという計算もありました。

 当初、旅順は10日ほどで攻略できると考えられており、伊地知は砲兵火力の集中と強襲によってこれが可能だと考えていました。ところが8月21日に始まった第一回の総攻撃は参加兵力の30%が死傷するという失敗に終わります。 

 10月26日に行われた第二回総攻撃も失敗に終わると、乃木に対する疑問の声も上がりはじめ、大本営の山県は二〇三高地の攻略を現地に働きかけるようになります。これに対し、大山も児玉も敵の本防御線を突破して望台を占領する作戦を重視する方針を変えませんでした。

 ところが、11月26日の第三回総攻撃も失敗。27日、乃木は本防御線を攻略することをあきらめ、二〇三高地の攻略を決意します。29日に乃木は新鋭の第7師団を投入しますが、この日から12月5日まで二〇三高地をめぐって死闘が繰り広げられました。

 

 ここで登場したのが児玉です。大山から第三軍の指揮を託された児玉は12月1日に乃木と会談し、口頭で指揮権の移譲を受けます。

 児玉は第7師団が確保している二〇三高地の西南角に注目し、すぐさま斥候を命じて、「そこから旅順港は見えるか」と問うたといいます(電話で言った説と斥候から帰ってきた将校が口頭で報告したという説がある)。

 ロシア側はこの西南角に砲撃を集中させましたが、児玉は砲兵部隊の陣地変換によってこれらの攻撃を沈黙させ、12月5日の夕刻に二〇三高地を占領しました。すぐさま、港内への射撃が行われ、ロシアの残存艦隊は大損害を被りました。

 この一連の動きによって児玉は「天才的戦術家」と呼ばれもしますが、著者はそれまでに児玉も判断ミスをしており、また乃木も児玉の到着以前に攻略目標を二〇三高地に切り替えていることから、不眠不休の指揮によって判断力が低下した乃木と第三軍の司令部を、「児玉がその強烈な意志力によって「正気に戻らせた」こと」(283p)が旅順攻略の成功の鍵だったと見ています。

 

 その後、児玉は奉天会戦でロシア軍を退却させると、東京へと戻り早期講和を説きました。児玉は主戦論の桂・小村と元老の山県・伊藤の間を調整し、早期講和論へと流れをつくりました。

 

 凱旋帰国した児玉は台湾総督に復帰するつもりでしたが、参謀総長就任を見据えた「参謀本部次長事務取扱」に就任します。

 このころ、伊藤は内閣総理大臣に強大な権限を与えるかたちの憲法改革を準備していましたが、そこで問題となったのが帷幄上奏権の縮小です。伊藤は山県から大きな反発が出そうな改革のパートナーとして児玉を考えており、桂の後には児玉を首班に擁立するという児玉内閣構想を持っていたといます(295p)。

 児玉の参謀本部縮小論や戦後の満州経営の方針は山県のものとは違っており、いずれ山県と大きな衝突を起こしたでしょう。そこから児玉と伊藤の連携が生まれていった可能性もあります。

 しかし、日露戦争の終わった翌年の1906年の7月に児玉は55歳でその生涯を閉じました。著者は児玉の死に触れた後に「伊藤。児玉による「明治憲法体制の確立」に向けての試みに触れるにつれ、それは、陸海軍、とりわけ前者の政治家によってもたらされた「昭和の悲劇」を知る者を、抗いようもなく、歴史の「if」の世界に誘っていくのである」(304p)と結んでいます。

 

 この本には、ここには書かなかった以外にも児玉に関する豊富なエピソードが紹介されており(破産しかけたとか)、児玉という人物がよくわかる内容になっています。

 旅順攻防戦に関しては、司馬遼太郎の見方を修正していますが、過剰な「英雄否定論」になっていない部分も良いと思います。

 何よりも児玉という人物は魅力的であり、その障害の鮮やかさにはやはり魅力的なものがありますね。

 

 

『グリーンブック』

 今年のアカデミー賞作品賞受賞作品。生まれも育ちも違う2人が絆を深めるロードームビーのバディものという典型的な作劇なのですが、脚本が非常に良く出来ていて、ストーリー的には予定調和であっても最後まで楽しめます。

 ヴィゴ・モーテンセンマハーシャラ・アリの演技もいいですし、まさにウェルメイドな作品といえるでしょう。

 

