ピョン・ヘヨン『モンスーン』

 白水社の<エクス・リブリス>シリーズの1冊ですが、<エクス・リブリス>でも前回配本がハン・ガン『回復する人間』で今作も韓国の女性作家の短篇集。韓国文学は本当に勢いがありますね。

 ハン・ガンと同じく、この『モンスーン』の作者のピョン・ヘヨンも1970年代の生まれ女性ですが、読んだ印象はずいぶん違います。この短篇集から受ける印象はずばりカフカですね。

 

 収録作品は以下の通り。

 

モンスーン
観光バスに乗られますか?
ウサギの墓
散策
同一の昼食
クリーム色のソファの部屋
カンヅメ工場
夜の求愛
少年易老

  

 この中で、最後に置かれた「少年易老」だけは少し違う部分もあるのですが、他の作品が描くのはカフカ的な世界です。

 「観光バスに乗られますか?」はSとKという二人の会社員が上司から頼まれた重い荷物を運ぶ物語です。中身のわからない重い荷物を上司の指示にしたがって運んでいくのですが、二人はどんどんと見知らぬ田舎へと迷い込んでいきます。

 「ウサギの墓」はある都市の情報を集めるという仕事をするためにまた別のある都市に派遣されてきた男の話。その都市にはかつてペットとしてブームになったウサギが捨てられ野生化しています。主人公の男はそのウサギを拾い、仕事を続けていくのですが、その仕事は謎なままです。

 「同一の昼食」は大学でコピーを取る仕事をしている男の話。彼は毎日同じ電車に乗って職場に行き、同じ食堂の同じ場所で日替わりランチを食べ続けているのですが、ある日、行きの電車で事件が起こります。

 このあたりの作品は、設定からもわかるようにいかにもカフカ的です。

 

 「散策」と「カンヅメ工場」はちょっとホラー風味もあります。特に「散策」は全編に渡ってどこかしら不気味な雰囲気が漂っていて黒沢清の映画を思い出させます。

 「カンヅメ工場」では、終業後に工場長が行っていたカンヅメづくりが一つの謎となっていて、こちらは特に不気味さを感じさせるような文体ではないのですが、やはりホラーの要素があります。

 その他、「モンスーン」にも「夜の求愛」にも「クリーム色のソファの部屋」もどこかしらブラックな雰囲気があり、特に「夜の求愛」では不条理さを感じさせるような要素が盛り込まれています。

 

 一方、「少年易老」では、主人公を不条理な世界に突き放すのではなく、もう少し寄り添った形になっています。少年同士の友情とも言い難いような交流を描いた作品ですが、不条理な世界であっても主人公を生きさせようとする著者の意思がうかがえます。

 「あとがき」によるとこの作品はセウォル号の事故を受けて書き直されたとのことですが、それもあるのか少しだけ優しさの感じさせる作品となっています。

 

 カフカ的と書きましたが、固有名詞などを避けてかなり抽象化していながら、それでも韓国社会の特徴というのが色濃く出ているのが、このピョン・ヘヨンの面白さでしょう。

 さすがに『回復する人間』のような凄味はないですが、韓国社会の病理(これは日本やその他の先進国に共通するものでありつつ、やはり韓国独自の現れ方がある)を浮き上がらせるような内容になっており、面白いと思います。

 

 

Common / Let Love

 Commonの12枚目のアルバム。相変わらずの安定感という感じで、気持ちよく聴ける1枚に仕上がっています。

 前作の「Black America Again」は、トランプ政権の誕生を受けて、それに対するプロテストというイメージも強かったですが、今回はアルバムタイトルに「Love」がつけられているだけでなく、"Good Morning Love"、”HER Love”、”Forever Your Love"、"God Is Love"といった曲名が並んでおり、「Love」が全面に押し出されています。

 

 アルバム全体の印象も非常にピースフルな感じで、4曲目の"Hercules"など少し強めの曲もありますが、HIPHOPのアルバムとしてはかなり穏やかな部類に入るのではないかと思います(ラップの英語まではちゃんと聞き取れていないので、激しいことを言っている曲もあるのかもしれませんが)。

 先行シングルの”HER Love”も基本的に静かな曲ですし(”HER”は女性の事ではなく、Hip-Hop in its Essence is Real(ヒップホップの本質は真実)の頭文字をとったものとんのこと)、いわゆる派手な曲はないです。

 それでもアルバムを通して聴かせてしまうところがCommonの円熟味といったところなのかもしれません。

 


Common - Good Morning Love feat. Samora Pinderhughes

 

 

マンサー・オルソン『集合行為論』

 集団と集合財(公共財)の関係を論じた古典的著作。やはり読んでおくべきかと思って読んでみました。

 ただ、O・E・ウィリアムソン『市場と企業組織』を読んだときにも思いましたけど、完全に古典というわけでもない少し古めの本を読むと、文脈や著者は想定している論敵の理論といったものがわからずに、内容を掴むのがやや難しいですよね。

