北岡伸一『世界地図を読み直す』

 副題が「協力と均衡の地政学」となっているので、著者流の国際情勢分析かと思いましたが、内容としてはJICA(国際協力機構)の理事長としての仕事をまとめたエッセイとなっています。

 ただし、著者は政治学者でありながら日本の国連次席大使も務めたことがあり、さらに安保法制懇の座長代理として安保法制に関する議論を取りまとめるなど、政治色の強い人物でもあります。

 この本を読むと、そうした現在の官邸に近い外交方針と、著者の個人的な関心が垣間見えて、そのあたりにもこの本の面白さはあります。

 また、以下に示す目次からもわかるように、途上国を中心に本当にいろいろな国を訪れており、まさに「大国抜きの世界地図」といった趣になっています。

 

 目次は以下の通り。

序章 自由で開かれたインド太平洋構想――日本の生命線

第1章 ロシアとその隣国たち――独立心と思慮深さを学ぶ
ジョージアアルメニアウクライナ、トルコ、フィンランドバルト三国

第2章 フロンティアとしてのアフリカ――中国の影と向き合う
ウガンダアルジェリア南スーダン、エジプト、ザンビアマラウイ

第3章 遠くて近い中南米――絆を強化するために
ブラジル、コロンビア

第4章 「海洋の自由」と南太平洋――親密な関係を維持できるか
パプア・ニューギニア、フィジーサモア

第5章 揺れるアジア――独裁と民主主義の狭間で
ミャンマーベトナム東ティモールタジキスタン

終章 世界地図の中を生きる日本人

 

 第1章ではロシアの周辺諸国がとり上げられています。基本的にロシアという大国に圧迫を受けた歴史がある、あるいは現在進行系で圧迫を受けている国ですが、だからこそ自国のアイデンティティを大切にしています。

 著者はひるがえって日本はどうかと問いかけます。

 もし、日本人が世界へ離散するようなことがあったらアイデンティティの核となるものはなんだろう? と問い、「日本語」と「皇室」をその候補としてあげ、皇室改革の必要性を訴えています(46p)。

 最後に日ロ関係を論じていますが、北方領土問題に関しては「経済力をテコに領土問題を解決するのは、なかなか難しいだろう」(85p)と見ています。そして次のように締めくくっています。

 将来、ロシアにとって真に重要な問題は、ロシアの人口がさらに減る中で、中国の圧力にどう対応するかということである。中国のジュニア・パートナーとなる道を選ぶのか、それとも拒むのか、難しい時期がもうすぐ来るだろう。その時、日本は重要なパートナーたりうる国である。その時まで、焦らず距離を置きつつ、つきあうのがよいように思う。(85p)

 

 第2章はアフリカ。ここではウガンダに逃れてきた南スーダンからの難民への職業訓練や米作の普及などの支援や、エジプトでの日本式小学校の話が興味深いですね。エジプトのエルシーシ(シシ)大統領は、規律ある行動を非常に重視しており、日本人の規律ある行動の秘訣として小学校教育を見ているそうです。

 マラウイ訪問についての文章には、RCT(ランダム化比較試験)が全盛となっている欧米の援助に対する、日本独自の「国際協力」のあり方が次のように書かれています。

 水も電気もないところで日本人が活躍している。彼らにとって、それは人生で大きな経験になるだろうし、また現地の人が日本人は立派だと思ってくれる。それで十分ナノではないだろうか。日本では援助といわず、協力という。それは相手の立場に立って貢献しようということである。それだけでなく、協力によって、こちらにも得るところが多いということなのだろう。(119p)

 あと、ここでは従軍慰安婦の話や南スーダンPKOについても触れており、このあたりは著者の政治的立場が出ている部分と言えるでしょう。

 

 第3章は中南米。とり上げられているのはブラジルとコロンビアですが、JICAはもともと日本人の移民を支援する組織だったこともあって、日系人の活躍などが触れられています。

 ただし、現在の日本政府と日系人やその関係者とのつながりは必ずしも強いものとは言えず、著者はそうした人のつながりに課題を見ています。

 

 第4章は南太平洋の国々。パプアニューギニア、フィジーサモアといった国がとり上げられています。

 ただし、パプアニューギニアに関してはほぼ今村均の話で、著者の日本陸軍の研究者としての側面が前面に出てきています。

 フィジーサモアについては温暖化の問題などに触れられていますが、重点的に語られているのは中国の進出と「海洋の自由」の話です。

 

 第5章は「揺れるアジア」というタイトルで、ミャンマーベトナム東ティモールタジキスタンがとり上げられています。

 ミャンマーの部分では、新潟の国際大学ミャンマーの軍籍をもっている行政官を受け入れていることに対する批判について触れ、次のように述べています。

 ミャンマーの学生はとても先生を尊敬している。軍人はとても優秀である。彼らを日本に招かなければ、かれらはたとえば中国で勉強するだろう。日本にとってどちらがよいか、自明ではないだろうか。(162p)

 さらにアウン・サン・スー・チーと会談した際には、「私は、日本におけるかつての民主党政権が功を焦って失敗したことにふれ、慎重に進められることを期待すると述べた」(167−168p)とのことです。

 

