ルーシャス・シェパード『タボリンの鱗』

 一昨年に刊行されて面白かった『竜のグリオールに絵を描いた男』と同じく、全長1マイルにも及ぶ巨竜グリオールを舞台にした連作の続編。今作では「タボリンの鱗」と「スカル」の2篇を収録しており、どちらも中篇といっていいボリュームです。

 グリオールは魔法使いによって長い眠りについているのですが、まだ死んではいません。そして、眠りながらも周囲に住む人々に大きな影響を与えているという設定で、そのグリオールに運命を翻弄される人びとの姿を描いています。

 

 まず「タボリンの鱗」ですが、ジョージ・タボリンという貨幣学者がふとしたことで手に入れた竜の鱗によって娼婦のシルヴィアとともに、その不思議な力によってタイムスリップ(?)します。

 そこにはまだ小さい若きグリオールが飛び回っていて人びとを追い立て、ジョージとシルヴィアにも原始的な生活を強制させます。前作では不思議な力によって人びとの運命が歪められていましたは、この「タボリンの鱗」では物理的な力で追い立てられています。

 この作品はラスト近くのグリオールの復活劇が圧巻で、まさにクライマックスという感じです。そして、その後のエピローグ的部分で妙に舞台設定が現代世界に近づくので、「なぜ?」と思ったら、その謎はつづく「スカル」で解けます。

 

 「スカル」はグリオールが死んだ、というか完全に解体された後の世界。

 そして、舞台はほぼ現実世界であり、時間的にも現代に近いです。テマラグアという中米の架空の国が舞台ですが、著者が「作品に関する覚え書き」で書いているように、ニカラグアをモデルにしています。

 アメリカ人の青年スノーは、この国で不思議な魅力を持つヤーラに出会います。ヤーラはグリオールの頭蓋骨と言われているものを中心に集めっている新興宗教の教祖の幼な顔も持っており、恐怖心を覚えたスノーは一旦そこを抜け出し、テマラグアからも出国します。

 

 数年後、テマラグアではPVOと呼ばれる政治組織が進出し、反対する人びとを拷問し、暗殺するなどのテロルを行い、権力を掌握しつつありました。スノーはたまたま目にしたテマラグアで新興宗教の集団が姿を消したという記事から、ヤーラを思い出し、再びテマラグアへと向かいます。

 そこでスノーは形を変えたグリオールの災いのようなものを経験するわけですが、ここで著者がグリオールを使って描きたかったものが見えてきます。

 著者のルーシャス・シェパードは作家としてデビューするまでにフリージャーナリストとしてエルサルバドル内戦などを取材したもしており、中米でのさまざまな残虐行為を肌で感じ、それが何故起こってしまうのか? ということに疑問を持っていたのでしょう。本作では、その人びとや社会が狂っていく様子がグリオールという架空の存在を使って描かれています。

 ファンタジーというジャンルに分類されるであろうこの連作ですが、本作に関してはかなり毛色が違っています。

 

 前作から面白く読み進めてきたシリーズですが、まさかこんな形になるとは思いませんでした。このジャンル的なお約束を打ち破って展開するストーリーのドライブ感は魅力的ですね。

 このシリーズにはもう1篇「Beautiful Blood」という作品があるそうなのですが、それもぜひ読んでみたいですね。

 

 

Oh Wonder / No One Else Can Wear Your Crown

 ロンドンを中心に活動する男女デュオ・Oh Wonderの3rdアルバム。前作の「Ultralife」から聞き始めましたが、男女のツインボーカルのエレポップということで、個人的には非常に好きなタイプのアーティストです。

 今作は前作に比べると少し落ち着いた感じで、前作にあったような躍動感はないのですが、そのぶん、いわゆるポップソングから少し離れた感じの曲が多いです。メロディーで聴かせるというよりは、曲の構成やアレンジで聴かせるような曲も多く、4曲目の"Hallelujah"なんかもメロディは比較的単調なんですけど、こったアレンジで聴かせます。8曲目の"Nothing But You"でも女性ボーカルのJosephine Vander Guchtのラップっぽいのもありますし、ちょっとヒッピホップっぽさもあります。