 というわけで、以下では「なるほど」と思った部分を簡単に紹介します。

 

 目次は以下の通り。

序 章

第1章 集団と組織の理論的考察

第2章 集団規模と集団行動

第3章 労働組合と経済的自由

第4章 国家と階級の伝統理論

第5章 伝統的な圧力団体論

第6章 「副産物」理論と「特殊利益」理論

1971年版の補遺

 

 本書が問題としている1つのポイントは、集合財の獲得を目指す集団において、小集団では構成員の共通の利益は達成されやすいが,大集団では達成されにくいというものです。小集団であれば、共通目標についての合意ができればその達成は容易なのですが、大集団においては何らかの強制などがないと、その達成は難しいのです。

 著者は国家を例にあげて次のように述べています。 

 愛国心のエネルギー、民族的イデオロギーの訴え、共通文化の絆、および法と秩序体系の不可欠性にもかかわらず、現代史におけるどの主要国家も自発的な納税あるいは分担金で自らを維持することはできなかった。(12p)

 

 なぜこのようなことが起こるのかというと、大規模組織では支え手が多いために、1人が共通目標を達成するために努力することをやめたとしても、変わらないからです。

 大規模組織において、費用を負担する人が一人いなくなっても、別の一人の費用負担者の負担を著しく増大しないであろう。だから、合理的人間は、たとえかれらが組織から離脱しても、そのことによって他者の同様の行動がひきおこされる、などと信じることはない。(11−12p)

 

 経済学ではいわゆる「フリーライダー」として問題にされており、本書でもフリーライダーという用語は登場しています。

 公共財は非排除性をもっていて、協力しなかった人の利用を防止することは難しです。例えば、公園は脱税者の利用を排除することは難しいです。そこで、何らかの工夫が必要になるわけです。

 

 以前の理論では大集団を家族のような小集団から説明しようと試みてきましたが、この小集団と大集団の間には決定的な違いがあるというのが本書の主張です。 

  小集団においては、「たとえ集合財供給の全費用を支払わなければならないとしても、供給された場合の方が、されない場合よりも改善される成員が存在する」(29p)ため、黙っていても集合財供給される場合があります。例えば、狭いオフィスで喘息持ちの人が加湿器を自腹で買って持ち込むようなケースなどを考えれば良いかもしれません。

 このような状況について著者は以下のように叙述しています。

 欲求度最大の成員、すなわち、集合財の最大量を自分で供給しようとする成員は、集合財供給の負担を不釣合なほど多く引き受ける。欲求度の低い成員は、定義によって、かれが供給する集合財の量からの便益を欲求度の高い成員よりも少なく獲得する。したがって、さらに多くの集合財を供給しようとする誘因をかれはもたない。いったん欲求度の低い成員が欲求度最大成員から、無料で、集合財のある量を獲得するや、かれは自分で購入した場合よりも多くを持つことになる。そして、かれは自らの費用で集合財を獲得する誘因をもはや有しない、共通の利益を有する小さな集団においては、したがって、欲求度の低い成員による欲求度の高い成員の「搾取」という驚くべき傾向が存在する。(30−31p)

 

  しかし、大集団ではそうもいきません。大規模な集団には自らの利益を促進することを妨げる以下のような理由があるのです。

 第一に、集団が大きくなればなるほど、集団利益に適うように行為する個人の受け取る全集団便益中の割当てはより小さくなり、集団志向行為に対する報酬は不十分になり、かくしてその集団は集合財の最適供給には至らないであろう。第二に、集団が大きくなればなるほど、当該集団のどの小さな部分単位も、ましてどの個人もそのごく小量を供給する費用の負担に見合うほどの便益を集合財の獲得から得る見込みは乏しい。というのは、各個人あるいは集団成員のどの(絶対的に)小さな部分単位にも与えられる総便益中の分け前が少なくなるからである。換言すれば、集団が大きくなればなるほど、集合財の獲得に役立つかもしれない寡占的相互作用が起こる可能性はより小さくなるのである。第三に、集団の成員数が多くなればなるほど、組織化費用は高くなり、そして、その集合財をともかくも供給する前に越えなければならない障害物はより高くなる。これらの理由のために、集団が大きくなればなるほど、いっそう集合財の最適供給は難しくなるであろう。とりわけ大きな集団は、強制あるいは別個の外部からの誘因がない場合、最低量の集合財さえ進んで供給しないであろう。(41−42p)

 こうしたことを踏まえて、第1章の最後で、著者は「ゆえに、大きな結社の存在は、小集団の存在を説明するのと同一の要因からは説明できないように思われる」と結論づけています。

 

 第2章の冒頭では小集団の有効性を会議を例にとって説明しています。参加者が多ければ多いほど、会議に対して努力する人は減っていきます。別に自分が貢献しようがしまいが結果は変わらないと予想されるからです。