 ベトナムの部分では、ベトナムにおける法整備への支援と、明治日本でのボアソナードの業績が重ねられる形絵論じられています。

 東ティモールでは現在の国づくりが、明治期の日本の国づくりと重ねられるとともに、ASEANにも太平洋諸島フォーラムにも入っていない東ティモールの不安定な状況が指摘されています。

 

  タジキスタンについての部分では、中央アジアの民族の問題や、タジキスタンの複雑な地形などにふれ、中央アジアにおいて強権的な政治が要請される理由を分析しています。「かつての内戦を知っている人、地理的な統合の困難さを知っている人なら、簡単に独裁を批判できない」(201p)のです。

 

 終章では、まず、2017年に行われたUHC(Universal Health Coverage)フォーラムと、2018年のダボス会議に参加した時の様子が語られています。このような国際会議でが何が話され、どんな意義があるのかということが見えるようになっており、面白いと思います。また、ビル&メリンダ・ゲイツ財団がいずれの会議でも存在感を示しており、こうした大金持ちの動きが国際政治にどのような影響を与えていくのかという部分は興味深いです。

 あとは、中曽根康弘が行った1950年の世界一周と、高校に積極的に留学生を受け入れるなど独自の地域活性化をはかっている島根県隠岐の島の海士町のことが語られています。

 

 このようにこの本は、まずJICAの理事長としての活動の記録であり、JICAの理事長として訪れた発展途上国から見た国際情勢を語る本でもあります。そこがいわゆる大国の動きを中心に世界を語る「地政学」とは一線を画しているところでしょう。

 同時にこの本には、「学者」としての北岡伸一と「政治家」としての北岡伸一の2つの側面が現れており、そこも興味深いと思います。

 もちろん、学者が現実の政治にコミットすることに対して批判する向きもあるでしょが、昨今の大学を取り巻く状況を見れば、学問の営みが社会から隔絶した形で行われていくというのも難しいわけで、著者のスタンスに反対の人でも、「学問と政治」を考える上で目を通しておいても良いのではないかと思います。

 

 

『天気の子』

 なかなかいいんじゃないでしょうか。

 さすがにエンタメのとしての完成度は『君の名は。』に劣ると思いますが、新海誠作品で「世界か君」かどちらを選ぶとすれば、「君」の一択であってストーリーの大筋は見えるているんですけど、あのラストは力強い。まさにポスト東日本大震災の想像力だと思います。

 

 『君の名は。』と同じくボーイ・ミーツ・ガールもので、少年は少女を救おうとし、少女は世界を救う力を持っている、このあたりも同じです。

 ただし、都会、田舎の違いはあれど、そこそこ豊かな生活を送っていた瀧と三葉に比べると、今作の二人の帆高と陽菜は、事情はあれども貧しい。そんな貧しさの中でも、帆高と陽菜、さらに陽菜の弟の凪がジャンクフードを囲む食の風景は、本作では幸福の1つのシンボルとして描かれており、不況(雨)の中を生きる若者の幸福の肯定なのではないかと思います。

 こうした、食への注目とか疑似家族とかは『万引き家族』にも通じるテーマで、『君の名が。』にはなかった社会批評的な側面がある映画だと思います。

 

 そして、とにかく主人公の帆高がラストに向けて行動し続けるのも、今までの新海作品との違いかもしれません。

 新海作品は、それこそ『秒速5センチメートル』に見られるような「あり得たかもしれない過去への諦念」のようなものがあるんだけど、今作はそれをしまいこみつつ、最後まで駆け抜けます。

 ただし、それでもこの物語の背景には、より大きな日本人の自然への諦念みたいのがあって、その「諦念」を帆高が「覚悟」に読み替えていくラストが上手い。

 もし、この物語が代々木のビルとその屋上で終わっていたら、「まあまあかな」くらいの感想だったと思うのですが、最後に東日本大震災を経験していないとなかなか思いつかない設定を見せつつ、ラストへ至るのですが、このラストは『君の名は。』と同じようでいて、それよりも力強い。

 『君の名は。』に負けない力を持った映画になっているのではないでしょうか。

 

アンドレアス・ヴィルシング、ベルトルト・コーラー、ウルリヒ・ヴィルヘルム編『ナチズムは再来するのか?』

 AfD(ドイツのための選択肢)の躍進などによって混迷が深まっているドイツ政治ですが、そうなると取り沙汰されるのが、この本のタイトルともなっている「ナチズムの再来」です。

 確かに2017年の総選挙でAfDは一気に94議席を獲得し、既成政党への不満の受け皿となりましたが、2019年の欧州議会選挙においてAfDの得票は11%ほどにとどまり、その勢いは薄れているようにも思われます。

 ただ、それでも「ナチズムの再来」が取り沙汰され、それが世界的な注目を集めるのがドイツという国家の宿命なのでしょう。

 

 本書はそんな声に対して、ドイツの歴史学者政治学者が集まってつくられたものです。もともとドイツのバイエルン放送と『フランクフルター・アルゲマイネ新聞』でメディアミックス的に展開されたエッセイを再構成したもので、20ページ弱の論考が並んでおり、読みやすいボリュームとなっています。