 9曲目の"I Wish I Never Met You"はHer Space Holidayを思わせる曲で、ストリングスのループをバックに使っていて、ヒップホップの影響を受けたエレクトロニカという感じです。10曲目の"Nebraska"もいいですし、前半はちょっと弱く感じますが、ラストの流れはいいですね。

 

 


Oh Wonder - I Wish I Never Met You (Official Video)

 

 

『1917 命をかけた伝令』

 サム・メンデス監督作品で、第一次世界大戦西部戦線を舞台に、前線の部隊に攻撃中止の命令を伝える伝令の体験を描いた映画。まるで、前編ワンカットで撮影したように構成されていて(途中で暗転するシーンもあるので相当な長回しをつないでいるのだと思いますが)、観客を没入させる形で戦場へと引きずり込みます。

 最初に味方の塹壕を歩き回るシーンでは。「一体どんなセットを組んでいるんだろう?」と思わず考えてしまいますが、だんだんとそういった考えが頭に浮かばなくなるほど緊迫感が増してきます。

 

 ただし、この映画には少し奇妙なところがあって、後半からはやや幻想的なシーンが多くなります。前半は徹底的にリアリズムで行くのかな? と思わせるのですが、後半はやや違うのです(考えられる理由については後述します)。

 この幻想的な感じが強くなることについては賛否もありそうですが、個人的にサム・メンデス湾岸戦争を描いた『ジャーヘッド』の後半にある戦場をさまようシーンを思い出しました。あの映画では油にまみれた馬などが妙に神秘的に描かれていたわけですが、今作にもそういったところがあります。

 ただ、そういった中でもラスト近くにある見方の突撃の中を横切って走るシーンは素晴らしい! 近年の映画の中でも屈指のシーンではないかと思います。

 

 実話ベース好きの最近のハリウッドの動向からすると、後半の幻想的な感じがアカデミー賞の主要部門を逃した原因ではないかとも思いますが、4DXのような周辺機器に頼るのではなく、あくまでも画面を通じて観客を映画の世界に引きつけるという点で、既存の大作映画から一歩踏み込んだ映画と言えるのではないでしょうか。

 

 

 

 

 以下ネタバレ含みます。

 

 

 この映画が後半幻想的になる要因ですが、おそらく、画面が暗転して夜になる場面でスコフィールドは死んでますよね。

 そうなると後半の妙に幻想的な様子も説明がつきます。例えば、スコフィールドが川に流されるシーンはまるでジョン・エヴァレット・ミレーの『オフィーリア』です(シェイクスピアの『ハムレット』に出てくるオフィーリアは溺死する)。

 また、スコフィールドが赤ん坊を世話する女性にミルクを差し出すシーンも、ミルクを水筒に入れたりする寄り道がトムの死につながったことを考えると、そのミルクに意味をもたせるための想像とも考えられると思う。

 

『フォードvsフェラーリ』

 終わってしまうギリギリで見てきましたが、これはハリウッドの王道映画とも言える作品ですね。

 ル・マン24時間レースで優勝したものの心臓病でレーサーを引退したキャロル・シェルビー(マッド・デイモン)と、偏屈でありながら車の特徴を見抜く目とドライバーとしてのテクニックが抜群なケン・マイルズ(クリスチャン・ベール)のコンビが、フォードの車でル・マンで当時無敵を誇っていたフェラーリに挑むという話。

 

 当然ながら、マッド・デイモンとクリスチャン・ベールの二人は良いです。特にクリスチャン・ベールは偏屈な人間を自然に演じてますし、マッド・デイモンにも説得力がありますね。他にもケン・マイルズの奥さんを演じたカトリーナ・バルフ、リー・アイアコッカを演じたジョン・バーンサルも良かったと思います。