 ですから、大きな組織であっても意思決定などで用いられるのは小集団です。ジョン・ジェーズムの研究によれば、「「活動する」部分集団の平均的規模は6.5人であり、一方、「活動しない」部分集団の平均規模は14人」(64p)とのことです。

 この傾向は現代の企業統治についてもうまく説明しています。株主が多い上場企業では経営陣の自律性が高く、少数の株主に支配されている企業では経営陣の従属性が高いです。株主の数が多ければその組織化は難しく、小集団である経営陣をコントロールすることは難しくなるのです。

 

 第3章で検討されているのは労働組合です。労働組合は小規模なものから始まりましたが、現在多くの労働組合は大規模な組織となっています。

 組合の要求する高賃金や労働条件の改善を集合財と考えるならば、小規模な組織のほうが成員の努力を引き出しやすく、実際そのことから労働組合はしばらくは小規模な組織にとどまっていました。

 しかし、同業他社の賃金水準を考慮しない賃上げはその企業の業績低迷に繋がりますし、小規模の組織に対してならば企業側もスト破りの要員を確保しやすいです。こうしたことによって労働組合は結合し大規模化する誘因を与えられます。

 

 こうして労働組合は大規模化し全国レベルの組織になったのですが、これを可能にしたのがユニオン・ショップやクローズド・ショップといった仕組みでした。大規模な組織は集合財を獲得するために成員の協力を得ることが難しくなりますが、それを強制的な仕組みをつくることによって防ぎ、組織の大規模化を可能にしたのです。

 また、労働組合は互助共済活動を行うことによって組合員を引きつけました。他にもレクリエーションプログラムなどが提供されましたが、小規模な集団ほどの効果は得られてはいません。

 

  本章ではアメリカの労働組合の歴史をたどっているのですが、20世紀なかばの労働組合のあり方についてのつぎのような文章があります。

 労働者の90パーセント以上が組合の会合に出席しようとせず、また組合の仕事に参加しようともしない。だが、90パーセントを越える労働者が組合所属と組合への相当額の会費の支払いを強制することに賛成投票する。(99p)

 

  組合員の多くは組合の力が自分たちの利益になっていることを意識しているわけですが、同時に他の誰かがやってくれればそれにこしたことはないと考えてもいるわけです。いわゆるフリーライダーの問題が現れていると言えるでしょう。

 そして、著者はこれを政府サービスのために増税に賛成しながら、同時に個人としてはできるだけ節税に努める市民の姿と重ね合わせています。

 

 ここから著者は「論理的に首尾一貫させるならば、「(非組合員を含む全労働者の)労働権」という根拠のみに基づいてユニオン・ショップ制に反対する人は、1890年代にクヌート・ヴィクセルによって提出された課税への「全員一致の同意」という考え方にも賛成しなければならない」(103p)と議論を進めています。

 強制を悪だと考えたヴィクセルは政府支出のほとんどすべての支出に全員一致の投票を要求しました。ずいぶんと荒唐無稽な話だと思う人が多いでしょうが、それが荒唐無稽ならばユニオン・ショップ制もごくごく当たり前に受け入れられるべき議論だとも言えるのです。

 

 第4章では、マルクスの理論などに触れて、先程の大規模組織のことを念頭に置きながら「階級を構成する個人が合理的に行為しようとすれば、階級志向的行為はむしろ営まれないであろう」(132p)と述べています。

 ブルジョアにしろプロレタリアートにしろ、もし自分たちの階級が支配的になったら、自分がそうした運動に参加したどうかにかかわらずその便益を受けられるわけで、わざわざ自らを危険に晒す必要はないのです。

 

  第5章と第6章では圧力団体を扱っていますが、やや専門的な議論を踏まえてのものが多いことと、力が尽きてきたので割愛します。

 

 それまでの先行研究を論じた部分など、現在の一般的読者からするとややわかりにくい議論もありますが、いくつか引用した部分に見られるように、組織や政治に関して重要で興味深いことを述べている本だと思います。

 

 

ハン・ガン『回復する人間』

 

ほとんどの人たちは一生のあいだ、色や形を大きく変えずに生きていく。けれどもある人たちは何度にも渡って自分の体を取り替える。(「エウロパ」87p) 

 

もちろんあたしはまだ人が信じられないし、この世界も信じていないよ。だけど、自分自身を信じないことに比べたらそんな幻滅は何でもないと思う。(「エウロパ」89p)

 

 『ギリシャ語の時間』が素晴らしかったハン・ガンの短篇集。「明るくなる前に」、「回復する人間」、「エウロパ」、「フンザ」、「青い石」、「左手」、「火とかげ」の7篇を収録しています。

 どれも良いのですが、特に冒頭からの3作、「明るくなる前に」、「回復する人間」、「エウロパ」には凄味がある。韓国文学という枠を超えて世界文学の文学史においても相当なレベルにある作品だと思います。