 原題は「ヴァイマル状況? われわれの民主主義にとっての歴史的教訓」で、AfDとナチの類似点をさぐるというよりは、政治、経済などさまざまな状況が、どのていどヴァイマル期と似ていて、どの程度似ていないのか、ということを考察したものとなっています。

 また、後述しますが、訳者の一人の小野寺拓也の「訳者あとがき」も本書の読みどころの1つではないかと思います。

 

 目次は以下の通り。

第1章 〈政治文化〉 理性に訴える(アンドレアス・ヴィルシング)
第2章 〈政党システム〉 敵と友のはざまで(ホルスト・メラー)
第3章 〈メディア〉 政治的言語とメディア(ウーテ・ダニエル)
第4章 〈有権者〉 抵抗の国民政党(ユルゲン・W・ファルタ―)
第5章 〈経済〉 ヴァイマル共和国の真の墓掘人――問題の累積をめぐって(ヴェルナー・プルンペ)
第6章 〈国際環境〉 番人なき秩序――戦間期国際紛争状況と軍事戦略の展開(ヘルフリート・ミュンクラー)
第7章 〈外国からのまなざし〉 不可解なるドイツ(エレーヌ・ミアル=ドラクロワ
おわりに 警戒を怠らないということ(アンドレアス・ヴィルシング)

 

  第1章のテーマは「政治文化」。著者のアンドレアス・ヴィルシングは「ヴァイマル共和国の政治文化の際立った弱点は、社会が多元的であるとこの正統性に対する根深い不信である」(3p)と述べています。

 こうした考えが大連立を志向させ、それが議会制の機能不全に寄与したのです。また、こうした態度の根底には共同体(ゲマインシャフトイデオロギーがあり、この考えは共同体の敵や撹乱者を排除すれば、国民的な統一が実現できるというものでした。

 この、ある種の「敵」を排除できれば社会は良くなるはずだという態度は現代のポピュリズムにも通じるものです。ヒトラーの主張なども今風に言えば「ポスト・真実」と言えるのかもしれません。

 しかし、当然ながらヴァイマル期との違いは大きいです。多元的な民主主義への信頼は揺らいではいません。ただし、同時に著者は見通しが不透明なグローバル化の中で、見通すことが可能な単位である国家に立ち戻ることが魅力的になっているとも指摘しています。

 

 第2章のテーマは「政党システム」。その国にいくつの政党があってどういう力関係になっているかなどを示すものが政党システムです。ヴァイマル期には最大で14の政党が国会に議席をもっていましたが、現在は7つの政党からなる6つの会派であり、まず数からして違いがあります。

 ヴァイマル期の政党の多くは「階級と強く結びついた世界観政党」(20p)であり、階級の縛りにとらわれなかったのはカトリックの中央党とプロテスタントドイツ国家国民党くらいでした。

 こうした状況において政治的妥協は難しく、選挙の際に与党であることがプラスではなくむしろマイナスに働くようになります。そして、議会における合意はますます難しくなっていったのです。

 一方、現在のドイツにおいて代議制民主主義への信頼感は強く、5%条項により極端な主張を持つ小政党の乱立も避けられています。

 個人的には最後のほうにあった次の部分に、「ドイツだなあ」と感じました。

経済的にひどく弱体化していたヴァイマル共和国は、深刻な社会問題から600万人の失業者とその家族を解放することができず、そのことが彼ら彼女らを過激な政党のもとへ走らせることとなった。強い経済力を備えた連邦共和国は、およそ500万人の失業者を抱えた時期も、深刻な財政危機も、比較的うまく乗り切ることができた。したがって、財政健全化は、決してそれ自体が目的なのではなく、むしろ財政的に安定した国家が深刻な経済危機に際して不可欠な社会的緩衝装置となることを可能にするものなのである。(30p)

 

 第3章は「メディア」。著者のウーテ・ダニエルは、1932年に発覚したドイツの東部国境警備に当たっていたナチ党の突撃隊がポーランド軍が攻めてきた際には敵軍とではなく「11月の犯罪者」(第一次大戦末期にドイツ軍を背後から攻撃してドイツを敗北させた左派とユダヤ人)を攻撃することになっていたというヒトラーの命令の扱いから話を始めています。

 これは大きな問題であり、この問題の発覚を受けてほとんどの州政府が突撃隊の禁止を支持しました。ところが、一時は禁止を支持したヒンデンブルクが態度を変えたことで、突撃隊は解体されず、ヒトラーの政権参加への道も閉ざされることはなかったのです。

 こうなった背景の1つに当時のメディア状況があります。この命令の存在は当時の新聞も知っていましたがいわゆるオフレコ扱いで、賠償交渉でのドイツの立場が悪くなるという理由で公開を渋る政府の要請に従う形で各社とも大々的な報道を控えたのです。

 政治家とジャーナリストの距離の近さがこうした新聞の動きの背景にあり、この距離の近さは第一次大戦中の報道統制などによって強化されていました。

 さらにこの時期の新聞の多くは特定の政党と結びついており、その論調が政治家の行動を縛っている側面もありました。

 では、現在はどうかというと、政治家とジャーナリストの関係の近さはいつの時代でもあるものだが、イデオロギー的な分断はヴァイマル期ほどではないと見ています。

 

 第5章は「経済」。結論としては「世界恐慌に対してブリューニングが負うべき責任は小さいし、ブリューニングが犯したとされる誤りから学んだと主張される政策が成功したから、世界金融危機が大した損害をもたらさなかったというべきではない」(83p)との結論ですが、そうなんですかね?