 このアイアコッカを中心にフォードとフェラーリの因縁(フォードはフェラーリの買収を試みるがフィアットの噛ませ犬にされただけだった)を描いているところや、硬直化しつつある巨大企業フォードの問題点なども描いていて、たんなる男の友情物を超えた面白さがあります。

 

 そしてレースシーンも斬新さとかはないですが、細かいカットをつなぎながら迫力のあるレースシーンを再現してます。ル・マンに関しては、もう少しレース時間の長さを感じさせるような描写にしても良かった気もしますけど、やりすぎるとダレるでしょうし、このあたりは難しいですね。

 

 実話をもとにした王道的な話の進め方で、何か良い意味で期待を裏切る展開とかはないのですが、映画になりそうな話を、きちんと映画として仕上げてきたところにこの映画の良さがあるのだと思います。

 ただ、これが正月映画ではなくて冬休みが終わった後に公開されているところが、近年の日本における洋画の弱さを象徴しているような気がしますね。

 

エリック・A・ポズナー/E・グレン・ワイル『ラディカル・マーケット』

 「市場こそが社会を効率化するもので、できるだけ市場原理を導入すべきだ」という考えは、いわゆる新自由主義の潮流の中でたびたび主張されており、特に目新しい提案ではないです。

 では、この本は何が目新しいのか、何がラディカルなのかというと、私有財産を一種の独占とみなして、その市場における特権的な地位を再検討していることです。資本主義というと市場経済私有財産制がその柱となっていますので、資本主義自体を問い直そうとする思い切った試みになります。

 

 こちらのページの安田洋祐の解説によると、E・グレン・ワイルは学部生時代から大学院生たちを(ティーチング・アシスタントとして)教える、スーパーな学部生で、平均で5、6年はかかる経済学の博士号(Ph.D.)を、たった1年でゲットしてしまう天才的な人物だそうです。

 もう1人の著者はゲイリー・ベッカーと共著のある人かと思ったら、そちらはリチャード・アレン・ポズナーで、こちらはエリック・A・ポズナーでした。こちらはロースクールの教授になります。

 この本は各章ごとに1つの制度改革を訴えており、以下でもその中身を章ごとに簡単に見て、それぞれについての感想を書いていきます。

 

 目次は以下の通り。

序文 オークションが自由をもたらす
序 章 自由主義の秩序の危機
第1章 財産は独占である――所有権を部分共有して、競争的な使用の市場を創造する
第2章 ラディカル・デモクラシー――歩み寄りの精神を育む
第3章 移民労働力の市場を創造する――国際秩序の重心を労働に移す
第4章 機関投資家による支配を解く――企業支配のラディカル・マーケット
第5章 労働としてのデータ――デジタル経済への個人の貢献を評価する
結論 問題を根底まで突き詰める
エピローグ 市場はなくなるのか

 

  第1章は「財産は独占である」と題されており、私有財産制の不可侵性を一部解除するような提案がなされています。

 私有財産制こそ資本主義の根幹だと思われていますが、私有財産制は必ずしも効率的とは言えない部分もあります。例えば、鉄道や道路をつくろうとしたとき、土地の所有者の1人でも反対すれば、工期は長引き、ルートも最短距離から変更されたりするかもしれません。

 

 この問題を解決しようとしたのが19世紀の経済学者ヘンリー・ジョージです。ジョージは土地の地代に100%の課税をすることで土地の独占を解消しようとしました(地主は全く儲からなくなる)。

 このジョージの提案はいささか問題含みのものでしたが、1996年にノーベル経済学賞を受賞したウィリアム・S・ヴィックリーはオークション的な手法を導入することで、土地などの独占の問題を解決しようとしました。さまざまなものを共同所有という形にして、それを使う権利が絶えずオークションにかけられるような制度を構想したというのです(このあたりの書き方は微妙でヴィックリー自身がどこまで構想していたのかはよくわからない(95−96p))。