 

 普段はここから各短篇の簡単な紹介に移るのですが、この短篇集に関してはあまり知識を持たずに読んだほうがより楽しめるでしょう。

 「左手」が自分のコントロールを離れて勝手に動き出すという「左手」を除けば、特に奇抜なアイディアがあるわけではありませんし、最後にどんでん返しがあるわけでもありません。登場人物たちは多くは都会の中で孤独を感じている人物であり、自らの病気や怪我、肉親の死といったものが描かれています。ですから、ハン・ガンが持っている手札は比較的平凡なはずなのです。 

 

 ところが、この手札のめくられ方が凄い。読み進めていく中で何度も思わず声を上げたくなるような文章があります。ありがちかと思われた物語は、人間の内面に深く深く入っていくのです。

 例えば、表題作の「回復する人間」は鍼灸治療に失敗し両足首に火傷を負った女性が主人公です。「あなたは〜」と呼びかける文体は独特ですが、この設定で「回復する人間」というタイトルだと、ある程度小説を読んでいる人ならば、それなりに筋が想像できるでしょう。

 

 しかし、物語は思ったよりも深く、そして辛辣でもあります。この深さと辛辣さが凄味を生み出しています。

 この比較的どこにでもありそうな物語を語りながら、いつの間にか凄い境地に到達するというところは、ウィリアム・トレヴァーの小説を思い出させます。

 文体などは違うのですが、ハン・ガンもトレヴァーも、平凡に見える人間の内面に隠された執念、そしてその執念がもたらす痛みを描くのが抜群に上手いです。

 先程述べたように、この短篇集は前知識なしで読んだほうがより「驚き」があると思うので、最後にハン・ガンの辛辣さを物語る一節を紹介して終わりにしたいと思います。

 

 あなたは深夜、彼女の部屋で尋ねた。私ほんとにわからない。みんなどうしてこんなふうに社会通念の中だけで生きていけるのか、そんな生き方にどうしてがまんできるのかが。あなたに背中を向けて化粧を落としていた彼女の顔が、鏡の中でひらりと暗くなった。鏡越しにあなたと目を合わせて、彼女は答えた。あんたはそう思うのね。でも、そうできてよかったと思う人もいるんじゃないの。社会通念の後ろに隠れることができてよかったって。(「回復する人間」47p)

 

 

 

 

 この『回復する人間』が響いた人は、ウィリアム・トレヴァーの『聖母の贈り物』に収録された「マティルダイングランド」と『ふたつの人生』に収録された「ツルゲーネフを読む声」も気に入るのではないかと思います。

 

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『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』

 仕事が急遽休みになったので見てきました。

 タランティーノ監督の新作は、1969年に起きたロマン・ポランスキーの妻であり女優でもあったシャロン・テートがカルト集団チャールズ・マンソン・ファミリーに殺害された事件をモチーフにした作品。

 主人公のリック・ダルトンレオナルド・ディカプリオ)はやや落ち目の元テレビスター。活躍の場を映画に移そうとしたのですが、若い主役の引き立て役として悪役を演じることが増えています。また、イタリアでマカロニ・ウェスタンの主役をやらないかとも声をかけられていますが、リックはイタリアに行くことには抵抗しています。

 彼のスタントマンであり、身の回りの世話もしているのがクリフ・ブース(ブラッド・ピット)。リックが落ち目になるにつれ、彼のスタントマンとしての活躍の場も狭まってきています。

 そんなリックの家の隣に、当時注目されていたポランスキーとその妻のシャロン・テートが引っ越してきます。

 

 上映時間は160分あり、長いといえば長いです。前半はとにかく当時のハリウッドを忠実に再現することに費やされており、映画界の変化やヒッピーカルチャーの浸透などを丁寧に描いています。

 というわけで、やや退屈にもなりそうなのですが、そこはさすがのタランティーノでタイミングよく上手いシーンが挟まります。クリフはブルース・リーっぽい格闘家と対決するシーンや、リックが「ジョディ・フォスター??」と思ってしまう名子役と絡むシーン、売れ始めたシャロン・テートが映画館で自ら出演する映画を見るシーンなど、印象的なシーンは多いです。

 

 また、観客はシャロン・テート事件を頭に入れながら見ているので、前半の幸せそうな光景もやや落ち着くことができずに見ることになります(3.11が近づいてきたときの「あまちゃん」みたいな感じ)、その観客の意識の使い方も上手いですね。

 そしてラストは「こう来るのか!」という驚きもあります。ここもタランティーノならではの上手さだと思います。

 

 ただし、『イングロリアス・バスターズ』もそうでしたが、この作品も「暴力をふるってもいい悪」みたいなものがつくられていて、それによってポリティカル・コレクトネスを乗り越えるようなスタイルです。暴力は確かに取り扱い注意だけど、「みんなが認める悪」に対してであれば思う存分ふるっても誰も文句を言わないだろうというものです。