 

 第6章は「国際環境」。ヴァイマル期と現代で一番違うのがこの国際環境と言えるかもしれません。

 第一次大戦後の時代は「西欧的観点から「戦間期」と呼ばれるものは、中東欧・南東欧にとっては、内戦とも国家間戦争ともはっきりしないような戦争が漫然と続く時代」(89p)で、中東欧とバルカン地域は残虐行為の頻発する戦争地帯となっていました。

 戦勝国の新しい国際秩序に対するスタンスも一致せず、戦間期の国際関係は「番人なき秩序」(95p)というべきものでした。

 これに対し、冷戦崩壊後はEUの東欧への拡大が急速になされるなど、この地域の問題に対して一致して対応しようという姿勢がありました。ただし、冷戦時にいたアメリカとソ連という「番人」はいなくなり、「現在のヨーロッパは再び「番人なき秩序」となっている」(96p)とも言えるのです。

 

 第7章は「外国からのまなざし」。経済状況などをみれば現在のドイツとヴァイマル樹のドイツは大違いです。ただし、周囲の国はドイツを歴史的に見て特別な国だと見なす傾向があります。

 したがって、ヴァイマルの再来が目前に迫っているのかどうかという問いは、ひとつのパラドックスを投げかけている。たしかにこの点についてはなんの裏づけもない。けれども、不安の声はしばしばドイツ本国よりもその国外で頻繁にあがってはいないだろうか?(102−103p)

 本来であれば、国外の観察者のほうが客観的にヴァイマル期と現在の異同を認識できそうなのに、そうはなっていないという見立てです。

 こうした見方に対して著者は現在のドイツの民主主義の堅固さと、ドイツの市民社会やメディアが古い民族主義の出現を抑えていると主張し、次のように書いています。

 民主主義に敵対的な諸勢力は20世紀前半の民族(Volk)や国民(Nation)のイメージを受け継ごうとしている。[東欧諸国の]共産主義政権が倒壊してからというもの、そうしたイメージは移行期の社会にとって歓迎すべきアイデンティティの受け皿となった。なぜならそれら諸国は、過去との取り組みや、安全かつポストナショナルな価値規範のヨーロッパで規模での構築といった、西欧的な道を経由してこなかったからである。ここに、「ヴァイマル状況」が裏口から舞い戻ってくるための足場が存在するのだろうか? これはとりわけ東欧でみられるものの、徐々に西欧でもみられるようになるのだろうか?(111−112p)

 

 ここで疑問が浮かぶのですが、この著者(エレーヌ・ミアル=ドラクロワ)の中では旧東独地域はどのような扱いになっているのでしょうか?

 この考えからすると、共産主義の東欧諸国の1つである東ドイツは当然ながら西欧的な道を経由しておらず、20世紀前半の民族(Volk)や国民(Nation)のイメージが復活するのも当然という気がしていきます。 

 そうなると、現在のドイツの危機はヴァイマル期の再来というよりは、現在進行しているハンガリーポーランドにおける民主主義の動揺と重なるものなのかもしれません。

 ここまで読んできて、この本は「東ドイツ」というファクターがほとんど無視されていることがわかりました(正面から取り上げにくい問題だということもわかりますが)。

 

 このように本書はいくつか興味深い部分はあるものの、個人的には肝心な部分を取り逃がしているようにも思えるのですが、実は本書にはもう1つの読みどころがあって、それが訳者の一人の小野寺拓也の「訳者あとがき」です。

 「過去と現在を安易に比較すべきではない」、「歴史から教訓を引き出すべきではない」ということは、歴史学の中でよく言われることです。これに対して小野寺拓也は過去を過去として捉えることの重要性を認めつつも次のように述べています。

 時間の中に自分自身を位置づけていく」という、人間にとって根源的ともいえる営みに対して、「過去は過去、現在とは違う。安易に比較や教訓をいうべきではない」というだけで、(さきに述べた危うさや落とし穴はその通りだとしても)歴史学が社会から求められている役割や機能を果たせるのだろうか。歴史学(とくに外国史研究)が「ある種の選ばれし優秀な少数者向きの外国趣味」で終わってしまっては、多くの人びとの要請に応えることはできないのではないだろうか。(142p)

 

 その点、本書はあえて「比較」を試み、「教訓」を探った本と言えるかもしれません。その試みがどのくらい成功しているかはともかくとして、この「訳者あとがき」には他にもいろいろと重要なことが書いてあり、一読をおすすめします。

 

 ちなみに「歴史学が歴史から教訓を引き出すべきではない」という主張が正しいのかどうかは判断が付きかねますが、「歴史から教訓を引き出すべきではない」という主張は間違っていると思います。もし、この本でも言及されている世界金融危機においてバーナンキ世界恐慌に対するFRBの失敗という「教訓」を引き出していなかったら(もちろんバーナンキの前にミルトン・フリードマンとアンナ・シュウォーツの研究があるわけですが)、私たちはもっと深刻な打撃を受けていたでしょうから。

 

 