 ヴィゴ・モーテンセン演じるトニー・バレロンガはイタリア系で口と腕が達者でありナイトクラブの用心棒をしていますが、店が閉鎖され仕事を探します。そこで舞い込んできたのがマハーシャラ・アリ演じる黒人のピアニスト、ドン・シャーリーの南部ツアーの運転手の仕事。舞台は1960年代前半であり、南部ではまだ公然と黒人差別が残っていた時代です。

 タイトルの「グリーンブック」は黒人向けの旅行ガイドであり、南部において黒人が泊まれる、あるいは黒人専用ホテルを紹介している本です。この時代の南部では、黒人はさまざまな場所から排除されていたのです。

 

 主人公のトニーも教養などは全くない人物で、黒人への偏見も当然のように持っています。一方、ドン・シャーリーは天才ピアニストであり、さらに博士号を3つも持っているというインテリです。

 出会った時は水と油のような2人ですが、旅を続けるうちにお互いの良さを認め合うようになり、また、トニーは南部での黒人差別のひどさに気づいていくことになります。

 基本的におおまかな筋は予想できるものだと思います。ただ、小道具の使い方や伏線の貼り方がうまいためにおおまかな筋は予定調和であっても面白いです。

 

 もっとも、ドン・シャーリーは黒人としてはかなり特殊なタイプの人間であり(幼い頃から天才と言われて海外の音楽学校にも留学した)、また、イタリア系への差別も描かれていたり、結局は白人のトニーがドン・シャーリーを救うシーンがあったりと、現代の黒人差別に正面からぶつかっていったような映画ではありません。

 というわけで、スパイク・リーが不満を述べたのもわかります。この映画は現代の人間に受け入れやすい形で黒人差別を描いているとも言えます。

 ただ、やはり映画としては良く出来ていると思います。

ニコラ・ヴェルト『共食いの島』

 アウシュヴィッツの恐ろしさの一つは「合理的」な虐殺のシステムをつくり上げたところにありますが(ただ、ユダヤ人の虐殺はアウシュヴィッツのような強制収容所だけで行われたのではなく、行動部隊(アインザッツグルッペン)による大量射殺によって行われた部分も多い(芝健介『ホロコースト』中公新書)や石田勇治『ヒトラーとナチ・ドイツ』講談社現代新書)参照))、「合理的」ではなく非常にいい加減なかたちで行われた虐殺劇も、やはり恐ろしいということを教えてくれるのがこの本。

 1933年、西シベリアに流れるオビ川の中にあるナジノ島に約6000人の人が食糧もなしに遺棄され、共食いも起こったというナジノ島事件を扱った本書は、スターリン体制の恐ろしさと無責任を克明に記録しています。

 

  目次は以下の通り。 

まえがき
第1章 「壮大な計画」
第2章 強制移住地、西シベリア
第3章 交渉と準備
第4章 トムスク中継収容所で
第5章 ナジノ島
むすび
エピローグ 1933-1937

 

 1933年2月、OGPU(合同国家統治機構ソ連の政治警察)長官ゲンリフ・ヤゴタとグラーグ(矯正労働収容所管理総局)局長マトヴェイ・ベルマンはスターリン宛に、西シベリアとカザフスタンに「都市と農村の反ソ分子」200万人を移住させる計画を提出しました。すでに富農(クラーク)の移送は行われており、それにつづくものとして残った富農や非協力的な農民、犯罪者などを特別居住者としてまとめて送り込もうとしたのです。計画によれば、彼らは2年間で移送定住の費用を回収できる生産活動を開始するはずでした。

 

 このころのソ連は、重工業化に必要な外貨を獲得するために大量の穀物と農産品の輸出を必要としており、そのためにウクライナをはじめとする穀倉地帯で農民からの収奪が行わていました。

 自分たちが食べる食糧や備蓄した種子までを奪い取られた農民は農村から流出し、それを防ぐためにOGPUは駅での農民を逮捕し、農民への鉄道切符の販売を禁止するなど、摘発を続けました。