 さらにこの映画ではタランティーノ偽史的な想像力も絡んでおり、ここに描かれている歴史は改変されている歴史でもあります(もちろん、リックとクリフは架空の人物ですし)。

 うまくは言えないのですが、このやり方はけっこう危ういようにも思えます。今作も面白かったのですが、少し引っかかるものは残りました。

 

 

ダロン・アセモグル&ジェイムズ・A・ロビンソン『国家はなぜ衰退するのか』 

 それぞれ数多くの論文を発表し高い評価を得ているアセモグルとロビンソンが「経済成長はどのような条件で起こるのか?」という大テーマについて論じた本。読もうと思いつつも今まで手が伸びていなかったのですが、授業でこの本と似たようなテーマを扱うことになったので、文庫版を手に入れて読んでみました。

 

 目次は以下の通り。(第1章〜第8章までが上巻、第9章以降が下巻)

第1章 こんなに近いのに、こんなに違う
第2章 役に立たない理論
第3章 繁栄と貧困の形成過程
第4章 小さな相違と決定的な岐路―歴史の重み
第5章 「私は未来を見た。うまくいっている未来を」―収奪的制度のもとでの成長
第6章 乖離
第7章 転換点
第8章 領域外―発展の障壁

第9章 後退する発展
第10章 繁栄の広がり
第11章 好循環
第12章 悪循環
第13章 こんにち国家はなぜ衰退するのか
第14章 旧弊を打破する
第15章 繁栄と貧困を理解する
付録 著者と解説者の質疑応答

 

 実はこの本を読むのが後回しになっていたのは、以下の山形浩生の上巻の書評を読んでしまったからです。

cruel.hatenablog.com

 

 今回、この本を読んでみたあとも、基本的にはこの山形浩生のものと同じような疑問は残りました。確かにエピソードは面白いのだけど、「経済成長が起きるか否かは制度が包括的か収奪的かによるのだ」というテーゼはやや単純すぎるように思えるのです。

 

 本書はアメリカのアリゾナ州のノガレスとメキシコのソノラ州ノガレスの比較から始まっています。この両地域は気候や地理的条件も、もともと住んでいた住民もほぼ同じにもかかわらず、経済発展では大きな差がついています。この差を説明するのが「包括的制度」と「収奪的制度」の違いです。

 

 著者らのいう「包括的/収奪的」とは政治と経済の両面があって、包括的な政治制度は法の支配と理想としては自由民主主義、包括的な経済制度とは市場経済のしくみで、収奪的な政治制度とは無秩序や権威主義的な独裁体制、収奪的な経済制度とは奴隷制農奴制、社会主義の計画経済といったものになります。

 さらに著者らが度々強調するのが中央集権的でなおかつ多元的な権力のしくみです。多元的というならば地方分権ではないかと考える人もいるでしょうが、著者らは一定の秩序がなければ収奪的な経済にしかなりえないと考えています。

 本書ではソマリアのケースなどが紹介されていますが、日本史で考えれば戦国時代では日本全体を巻き込むような経済成長はありえず、信長や秀吉による中央集権が必要なんだけど、そうした個人的な独裁はいずれ収奪的にならざるを得ないので、何らかの形で権力の多元化が必要になるといったところでしょうか。

 著者らはイギリスの成長は、大西洋貿易が盛んになった時期に他のヨーロッパ諸国とは違って多元的な権力が成立したからだと考えています。

 

 このように、著者らは制度こそが経済発展のキーだと考えているわけですが、第2章では、経済発展を説明するその他の理論、「地理説」、「文化説」、「無知説」を否定しています。

 地理説には熱帯における伝染病や農業生産制の低さを理由にするものや、ジャレド・ダイアモンドが主張する大陸の広がり(東西に広がっているか南北に広がっているか)や周囲にいた家畜化可能な動物の数などを理由とするものがあります。

 しかし、著者らはこの説ではユーラシアの中でもイギリスが産業革命をリードしたことやアメリカとメキシコの差を説明できないとして退けています。

 文化説を否定するのは、日本や中国などの経済発展や、韓国と北朝鮮の格差、15世紀末にカトリックに改宗したコンゴ王・ジョアン1世などの存在です。

 アフリカ経済の低迷を説明する時に無知説は一見すると有効に思えますが、実は経済政策に失敗した国でも多くの場合欧米の経済学者がアドバイザーに就いており(ガーナのエンクルマはアーサー・ルイスから助言を受けていた(上巻126p))

 

 こうして「制度こそ決定的なのだ」という結論が導かれるわけで、特に著者らはイギリスの制度を高く評価しています。イギリスにおける財産権の確立や知的所有権制度がイノベーションを生み、産業革命を引き起こしたというわけです。