デニス・ジョンソン『海の乙女の惜しみなさ』

 先週、レベッカ・ステイモスという聞いたことのない名前の女性から電話があり、共通の友人であるトニー・ファイドが他界したと知らされた。自殺だった。彼女が言ったように、「みずから命を絶った」。

 二秒ほど、その言葉の意味が分からなかった。「絶った……なんてことだ」

 「そうです。自殺してしまったようで」

 「どうやって死んだかは知りたくない。それは言わないでくれ」。正直言って、どうしてそんなことを言ったのか、今でもまったく想像がつかない。(31p)

 

 『ジーザス・サン』や『煙の樹』などの作品で知られるデニス・ジョンソンの第2短編集にして遺作となった作品。

 人生のどん底、最悪の瞬間のようなものを見事に掬ってみせるのがデニス・ジョンソンの作品の特徴ですが、今作は遺作ということもあるのか「老い」というテーマも感じさせます。

 冒頭に紹介したのは表題作「海の乙女の惜しみなさ」の一部分ですが、この作品はまさにそうした特徴がよく現れています。

 広告業界で働く初老の男が主人公で、彼の人生や体験が断片的に語られていきますが、そこには確かにみじめな経験があるとともに、いくつかの出会いがあり、喪失があります。

 

 つづく「アイダホのスターライト」は、アルコール依存症の治療センターにいる男の書いた何通もの手紙という形式を取った作品です。これはまさにデニス・ジョンソンの得意とする最悪な状況を描いた作品と言えるかもしれません。

 

 次の「首絞めボブ」も刑務所を舞台とした作品で、最悪な状況、どうしようもない人物が描かれているのですが、最後になって「この場所は魂の交差点みたいなものなんじゃないか」(113p)と哲学的なレベルに突入します。

 

 4つ目の「墓に対する勝利」は、大学で創作を教えていた主人公が教え子を連れて、牧場に住むダーシー・ミラーという作家に会いに行くが、その後、ミラーについて心配なことがあると連絡を受け…という話。ここでは「老い」が限りなく「死」に接近している感じでちょっとホラーっぽいですね。

 

 最後は「ドッペルゲンガーポルターガイスト」という話ですが、これはちょっと他のジョンソンの作品とは違った印象を受ける作品です。

 主人公は大学で創作を教えている人物ですが、そこでマーカス・エイハーンという才能豊かな若者に出会います。実際に彼は詩人としてその名を知られていくことになるのですが、彼はエルヴィス・プレスリーに取り憑かれている男でもありました。

 しかも、単純なファンというわけではなく、エルヴィスが生まれた時に死んでしまったとされる双子の兄弟(ジェシー・ガーロン・プレスリー)が実は生きているという一種の陰謀論に取り憑かれているのです。

 この話はエルヴィスの謎というのもコテコテの陰謀論で惹かれますし、ラスト近くの9.11テロのエピソードの入れ方などもはまっていて、面白いと思います。

 

 <エクス・リブリス〉シリーズの第一弾が、このデニス・ジョンソンの『ジーザス・サン』で今ブログを振り返ってみたらあれから10年なわけですが、実際にアメリカで発行された年から考えると、『ジーザス・サン』から、この『海の乙女の惜しみなさ』まで26年の月日が流れているわけで、その月日も感じさせるような短編集でした。

 

 

遠藤晶久/ウィリー・ジョウ『イデオロギーと日本政治』

 まず、この本のインパクトは帯にも書かれている、「維新は「革新」、共産は「保守」」という部分だと思います。

 若年層に政党を「保守」、「革新」の軸で分類されると、日本維新の会を最も「革新」と位置づけるというのです。そして、以下のグラフ(134p図5.1)から読み取れるように、20代が無知だからというのではなく、20〜40代に見られる現象なのです。

 

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 本書は、さまざまなサーベイなどを通じて現在の日本の有権者の政治意識を明らかにしようとした本です。ソ連の崩壊や社会党の退潮、小選挙区比例代表並立制の導入と新進党民主党といった野党の誕生の中でも、政治を語る言葉はそれほど変化しませんでしたが、冒頭にもあげた「保守/革新」の変容などをサーベイによって示すことで、若い世代に起きている政治認識の変化を浮き彫りにしています。

 さらに都知事選に出馬した田母神俊雄の支持層から分析した日本の極右層の姿や、若者の「自民支持」のからくりなど、いくつかの興味深い知見が明らかになっています。

 

 目次は以下の通り。

序章 はじめに
第1章 有権者におけるイデオロギーの変化
第2章 世代で捻れるイデオロギー対立
第3章 イデオロギーと投票行動
第4章 イデオロギーと政治参加
第5章 イデオロギー・ラベルの比較
第6章 改革志向と保守・リベラルから見る政党対立
第7章 日本における極右支持
第8章 若者の保守化?
第9章 おわりに――比較の中の日本のイデオロギー
あとがき

 

 まず、イデオロギーという概念ですが、本書では「有権者が政治的な政治の意味を理解し、様々な政策争点について政党の立場の違いを理解し、それにしたがって投票所で選択をするための地図を構成する、その枠組みである」(14p)としています。

 この「枠組み」が世代によって異なっているというのが本書の主張の1つになります。

 