 ここで問題となったのが逮捕して監獄に入れた農民をどうするかです。また、都市住民に対しては旅券を発行してその行動を管理しようとしましたが、その旅券の不携帯でも数多くの逮捕者が出ていました。さらに、この時期に都市から乞食、浮浪者、累犯者などの「社会的危険分子」を一掃する計画も立てられており、こうした大量の人間をどこに収容するかが問題となったのです。

 

 1933年2月7日、ヤゴタからOGPUの西シベリア全権代表アレクセイエフに、100万人の移住者(しかも10万人はこの冬季に)を送るので、彼らが住む場所や必要なもの、移送方法などに2日以内に情報を提供するように電報が届きます。この無謀な要求に対して、アレクセイエフは西シベリアの共産党本部のロベルト・エイヘと協議し、これを拒否する回答を送ります。

 地方当局は「管轄下の地方が「ゴミ捨て場」に変えられて由々しい危険にさらされつつあ」(34p)ると考えていたのです。

 このころのシベリアは旱魃や、飢餓から逃れようと流入した数十万のカザフスタン人の扱いに苦慮しており、地元民の間ではカザフスタン人が「ロシア人の子供を攫って食べている」(40p)という噂も流れていました。

 シベリアの都市はソ連の中でも最高の犯罪率を誇っており、盗賊団によるコルホーズへの襲撃もやまない状況でした。1930年に行われた富農の移住計画もまったくうまくいっておらず、多くの富農が死んでいきました。

 

 しかし、エイヘの反対や費用の問題があっても50万人をシベリアに送ることは決定してしまいました。しかも、予算は要求の20%にみたない額しか受け取れず、牛や馬は要求の1/3、食料品は1/4程度しか認められませんでした。

 作戦は33年5月1日に開始されることになりましたが、シベリアでは移送された人々を乗せる船などの準備はまったくできていない状況でした。一方で、いち早く厄介払いをしたかった移送元の地方幹部は5月1日を待たずに護送集団を送り出し始めたのです。

 しかも、到着した集団は、以前の富農のような自分たちの小屋をつくれるような百姓ではなく、「家族なし、道具なしの都会人であり、裸足でシャツもズボンも履いていないまったく無能な連中だった」(81p)のです。

 

 第4章では、移送者が居住指定地に送り込まれる前に集められる中継収容所の1つであるトムスク中継収容所の様子が描かれていますが、そこにあるのは終わりのない混乱です。

 4月9日に早くも第一陣が到着しますが、ほとんど全員が飢えており、寄生虫とシラミにまみれていました。15日の行程の食糧として一日あたり400グラムのパンが支給されていましたが、それらは最初の3日間ですべて消費されていたのです。

 この時期にはまだ川は凍結しており、船によって移送者を目的地に送り出すことは不可能でしたが、その間にも続々と移送者が到着し、トムスク中継収容所では4月後半に500人以上、5~6月には1700人が死亡しました。

 しかも、きちんとした名簿のなく、移送者がどのような理由で移送されてきたかもわからない状況で、調査対象の約20%が「まったく労働に不的確な老人、身障者、知的障害者、盲人」(91p)だったといいます。

 

 この本では、その移送者のいくつかのプロフィールが紹介されています(91-95p)。そのうちのいくつかを紹介します。

 

 イウヴェリナ・ペレファリアン、75歳、「ソチから聾唖者の息子と移送、理由は商人、牛の乳を搾って得た収入で生活」(写真)。アパートの同じ一室で同居していた隣人もいっしょに移送された。誤って親族とみなされたからだ。

 ピオトル・ツアリ、51歳、「仕立屋、ソチからの移送者。娘は党員、その連れあいも党員で外交官として外国駐在中。移送理由は自宅を所有していたから」

 エフゲニア・マルコフキナ、18歳、「トゥアプセから17歳の妹と13歳、5歳の弟といっしょに移住、理由は1931年に死んだ父親が悪質な商人だったこと。5歳の子は途中で死亡、だれも護送隊を離れることを許さなかったので、遺体は窓から投げ捨てられた」

 ヴェラ・ミロシュニチェンコ、「党員、党員章番号1471366。階級脱落分子として移送されようとしていた前夫のアパートに自分のものを取りにいって検挙、移送。抗議したにもかかわらずミロシュニチェンコは前夫といっしょに乗車させられ、家にもどって身分と党所属を証明する機会をあたえられなかった」

 