 このあたりは、例えば、ダグラス・C・ノースの『経済史の構造と変化』の説明に近いと思います。というか、本書全体の分析が『経済史の構造と変化』のそれと似ていると思います。例えば、『経済史の構造と変化』の次の部分などは本書の一節だと言っても充分に通じるでしょう。 

経済成長には国家の存在が欠かせないが、人が引き起こす経済の衰退は、国家に原因がある。この逆説を考えれば、国家の研究を経済史の中心に据える必要がある。(ダグラス・C・ノース『経済史の構造と変化』49p)

 

 そして、『経済史の構造と変化』がさまざまな経済学の理論を持ち出しながら叙述を進めるのに対して、本書はまるで歴史家が書いた本のように事例の記述を重ねていきます。

 アセモグルもロビンソンも実証的な論文を量産している人なので、本書のベースにはさまざまな実証的な研究があるんでしょうけど、本書では読みやすさを重視してなのか、データやグラフをあまり用いておらず、印象的な事例の紹介が中心となっています。ですから、いろいろな反論も思い浮かびます。

 

 例えば、イギリスは名誉革命以降、包括的な制度が確立したから発展したのだと主張していますが、「イギリスの経済成長の要因は、包括的制度のもとでの国内でのイノベーションという要素より海外植民地からの収奪という要素が大きいのではないか?」といった疑問も浮かびます。

 

 また、著者らは短期の経済成長であるならば収奪的な制度のもとでも可能だが(例えば、ロシア革命後のソ連は農村からの収奪によって一定の期間は高い経済成長を示した)、長期は不可能だといいます。

 ただ、この短期/長期というのがどのくらいの幅なのかということも問題だと思います。著者らは長期というときにかなりの期間を想定しているようで、それが結局は「イギリスの産業革命に始まった西欧諸国の経済成長のみが歴史上唯一の経済成長である」というような見方につながってしまっているのではないかと思います。

 

 そうなると確かに「自由民主主義以外に経済成長の可能性はない」となるのかもしれませんが、例えば、中国の宋代の経済成長やイノベーション羅針盤、火薬、活版印刷術などの発明があった)は、単なる収奪にはとどまらないかなりの長期に渡ったものと見ていいのではないかと思いますが、著者らは「中国は絶対主義的の国であり、宋の成長は収奪的制度によるものだった」(上巻370p)と冷淡です。

 ここはK・ポメランツ『大分岐』などでも指摘されているように、もう少し18世紀初めまでの中国の経済力というものを評価してもいいのではないかと思います。

 

 そして、やはりこの本の今後の影響力の行方というのも、やはり今後の中国の姿に関わっているのだと思います。

 中国は少なくともここ25年ほどは高成長を続けています。もちろん、今までの成長は先進国で生み出された技術を移転し、農村の余剰労働力を活用した成長で、収奪的な政治制度の上でも予想できる成長だと言えるかもしれません。これについて著者らは次のように述べています。

 中国の場合、遅れの取り戻し、外国の技術の輸入、低価格の工業製品の輸出に基づいた成長のプロセスはしばらく続きそうだ。とはいえ、中国の成長は終わりに近づいているようでもあり、とくに中所得国の生活水準にいったん達したときには終わると見られる。(下巻300p)

 

 しかし、近年の中国ではIT関連を中心にイノベーティブといっていい動きが起きています。中国経済の成長が減速するというのには同意なのですが、それは中国のような収奪的な制度のもとではイノベーションが起こらないからではなく、「一人っ子政策」を長くやりすぎたことによる少子高齢化によってもたらされるのではないかと個人的には見ています(もっとも、「一人っ子政策」の引き伸ばしは民主主義であれば防げたかもしれないので、「「一人っ子政策」の引き伸ばしも収奪的な政治制度のせいなのだ」と言われれば、著者らの理論は間違っていないことになりますが)。

 さらに中国政府が非民主的制度を維持しながらビッグデータと監視システムを用いることで「うまく統治する」可能性というのもあって、それは梶谷懐・高口康太『幸福な監視国家・中国』で指摘されています。

 付け加えるならば、中国の大躍進政策に関しては、第2章で著者らが否定した「無知説」が当てはまるような気もします。

 

 あれこれと文句を言ってしまいましたが、この本に集められているエピソード、特に経済成長に失敗した国々のエピソードに関しては興味深いものがあります。

 例えば、シエラレオネでは1961年に独立しシアカ・スティーヴンズ大統領は鉄道を廃止しました。敵対的な勢力を支持する地域を走っていたからです。さらスティーヴンズは軍も信用できなかったために軍を縮小し、骨抜きにしました。結局、彼はクーデターで権力を失い、シエラレオネは内戦に突入していきます。

 グアテマラでは93年にラミレ・デ・レオン・カルピオ大統領に就任し、リチャード・アイトケンヘッド・カスティーリョが財務相に、リカルド・カスティーリョ・シニバルディを開発相に任命しました。彼らは16世紀はじめにグアテマラにやってきたコンキスタドールの末裔で、グアテマラでは未だに22の一族が政治と経済を支配しているといいます。エリートによる収奪体制はそう簡単になくなるものではないのです。