 世界的に見て、多くの国で「右/左」というイデオロギーによるラベルが用いられており、それは資本と労働の間の亀裂として捉えられてきました。日本では慣用的に「右/左」よりも「保守/革新」のラベルが用いられることが多く、また対立軸としては安全保障をめぐる問題が重視されてきました。

 

 第1章では過去の世論調査の回帰分析を行うことで、改めて過去の日本人がどのようにイデオロギーを把握してきたのかが分析されています。

 過去の質問に安全保障や外交に関するものが多いということもあるかもしれませんが、収入とイデオロギー位置の関連性はあまりなく、農村と都市の差もあまりありません(農村=「保守」というわけではない)。また、福祉サービスの問題や女性の地位向上などもイデオロギーとの関連性はあまりなく、「保守/革新」を分ける1つのポイントと考えられがちな天皇の役割に関しても特にイデオロギーとの関連性はありません。日本のイデオロギー位置は安全保障、外交、歴史問題といった限られたイシューの中で成立していたことがうかがえるのです。

 

 第2章では世代とイデオロギーラベルの関係を分析しています。年長世代と若者の価値観の差を説明するものとして、世代効果と加齢効果があります。つまり、生まれ育った時代が価値観を大きく規定するという考えと、多くの人は加齢とともに一定の価値観を身につけるようになり、それが年長者と若者の価値観の違いを生むという考えです。

 日本では、年長者ほど自民党共産党イデオロギーの差を大きく認識する傾向があり、逆に若者はこの差を小さく認識しているのですが、本書ではこれを加齢効果というよりも世代効果の帰結としてみています。

 世界的に政治の分極化が進んでいると言われていますが、日本ではむしろ選挙制度改革の影響もあってイデオロギー対立の収斂が進んでおり、加齢効果もあまり働いていないのです。

 そして、冒頭にも紹介したように若者の間では「保守/革新」というイデオロギーが無効になりつつあり、共産党が「保守」と位置づけられ、日本維新の会みんなの党が「革新」と位置づけられているのです(69p図2.5参照、この調査は2012年に行われたのでみんなの党が入っている)。 

 

 第3章で分析されているのはイデオロギーと投票行動の関係です。日本の有権者がどの程度イデオロギーに従って投票行動を行っているかということが分析されています。

 分析結果によると、かつては確かにイデオロギーが投票行動に影響を与えていましたが、2010年になると保守側(自民党)への投票についてはイデオロギーの影響が残っているものの、革新側(社会党民主党共産党)への投票についてのイデオロギーの影響はほとんどないとのことです。90年代以降、「革新」というイデオロギーが大きく揺らいだことがうかがえます。

 また、イデオロギーは年長者世代に影響を与えている一方、若い世代の投票行動への影響は弱まっています。

 

 第4章は政治参加全般とイデオロギーの関係について分析されています。政治参加を「投票行動」、「選挙運動」、政治家への陳情や自治会の活動などの「システム支持行動」、市民運動への参加やデモなどの「エリート挑戦行動」という4つに区分し、それぞれとイデオロギーの関係を明らかにしようとしています。

 「投票行動」、「選挙運動」への参加とイデオロギーの関係はあまりありませんし、「システム支持行動」に関しても特定の世代(1944−58年生まれ)を除くと、あまり関係がありません。

 一方、「エリート挑戦行動」については「革新」であるほど参加しやすい傾向が見られます。ただし、若い世代に限るとこの傾向はなくなっています。多くの民主主義国で投票率が低下する一方で、若者がデモなどに参加する傾向が見られますが、日本ではその傾向があまり見られないのです(ただし、この分析は2010年までしかカバーしておらず、反原発デモやSEALDsの活動が注目されてからどうなったかはわかりません)。

 

 第5章は冒頭にあげたグラフが載っている章で、本書の1つの読みどころと言えるでしょう。

 最初に述べたように「保守/革新」というイデオロギーの対立軸は年長世代と若者の間で理解が異なってしまっています。若年層では「改革」を標榜する日本維新の会みんなの党を「革新」と認識しており、この用語は旧来のイデオロギーを把握する上で適当な用語とは言えなくなっているのです。

 

 ただし、「革新」という言葉はいかにも古めかしいものであり、若者には理解されにくい用語と言えます。

 そこで「保守/リベラル」であればどうかというと、実はここでも20代と30代は自民、民主、日本維新の会みんなの党共産党の5つの政党の中で日本維新の会を最も「リベラル」と認識しています(136p図5.2参照。もっとも、リベラルの語源を考えれば、この理解もわからなくはない)。

 一方、「右/左」のイデオロギーに関しては20代〜60代まで、すべての年代が右から順に自民、日本維新の会みんなの党民主党、共産という順番で並べています(137p図5.3参照)。この図式は崩れていないと言えるでしょう。

 ただし、若年層になればなるほど自民と共産の距離は近づきますし、若年層ではこの「右/左」のラベルに対して「わからない」と答える割合が「保守/革新」、「保守/リベラル」に比べてかなり多いそうです。「右/左」のラベルを使うのが適切であるとも言い難いのです。

 また、政策争点に関してがどれくらいイデオロギーと関係があるのかというのも世代によって違いがあり、例えば、原発再稼働は高齢層にとってはイデオロギーに関わる問題ですが、若年層ではそれほどではありません。