 

 本書ではこのアイディアをもとに土地に関する自己申告税制が提案されています。これは孫文も考えたことで、近年ではアーノルド・ハンバーガーが主張しています。

 まずは自分の持つ不動産の価値を自己申告させその価値に基づいて納税させます。当然、人びとは過少申告しそうですが、一方でその金額を払う者が現れたなら、必ずその金額で売ることを義務付けるのです。これによって土地の所有者は自らの正確な評価額を申告する必要が出てきます。そうしなければ他者に買われてしまうからです。

 

 本書ではこの税を富の「共同所有申告税(COST)」と名付けています。これによって土地の独占が排除されるとともに、財産から来る利益の一部が公共に移転されます。運用に関する細かい細部に関しては114〜117pに書かれていますが、著者らはこのCOSTによって資産が今以上に有効に活用されると考えています。また、資産価格は低下すると考えられます(将来払う税金を計算に入れなければならないので)。

  このCOSTは不動産以外にも例えば電波のような公共財にも適用できますし、COSTを年7%程度の税率にすれば他の非効率な税を廃止することでもできます。格差に関しても資産に課税が行われるので縮小すると考えられます。

 

 感想:なかなか面白いアイディアだと思いますが、人びとが経済的な合理性を重視して行動していくれないと困った面も起きてくるのではないかと思います。例えば、金持ちが気に入らない隣人を追放するためにその隣人の不動産を買い取るということも十分にありえるのではないかと。「独占の最大の利益は、静かな暮らしを送れることだ」(120p)というヒックスの言葉が紹介されていて、本書ではCOSTこそ怠惰を許さない効率的なしくみだとされているのです、むしろ最低限の「静かな暮らし」を保障する仕組みがないと個人的には困ると思いました。

 

 第2章は民主主義の新しいスタイルが検討されています。簡単に言えば「票を貯める」事ができるしくみです。

 民主主義では「1人1票」が基本ですが、けっこうな数の有権者が棄権しています。その理由はその人が政治の意義を理解してないことや、その人の怠惰に求まられたりもしますが、「投票する前から結果が明らかである」、「その選挙(イシュー)には興味がない」というケースも多いと思います。

 

 この後者のケースを解決できるのがボイスクレジットのしくみ(QV)です。有権者はボイスクレジットというものを貯めることができ、それは平方根関数に従う形で、1ボイスクレジット=1票、4ボイスクレジット=2票、9ボイスクレジット=3票という形で行使できるのです。

 つまり毎年一回、選挙や国民投票があるとして、毎回参加するなら1票を、4年に1回だけ参加するなら2票を、25年に1回参加するなら5票を投じられるわけです。

 これによって政治活動に熱心な人が政治を左右してしまう状況を変えることができますし、いわゆる「忘れられた人々」を生み出しにくくなります。今までは「どうせ選挙に行かないでしょ」と無視された人びとが多くの票を溜め込んでいて、彼らの行動こそが選挙結果を左右することになるかもしれないからです。

 

 一方でこれは少数者の利益を擁護することにもつながるかもしれません。例えば、今の日本で夫婦別姓に関する国民投票をやった場合、どちらが勝つかは微妙でしょう。けれども、このQVのしくみのもとで行えば、夫婦別姓に重要な利益を見出している女性たちが複数票を投じることで通る可能性は高まるのではないでしょうか。

 また、著者らはボイスクレジットという予算成約がつくことで分極化を抑える効果があるのではないかと期待しています。例えば、オバマケアへの賛否も一般的な調査では「強い賛成」と「強い反対」に分極化しますが、QVを使った調査だと他の項目でボイクレジットを使ってしまうこともあり、オバマケアへの賛否はより緩やかになります(179p図2.4参照)。