 

 また、民主主義でありながらなかなか政治・経済の両面で安定しないラテンアメリカに関しては次のように評価しています。

 ラテンアメリカに誕生した民主主義は、原理上はエリート支配の対極にあり、名実とも権利と機会を少なくとも一部のエリートから再分配しようとするものだが、二つの意味で収奪的体制にしっかりと根差している。第一に、収奪的体制下で何世紀も不公正が続いたせいで、新たに誕生した民主主義体制の下で、有権者は極端な政策の政治家を支持するようになる。(中略)第二に、ペロンやチャベスといった有力者にとって政治がこれほど魅力的で甘い汁に満ちているのは、またしても根底に収奪的制度があるせいであり、社会にとって望ましい選択肢をつくる有効な政党の仕組みがないせいだ。(225−226p)

 

 さらに最後では小さな市場の失敗を改善していこうとするやり方を批判し(このあたりは最近流行のRCT批判なんでしょうね。RCTに関してはアビジット・V・バナジーエスター・デュフロ『貧乏人の経済学』エステル・デュフロ『貧困と闘う知』を参照)、対外援助に関してもないよりはマシかもしれないが、有効な援助というのは非常に困難であるとの考えを示しています。

 

 「なぜ、西欧が成功したのか?」というだけであるならば、エントリーの中でも触れたダグラス・C・ノース『経済史の構造と変化』を読めばいいのではないかとも思いますが、「なぜ、多くの国は失敗しているのか?」ことに関してはさまざまな示唆を与えてくれる本だと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 関連エントリー

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ウィリアム・ノードハウス『気候カジノ』 

 2018年に気候変動を長期的マクロ経済分析に統合した功績によってノーベル経済学賞を受賞したノードハウスの著書。価格が2000円+税なので、「今までの研究のコアの部分を一般向けに簡単に語った本なのかな」と思って注文したのですが、届いてみたら450ページ近い分厚い本で、ほぼこの1冊で現状で明らかになっている地球温暖化問題について語れてしまうような本ではないですか! これはコスパが高いです。

 実は読んだのが6月頃で、今さらこの大部の本をきちんとまとめる力は残っていないので、以下、非常に簡単に紹介を書きます。

 

 目次は以下の通り。この目次を見るだけで、温暖化について主な論点のほぼすべてが書いてあることがわかると思います。

第I部 気候変動の起源
第1章 気候カジノへの入り口
第2章 二つの湖のエピソード
第3章 気候変動の経済的起源
第4章 将来の気候変動
第5章 気候カジノの臨界点

第II部 気候変動による人間システムなどへの影響
第6章 気候変動から影響まで
第7章 農業の行く末
第8章 健康への影響
第9章 海洋の危機
第10章 ハリケーンの強大化
第11章 野生生物と種の消失
第12章 気候変動がもたらす損害の合計

第III部 気候変動の抑制─アプローチとコスト
第13章 気候変動への対応─適応策と気候工学
第14章 排出削減による気候変動の抑制─緩和策
第15章 気候変動抑制のコスト
第16章 割引と時間の価値

第IV部 気候変動の抑制─政策と制度
第17章 気候政策の変遷
第18章 気候政策と費用便益分析
第19章 炭素価格の重要な役割
第20章 国家レベルでの気候変動政策
第21章 国家政策から国際協調政策へ
第22章 最善策に次ぐアプローチ
第23章 低炭素経済に向けた先進技術

第V部 気候変動の政治学
第24章 気候科学とそれに対する批判
第25章 気候変動をめぐる世論
第26章 気候変動政策にとっての障害

 

 まず、「気候カジノ」というタイトルですが、まず地球温暖化については不確実性がつきものです。温室効果ガスの排出量と気温上昇の関係についてはある程度のコンセンサスができつつはありますが、それが気候システムに何をもたらすかはまだ明確にわかっているわけではありません。

 著者はこのことについて「我々は気候カジノに足を踏み入れつつある」(7p)と表現しています。もちろん、奇跡的に損失を被らないでうまく出てくる可能性もあるのですが、大損する可能性はかなり高いのです。

  

 また、予測をするにしても、そもそも今後の世界経済がどの程度のペースで成長するかといったことも不透明ですし、今までにはなかったような新しい技術が登場するかもしれません。

 そこで「先送り」という選択肢が浮上するわけですが、著者はこれを「霧の深い夜に車のヘッドライトを消して時速160キロメートルで走行し、カーブがないことを祈っているようなもの」(44p)だとしています。

 さまざまなモデルによれば、1900〜2100年の世界の平均気温上昇は1.8〜4.0℃であり、21世紀の海面上昇の推定は18〜60センチです。さらにハリケーンの強大化、海洋酸性化などが予想されています(61p)。