 日本におけるイデオロギーの理解や位置づけは世代によって大きな違いがあるのです。

 

  第6章は、こうした曖昧になったイデオロギーに「改革志向」という次元を付け加えることで、有権者の政党観を捉えなおそうとしたものです。

 2017年の調査に基づいて分析が行われていますが、ここでも50歳以上と49歳以下を分けて分析することで、世代間の違いを浮き彫りにしようとしています。対象となっている政党は、自民、民進、公明、日本維新の会、共産の5つと無党派層、さらに回答者自身のポジションについても聞いています。

 

 その結果、年長者は改革志向では大きい順に自民、日本維新の会民進・共産・公明がほぼ団子という形で並べています。一方、無党派を一番改革志向が弱いと見つつ(無党派層を政治に関心を持たない層と認識しているのか)、回答者自身の改革度合いをどの政党よりも大きいものとしています。

 一方、49歳以下では改革志向は大きい順に日本維新の会、自民、回答者自身、無党派層民進、公明、共産となっています。また、「保守/リベラル」の広がりよりも改革志向の度合いの幅が広く、年長者と比べて改革志向の度合いで政党を認識していることもうかがえます。

 ここで注目すべきは50歳以上では、回答者自身のポジションに近い政党は存在しないものの、49歳以下の回答者に関しては回答者自身のポジションと自民党がかなり近いということです(164pの図6.1、図6.2参照)。

 ちなみに本章の最後で、イデオロギー・ラベルに関する混乱は有権者だけでなく政治間も見られることで、「寛容な改革保守」と自らを位置づけた小池百合子が、実は「改革」と「リベラル」に支えられており、保守色の押し出しと「リベラル」の排除がその支持基盤を失わせたと指摘しています(177p)。

 

 第7章は「日本の極右支持」と題して、2014年の都知事選における田母神俊雄の支持層を分析しています。

 日本では自民よりも右のポジションの政党が長続きしたことはなく、なかなか「極右支持層」の実態を明らかにすることが難しい状況が続いています。ところが、2014年の都知事選では明らかに自民よりも右寄りの候補が現れ、なおかつ、一定の支持を集めたのです。

 

 田母神俊雄に投票した有権者の特徴ですが(東京都の有権者を対象にしたウェブ調査のため実際に投票した人とはずれている可能性もある)、まず平均年齢は42.6歳と他の3候補(舛添、細川、宇都宮)よりも5歳以上若く、男性が63%を占めます。このあたりは西欧諸国の極右支持層と重なります。

 ただし、失業者が多いわけでも学歴が低いわけでもありません。さらに国会や政党への信頼は細川・宇都宮支持者よりも高く、都政、国政に対する満足度も高く、国政への満足度に至ってはどの候補の支持者よりも高いです(191p図7.1参照)。

 田母神支持者は、既存の政治やエリートを否定する、いわゆるポピュリズムの支持者とはまったく違った存在で、権威主義ナショナリズムといった旧来の左派的な価値観に対抗するものに動かされている、いわば昔ながらの右派といった傾向が強いのです。

 今のところ、自民よりもさらに右の極右ポピュリストが台頭する余地は小さいのかもしれません。

 

 第8章では「若者の保守化」という言説をとり上げて、それが本当かどうかを実証的に分析しています。本書のもう1つの読みどころと言えるかもしれません。

 今まで加齢とともに自民への支持が増える傾向にありましたが、近年の国政選挙の出口調査を見ると、20代の若者における自民の得票率が高いことがわかります。世界的に見て、若者は左派的な傾向を持つにもかかわらずです。この謎を鮮やかに解き明かしたのが本章になります。

 

 まず世界価値観調査をもとに国際比較を行うと、日本の若者は特に右傾化していません。2010年代の若者(30代以下)の右派は10.8%と1990年代の10.3%とほとんど変わりませんし、スウェーデンニュージーランドアメリカといった国よりもずいぶん低い割合になっています(ドイツやオーストラリアよりは高い、216p図8.1参照)。

 一方、左派の割合を見ると、予想に反して日本の若者の左派の割合は1990年代の10.3%から2010年代の17.0%へと大きく上昇しています。むしろ若者は左傾化しているのです(219p図8.3を見ると、世界的にやや左傾化しているのが見て取れる)。

 

 この謎を解く鍵の1つが自民党が左派からも票を得ていることです。日本の若者の中の右派は当然ながら自民に投票するわけですが、左派の3割ほども自民に投票すると答えており、その割合は民主党とほぼ拮抗していることです(222p図8.5参照、ここでは2010年と2014年のデータが使用されている)。

 さらに日本の右派の17.5%が支持する政党がないと答えているのに対して、穏健左派では42.7%、左派では50%が支持する政党がないと答えています(224p)。つまり一般的に「左派」と考えられている政党が左派の若者の支持を集めることができていないのです。

 

 この他、安倍内閣の支持について聞く問に対して「わからない」と答える若者が多いこと、野党支持が少なく無党派が多いことなどから、若者の選択肢は「自民か野党か」ではなく、「自民か無党派か」であり、投票行動も「自民か野党か」ではなく「自民か棄権か」になっていると考えられるのです。そして、これが出口調査で若者の自民の得票率が高く出るからくりです。