 これを見てもわかるように、移送者は危険分子ではない「社会のお荷物」となりそうな者や、普通の犯罪者、たまたま検挙に巻き込まれた者、さらにはモスクワなどの大都市で旅券を家に忘れた者(しかも正規の証明書を持っていたにもかかわらず移送された者もいた)なども含んでおり、しかもそれが途切れることなく移送されてきました。

 こうした雑多な者たちがまとめて移送されており、普通の人々は常習的な犯罪者に食糧や所持金や書類を奪われました。

 トムスク中継収容所では一刻も早く、これらの移送者を次の場所へ送らなければならない状況に追い込まれたのです。

 

 そこで選ばれたのがナジノ島でした。近隣の村などに彼らを降ろせば、何も持たない彼らは略奪行為に走るでしょう。とにかく人がおらず、逃亡が難しい場所が選ばれたのです。

 しかも護送に割く監視人も不足していたために、トムスクの街にいた浮浪者たちが50人ほど集められ、古びた銃を一丁あたえられて送り出されました。彼らは当然ながら移送者たちに対して略奪を行いました。

 

 5月18日。第一陣がナジノ島に降り立ちます。約5000人のうち、すでに27人が死んでおり、3人に1人はやせ衰えて自力では立てない状態でした。

 移送者を島に上陸させると、監視兵は食糧を配給しようとしましたが大混乱に陥り、配給は「班長」に任されることになりました。これにより少数の犯罪者が「班長」となり、食糧を独占しはじめました。

 5月20日になると、小麦粉袋の周りには100かそれ以上の死体が散乱していうる状態で、死体を食べはじめ、人肉を煮ているという話も聞かれるようになってきます。

 しかも、そうした行為を止めるはずの監視兵は、高価な外套や靴を持っている者からそれを奪ったり、あるいは奪うために殺しました。また、死体からは金冠が奪い取られました。

 当然、逃げようと筏などつくって逃走を試みる者もいましたが、その多くは監視兵などに撃ち殺されました。

 

 当局が調べた死体の中には肝臓、心臓、肺、乳房、ふくらはぎなどの柔らかい肉の部位、男性器などが切り取れらたものがあり、政治警察はこの人肉食を赦しがたい反乱の意図とみなし、「反革命宣伝の咎で逮捕」(132p)する命令が出ます。

 しかし、それでもナジノ島への移送は続きました。このナジノ島の惨状が上層部に伝わったのは6月の上旬になってからです。そこでようやくナジノ島からの移送が始まりますが、その途中でも多くの者が亡くなりました。

 ナジノ島の生き残りに対して、特別移住部の部長は働けば食糧もタバコもやると言いましたが、生き残りの人びとは「お前らが人民を飢えさせている。だから俺たちはおたがいを食い合っているんだ!」(140p)と答えたといいます。

 

 ナジノ島の行方不明者の4000人は、1933年の全移送者で行方不明になった者36万7457人のほんの一部に過ぎません。この36万7457人のうち、1万5106人が死亡、21万5856人は「逃亡」となっています。もちろん、この数字は信頼できるものではないですし、「逃亡」した者の多くは死んだのでしょう(165p)。

 「逃亡」した者の一部はコルホーズで盗みを働き、農民にリンチされて殺されました。

 特別移住制度は破綻し、移送者の多くは労働収容所に送られることになりました。さらに1937年になると、多くの者が裁判外手続きで銃殺されるようになっていきます。各地方にはノルマが課され、それを果たすために多くの者が銃殺されていきました。運良く生き残った「特別居住者」の多くがこのときに銃殺されることになります。

 

 このように「ひどい…」という読後感しかない本ですが、著者も書いているようにナジノ島の事例は例外的に資料が残っているだけに、悲惨の状況を克明に描くことができるのです。おそらくシベリアの各地でこのようなことが行われていたのでしょう。

 国家というものの恐ろしさを感じさせるとともに、行政機構が崩壊して各自が無茶苦茶に作動しているという国家が破綻している恐ろしさというのも感じさせる本ですね。

 

 

Ex:Re/Ex:Re

  DaughterのボーカリストElena TonraがEx:Reという名義でリリースしたソロアルバム。昨年の年末に出ていたようですが、今年に入ってから気づきました。