 さらにグリーンランドや南極の巨大氷床の崩壊や、海洋循環の大規模な変化の可能性もあり、想定を超える巨大な変化が起こるかもしれないのです。

 

 この不確実性は農業にも当てはまります。ニュースを見ると今すぐにでも干ばつと食糧不足がやってきそうでもありますが、IPCCの報告書によると「世界全体では、地域の平均気温が1〜3℃の幅で上昇すると、食糧生産能力が増加すると予測されるが、これを超えれば減少すると予測される」(104p)とのことです。つまり、農業に関しては3℃以内気温上昇であれば大きな問題はなさそうなのです。

 ただし、当然ながら気温上昇を3℃以内にピッタリと収めるもまた至難の業です。

 

 また、温暖化の影響を評価する時に難しいことは、経済成長は人々の厚生を改善しますが、温暖化を加速させます。経済が低迷すれば温暖化は進みませんが、経済成長の果実も受け取ることができな一方、経済成長が高い水準で推移すれば人々はその恩恵を受ける一方で温暖化は加速します。

 ただし、経済成長の恩恵は平等に行き渡るわけではなく、温暖化が進んだ場合に健康面でマイナスの影響を受けるのはアフリカや東南アジアだと推測されています(118p)。

 このため、温暖化によって世界がどのくらい損害をこうむるのかという問題は非常に難しいのですが、一応、2.5℃の上昇で世界総生産の1.5%前後という推計が示されています(177p図表12-2参照)。

 

 では、温暖化に対して我々はどのように対処すればいいのでしょうか?

 著者は対策には、温暖化した地球に適応する「適応策」、成層圏中の硫酸塩エアロゾルを人工的に増加させるなどの「気候工学」、そして温室効果ガスの排出量を抑える「緩和策」があります。

 「気候工学」は成功すれば安上がりな方法なのですが、不確実性や副作用も大きく、著者は医師がすべての治療が失敗した時に用いるサルベージ療法に近いものだと考えています。

 

 エネルギー消費量を減らすには経済成長を犠牲にしなければならないと考える人もいますが、例えば、発電の際に石炭ではなく天然ガスを用いれば二酸化炭素の排出量は約半分に抑制できます。また、排出される二酸化炭素を貯蔵するCCSと呼ばれる技術もあります。

 著者が推すのは炭素に適切な価格をつけることです。温室効果ガスの排出に適切な価格をつけることで石炭の使用を抑え、二酸化炭素の排出を押させる技術を導入させることは可能だといいます。

 ただし、それには全世界の国々の参加が必要です。著者の資産によれば全世界の国が参加して取り組めば世界総所得の1.5%程度の費用で気温上昇を2℃以内に抑えることが可能ですが、もし参加するのが世界の二酸化炭素排出量の50%を排出する国々だけであれば、気温上昇を2℃以内に抑えるコペンハーゲン合意の達成は不可能です(226p図表15-3参照、さらに18章では割引率を考慮に入れたモデルを紹介している)。

 

 炭素に価格を付ける方法としては炭素税と排出権取引の2つの方法があります(そしてこれ以外に選択肢はない(280p))。

 アメリカ政府の報告書では2015年時点で二酸化炭素1トン当たり約25ドルという価格が適当だとしていますが、これを2030年には53ドル/トン、2040年には93ドル/トンに引き上げていくことで気温上昇を2.5℃以内に抑え込むことができるというのです(モデルによって価格のブレはある、287p図表19−1参照)。

 炭素税と排出権取引の機能は基本的には同じですが、大抵の場合、経済学者は炭素税を支持し、交渉担当者や環境専門家は排出権取引を支持するといいます。排出権取引では価格が乱高下し炭素価格が安定しない恐れがあります、一方、炭素税は炭素価格を安定させる一方で排出量は安定しません(高い価格を払ってでも炭素を排出しようとする企業が出てくるかもしれないから)。

 また、税金は導入されにくく廃止されやすいという特徴があります。ですから、環境専門家などは排出権取引を支持するわけですが、著者はどちらでも構わないと考えています(302p)。

 

 しかし、京都議定書をはじめとして温暖化に対する国際的な取り組みはうまくいっていません。

 著者が主張するのはまず削減幅ではなく炭素の最低価格に合意することです。もちろん、国によって支持する価格は異なるでしょうが、削減幅の合意に比べれば容易だろうと考えられます。

 炭素税を用いるか排出権取引を用いるかは各国に任せます。 そして、違反国に対しては貿易と紐付けることによって(義務を果たさない国には関税(国境炭素税)を課す)温暖化対策へのただ乗りを防ぐのがよいとしています。

 

 さらに本書では第23章で温暖化防止技術について検討し、第24章では政治の問題、第25章では世論の問題までとり上げています。

 まさに「地球温暖化大全」と言っていいような内容です。とにかく社会科学的な視点から温暖化について知りたいのであれば、まずはこの1冊ではないかと。