 こうした分析を承けて結論では、「イデオロギーについていえば、なぜ日本の有権者(特に若者)が保守化したかではなく、自民党がどのように左派からの支持を取り付けているのかが問われるべきである」(230p)と述べています。

 さらに「若者自体はイデオロギー軸上の真ん中に留まって、政治に関心を払ったり払わなかったりしているのだが、それと同時に、左側の選択肢に対する信頼を失っている状況が、表面上は保守化のように見えるのであろう」(230p)とも述べています。

 問題は若者の右傾化や保守化ではなく、自民以外の政党の訴求力のなさなのです。

 

 最後の第9章では非常に簡単なものではありますが、イタリアとの比較を行い、日本の特徴を取り出そうとしています。

 

 このように本書は非常に興味深い知見を与えてくれる本だと思います。

 この本で明らかにされている事実は、個人的には驚きというものではなく、比較的しっくりと来るものだったのですが、だからこそ面白いという部分もありました。

 例えば、高校生相手に授業をしていて「保守/革新」、「右/左」という言い方にピンときていないのはわかっていましたし、「若者の右傾化」といっても、そういう若者はいても少数で、大多数は右や左を気にしていないということも知ってはいましたが、改めてこうしたデータに基づいた分析を見せられると、マスコミの言説と自分の感覚のズレがきれいに埋められていくようで非常にスッキリしました。

 

 実証分析を中心とした専門書で、とっつきにくさはあるかもしれませんが、政治に興味のある人は面白く読めると思いますし、政治報道に携わる人や野党の関係者や支持者にはぜひ読んでもらいたい本ですね。

 

 

 

椎名林檎/三毒史

 椎名林檎の4年半ぶりのオリジナルアルバム。圧倒的に良いのは宮本浩次をフィーチャーした"獣ゆく細道"で、宮本浩次の歌手としての力量をいかんなく見せつけた1曲で、暴走していきそうでありながら、1つも音を外さないボーカルは本当に見事です。

 エレファントカシマシの曲にもいいのがありますが、宮本浩次の歌手としての潜在能力を引き出したという点で、椎名林檎の見事なプロデュースの腕が発揮された1曲と言えるでしょう。

 

 ただ、プロデューサーとしての椎名林檎の見事さは確認できても、今までにあった歌手としてのエモさのようなものはほぼなくなったといえるかもしれません。前作でも「ありあまる富」などには椎名林檎の歌手としてのエモさがあったと思うのですが、このアルバムを聴いても特にそういったことを感じることはありません。

 もちろん衰えたというわけではないのですが、かつてあった過剰さのようなものはなくなったのかもしれません。以前は、椎名林檎の歌というのは明らかに過剰さがあって、それに対抗するかのように亀田誠治が過剰な音作りをしていた部分があったと思うのですが、このくらい落ち着いてくると、今までのような過剰な音作りは必要ないかもしれません。

 このアルバムだと、"TOKYO"、"長く短い祭"くらいの音がちょうどよい気がします。

 

 もっとも、トータス松本を起用した"目抜き通り"なんかは派手な音が歌にマッチしているわけで、こうした派手な感じの曲をつくるのも上手いと思います。

 椎名林檎は、今後はプロデューサーとして派手な音作りを続けていくか、歌い手としてもうちょっとシンプルな音を作っていくのか、どっちの方向に進んでいくのかな? と思いました。

 


椎名林檎と宮本浩次-獣ゆく細道

 

 

『海獣の子供』

 五十嵐大介の長編漫画を、松本大洋の『鉄コン筋クリート』などを手がけたSTUDIO 4℃が映画化したもの。

 まず、とにかくアニメとしての表現は素晴らしい!

 五十嵐大介の線が多くて動かしにくそうなキャラクターを見事に動かしているし、前半に見られるこった構図も魅力的。

 そしてなんと言っても海と海の生物の表現がきれいだし迫力がある。クジラの描き方にしても、普通の実写では見られないような肌の質感の見せ方とかがあってすごいですし、海の描写もCGをうまく使いながら鮮やかに見せています。

 日常の中の幻想的な風景とかもアニメならではの表現という形でうまく見せていますし、映像は文句なしです。

 

 一方、ストーリーは長い話をうまく再編集できなかった感じもあり、80年代以降繰り返されているニューエイジものの変奏に見えてしまう。

 主人公の琉花が、夏休みのはじめに海という名前のジュゴンに育てられた不思議な少年に出会い、そして世界の秘密のようなものに近づいていくのですが、その世界の秘密を解説する周囲の人物のセリフが多すぎて、説明的なんですよね。

 おそらく、原作にもあるセリフなんでしょうが、長い原作の中にばらばらに配置されていればそれほど気にならなくても、2時間の映画の中で連発されると、ややうるさくも感じます。

 せっかく、映像の圧倒的な力があるので、ここは下手に説明せずに感覚的にわからせるような方向でも良かったのではないかと思います(この点、アニメの『AKIRA』は「アキラが何なのか?」とか「結局、何が起こったのか?」をあんまり詳細に説明しようとしなかった点がうまかったと思う)。

 ちなみに主人公の声が芦田愛菜なんですが、芦田愛菜は本当になんでも器用にこなせますね。