 “Ex:Re” の名前は「Regarding ex (元カレについて)」と「X-Ray (レントゲン)」に由来しているそうで、Elena Tonraの失恋などが影響しているのか、アルバムのトーンは全体的にダークな感じです。

 Daughterというと、Igor HaefeliのギターとElena Tonraの声が売りなわけですが、今回はElena Tonraのソロということで、ギターはそれほど目立ちません。ただ、その分リズムに関してはかなり凝っていて、Daughterとはまた違った魅力的な音をつくり出していると思います。

 特に4曲目の"Romance"は暗めのメロディでありながら、リズムとアレンジで徐々に盛り上がっていくという6分を超える曲で、これはいいと思います。

 全体的に抑制されてはいるのですが、随所にエモさがかいま見えるところがこのアルバムを通しての良い所。6曲目の"Too Sad"なんかも、一定の枠内に閉じ込められたような激しさがあって聴きどころとなっています。

 かなり抑制された曲がつづく中で、エネルギーが解き放たれているのが8曲目の"I Can't Keep You"。ギターもこの曲では目立ってますね。

 全体的になかなかいいアルバムであり、Daughterの次回作も非常に楽しみになってきました。

 


Ex:Re - Romance

 

 

待鳥聡史・宇野重規編著『社会のなかのコモンズ』

 2月28日に東京堂書店で刊行イベントがあり、ちょうどその日に読み終わっていたのですが、仕事が忙しかったりウィルス性の胃腸炎になったりで、読了後1月弱たってからの紹介になります。

 というわけで、以下はやや大雑把な紹介になりますし、また、イベントで聞いた話も受けてのまとめになっています。

 目次は以下の通り

1 歴史のなかのコモンズ

第1章 コモンズ概念は使えるか―起源から現代的用法(宇野重規

第2章 近代日本における「共有地」問題(苅部直

2 空間のなかのコモンズ

第3章 衰退する地方都市とコモンズ―北海道小樽市を事例として(江頭進)

第4章 コモンズとしての住宅は可能だったか―一九七〇年代初頭の公的賃貸住宅をめぐる議論の検証(砂原庸介
第5章 保留地というコモンズの苦悩(田所昌幸)

3 制度のなかのコモンズ

第6章 コモンズとしての政党―新たな可能性の探究(待鳥聡史)

第7章 脱領域的コモンズに社会的コモンズは構築できるか(鈴木一人)
第8章 ミートボールと立憲主義―移民/難民という観点からのコモンズ(谷口功一)

 

 まず、目次を見てもらえばわかるように執筆陣は非常に豪華です。政治学の分野を中心に現在活躍している書き手が揃っています。

 ただ、政治学とコモンズという組み合わせにはあまり馴染みがないかもしれません。コモンズといえば経済学で出てくる「コモンズ(共有地)の悲劇」がまず思い浮かびますし、人によっては法学者としてサイバー空間のルールについて活発な発言をしているレッシグの『コモンズ』を思い出すかもしれませんが、政治学の分野でコモンズという言葉が出てくることはそれほど多くない印象を受けます。

 

 一方、政治学の分野でよく語られる言葉は「公共性」です。実は意外と英語には翻訳しにくい言葉だということですが、政治学ではよく使われる言葉であり、90年代後半以降の1つのキーワードと言えるかもしれません。

 そして、この本の副題は「公共性を超えて」となっています。「「公共性」では捉えられない何かを「コモンズ」という言葉でならばうまく捉えられるのではないだろうか?」というのが本書の狙いと言えるでしょう。

 

 まず、第1章の宇野重規「コモンズ概念は使えるか」では、「コモンズ」の概念を振り返りつつ、レッシグネグリとハート、ジェレミー・リフキンというまったく立場の違う3人の論者が「コモンズ」という言葉を使っていることに注目しています(ネグリとハートは「コモンズ」ではなく「ザ・コモン」と表記してる)。

 「公共性」は人と人との結びつきに焦点を当てていますが、「コモンズ」は具体的なものを介した人間の結びつきを重視しており、そこに1つの可能性があると考えるのです。

 

 日本人が「共有地」と聞いて思い浮かべるのが、入会地でしょう。第2章の苅部直「近代日本における「共有地」問題」では、その入会地の問題をとり上げています。

 村のメンバーによって保全され、村のメンバーが利用できる入会地はまさしく「コモンズ」と言えるかもしれませんが、明治になり共同体としての村が解体され、村が行政区画として再編成されていくと、この入会地の維持は難しくなっていきます。

 この章では、そうした状況に対する柳田國男中田薫、そして戒能通孝の考えと取り組みを紹介しています。特に戒能は入会地をめぐる紛争(小繋事件)に大学教授の職を辞して関わった人物で、彼の議論と行動は「コモンズ」を考える上で参考となるものです。

 

 ここから第4章の砂原庸介「コモンズとしての住宅は可能だったか」にとびますが、住宅が「コモンズ」だというと多くの日本人は首をひねるかもしれません。この章のタイトルが「可能だったか」という疑問形になっているからもわかるように、日本人の感覚では住宅は個人の資産であり、個人が建て、個人が処分するものでしょう。

 ただ、マンション、さらには大規模な団地というと「コモンズ」のイメージが湧いてくるかもしれません。マンションのエレベーターや駐車場などの共有部分、団地の公園などはまさに「コモンズ」だと言えます。これらのものはみんなで維持していくことで、みんなの利益となり、さらに後続の世代へと引き継ぐことができるからです。

 後続の世代へと引き継ぐということからすると、一戸建てなども本来ならば「コモンズ」と考えてもいいのかもしれません。ところが、日本では中古の住宅市場が整備されていないことや新築への補助の手厚さもあって、住宅は新築し、寿命がきたら取り壊すものとなってしまっています(この辺の事情は著者の『新築がお好きですか?』を参照)。

 この章では、70年代初頭に公営住宅に対する応能家賃(住んでいる人の給与に応じて家賃が変化する仕組み)の導入の失敗に注目し、それが公営住宅の住人の入れ替えを阻むとともに、公営住宅建設を抑制していった流れを追っています。公営住宅を多くの人々が利用する「コモンズ」とする可能性はここで一度潰えたのです。

 

  第6章の待鳥聡史「コモンズとしての政党」でとり上げられている政党も、一般的な感覚だと「コモンズ」だとは思わないでしょう。「不偏不党」という言葉があるように、「党」というのは自分たちの私的な利益の実現を目指す集団であり、「党派性」という言葉は公共的なものと対立すると考えられるからです。

 しかし、20世紀末以降、経済的利益の配分を目指すスタイルの政党はその運営が難しくなっており、新たなスタイルが模索されています。著者は今後の政党に求められる機能として、政策についての情報を縮約して伝える機能と政治家をリクルートする機能をあげていますが、この2つの機能が中心であれば政党はコモンズ足りうるかもしれません。

 著者は党員にそれほど忠誠も求めないアメリカ型の政党を1つのモデルと考えていますが、アメリカの政党も現在うまく機能しているとは言い難い面もあります。とりあえず、この章では政党がコモンズとなる「可能性」を指摘していると言えるのでしょう。

 

 第7章の鈴木一人「脱領域的コモンズに社会的コモンズは構築できるか」では宇宙空間とサイバー空間がとり上げられていますが、この章で取り上げられているもの、特に宇宙空間は普通の人にも「コモンズ」と認識されやすいと思います。

 宇宙空間に所有者はいません。一方、各国が無秩序に人工衛星を打ち上げていけば、人工衛星が衝突したり、まだ衛星の残骸などの宇宙デブリによって宇宙空間は今までのように使えなくなってしまうかもしれません。まさに「共有地(コモンズ)の悲劇」が起きかねない状況なのです。また、宇宙開発を行っているアメリカ、ロシア、中国といった国々は全面的とはいえない間でも対立関係にあり、協調は難しく思えます。

 ただ、現在のところデブリを増やさないためのルールなどを各国が基本的には守っています。これは宇宙空間が有望であり、将来のことを考えるとこの空間を台無しにしてしまうことは各国が望まないからです(民間企業の宇宙開発が盛んになった場合はまた違ってくるかもしれませんが)。

 そう考えると、宇宙空間が「コモンズ」として利用される可能性は十分にあるわけです(サイバー空間に関しては攻撃者を特定しにくいという問題を抱えている)。

 

 一方、厳しいのが衰退している場所における「コモンズ」です。第3章江頭進「衰退する地方都市とコモンズ」では、北海道小樽市を事例として地方都市の現状が語られていますが、なかなか厳しいものがあります。

 例えば、商店街は一種の「コモンズ」と考えられます。商店街に人が集まっていれば、そこにビジネスチャンスが生まれますし、地域の人をつなぐ役割も果たします。ところが、ご存知のように地方では商店街の衰退が著しいです。これは大規模店の出店なども要因の1つですが、それ以外にも後継者がいない、あるいは子どもがいても他の職業との比較で継がせようとは思わないといった要因もあります。

 小樽市では1999年に15万人以上いた人口は毎年2000人ほどのペースで減り続け、2018年には12万人を割り込んでいます。こうなると商店街にとどまらず街全体でもンネットワークが形成されなくなり、イベントで出た話によると人びとはますます自己利益に閉じこもりがちになるといいます。

 こうした状況を打開するために「祭り」などのイベントが行われていますが、1992年の暴力団対策法の施行とともに祭りの担い手が市民団体や青年会議所などになった結果、「素人の主催する祭りは面白くない」(89p)と感じる中高年の人もいるそうです。

 

 第5章の田所昌幸「保留地というコモンズの苦悩」はさらに未来が見えない話です。ここではカナダの「インディアン保留地」の問題がとり上げられています。カナダは多文化共生がうまくいっている国の代表例として数えられますが、この先住民の問題に関してはうまくいっていないことがこの章を読むとわかります。

 もともと保留地は、先住民たちを辺境の地に隔離するとともに彼らを「保護」し、「文明化」する目的で設置されました。先住民を白人社会から引き離し、「善導」することで、やがて先住民たちは白人社会に馴染んでいくことができると考えられたのです。

 しかし、先住民の社会では毛皮取引の衰退とともにアルコール依存症が蔓延し、この試みは失敗に終わりました。1969年にピエール・トルドー(ジャスティン・トルドーの父)は、先住民に対する差別を撤廃するとともに保留地の土地の売買などを認めるリベラルな同化主義の路線を打ち出しましたが、先住民に特殊的な権利を与えなければ文化的に抹殺されてしまうのでは? という危惧の声が高まり、この試みは失敗に終わります。

 保留地は部族長と部族評議会によって運営されています。この形態は「コモンズ」に近く、成功している例もあるのですが、その多くはうまくいっているとは言い難い状況にあります。伝統社会が衰退する中で、「コモンズ」はうまく機能していないのです。

 

 最後の第8章の谷口功一「ミートボールと立憲主義」は変わったタイトルですが、移民や難民の問題とそれに伴う文化的な摩擦を扱っています。タイトルの「ミートボール」は、デンマークで学校給食にデンマークではメジャーなメニューであるミートボールの提供を義務付ける立法がいくつかの自治体で行われたことからきています。このミートボールは豚肉であり、背景にはイスラモフォビアがあります。

 少し前まえ、リベラルであることと多文化主義であることは両立すると考えられていましたが、オランダの政治家ピム・フォルタインなどが主張したように、近年のヨーロッパではイスラム文化がリベラルな社会を脅かすという声が高まっています(フォルタインの主張についてはこちらの記事を参照)。

 公的空間と私的空間の区別をつくってきたヨーロッパ流の立憲主義と、そうした区別を認めないイスラムの間には根本的なズレがあり、そのズレはそう簡単には解消されそうにありません。文化が大きく異なる者同士の間で「コモンズ」をつくっていく難しさを示しているといえるかもしれません。

 

 このようになかなかおもしろい論考が並んでいます。イベントでも話されていたことなのですが、「公共性」というと何か崇高なもので損得を持ち込むことは許されないような気がしますが、「コモンズ」というとコストなどが当然ながら視野に入ってきますし、また、「公共性」というとすでにメンバーシップが確立している中で成立するものというイメージがありますが、「コモンズ」に関しては「どこまでがメンバーか?」という問題が浮上します。

 まだ、明確なイメージが打ち立てられているとは言えないかもしれませんが、「公共性」よりも「コモンズ」のほうが「使いやすい」概念になっていく可能性はあるでしょうし、また、「コモンズ」は過度に観念的にならないで政治について考える1つのツールになっていくかもしれません。