 さらに著者らは選挙において「不支持」の票を投じることができるようにすべきだとも提案しています(185−186p)。

 

 感想:これはこの本の中でももっとも面白い提案だと思います。上にも書いたように「忘れられた人々」の問題を解決するために大きな力を発揮しそうですし、有権者の自分の行動の有効性を高めそう。ただし、ずっと認知症で票が貯まっている人が狙われたりといった細かい問題は残るでしょう。また、こうなるとマスコミの事前報道が重要になりそう。例えば、5選くらいしている知事で選挙は毎回ワンサイドゲーム、多くの人はここ2,3回棄権に回っているというような状況があり、そこに有望そうな新人が出てきた場合、マスコミが事前報道でどのくらいの数字を示すかで選挙に行く人の数が大きく変わってきて結果も変わってくるでしょう。例えば、事前報道で現職70:新人30と現職65:新人35という数字があったとして、後者なら今までの棄権者が一気に動くというようなことが有り得そうです。ちなみに「結論」ではボイスクレジットを金銭に置き換える提案もされているけど、それは良くない。

 

 第3章は途上国の移民を先進国に住む個人が引き受けるというアイディア。

 一般的な経済学の観点からは国境が開放されて途上国から先進国へ労働者が移住すれば生産性が上がり、世界全体が豊かになると言われています。一方、途上国から多くの低技能労働者が先進国にやってくれば打撃を受けるのが先進国の低技能労働者です。

 そこで提案されるのが個人間ビザ制度(VIP)です。これは一般市民が誰でも移住労働者の身元引受人になれる制度で、一般市民は1人の移民を引き受けることができます。移住労働者は福祉給付は承けられず、引き受けた市民がある程度世話をする必要があります。その代わりに引き受けた市民は移住労働者から給与の一定の割合を受け取ります。移住労働者は母国よりも高い賃金を手にし、引き受けた市民はその一部を受け取ることができるというわけです。

 著者らはこれによって双方が経済的利益を受けるだけでなく、双方の理解が進み、反移民の感情なども緩和されるのではないかと見ています。

 

 感想:これは本書の中で一番筋が悪い提案のように思えます。先進国の市民が途上国の若者を性的に搾取する目的で引き受けるということが十分にありすですし、そもそも個人が赤の他人についての責任を引き受けるというのは難しいのではないかと思います。いくらテレビ電話でマッチングをしたとしても手に負えないような人物がやってきてしまう可能性はありますし、労災にあってしまったときの対応など、なかなか難しいものがあるでしょう。

 

 第4章は「機関投資家による支配を解く」と題されています。これはさまざまな企業の株式を保有する機関投資家の存在が健全の競争を阻害しているのではないか? という疑問に答えるものです。

 機関投資家アメリカの株式市場の時価総額の1/5以上を支配しており、分散投資とパッシブ運用(長期保有)がスタンダードな戦略となっています。これによって一種の独占が生じているというのが著者らの主張です。

 

 例えば、アメリカの6代銀行の株主を見ると、ブラックロック、フィデリティ、バンガード、ステート・ストリートといった機関投資家が上位にいます(265p表4.1参照)。こうした状況は価格競争を阻害する恐れがあります(銀行だと想像しにくいけど、この機関投資家による支配は他の産業でも起きている)。A社の株のみを持っている株主であればライバルのB社に勝ってシェアを伸ばすことを望むでしょうが、A社とB社の株を持つ機関投資家が望むことは両社が利益を分け合うことでしょう。 実際、航空業界では機関投資家が株式を保有している航空会社が競合しているときのほうが、そうでないときよりも運賃が高くなる傾向があるそうです(273−274p)。

 このような機関投資家はライバルに勝つことよりも人員削減を行うことによって株主の利益を増やすことを望むかもしれません。

 

 そこで著者らは「寡占状態で1社以上の実質支配企業の株式を所有し、コーポレートガバナンスにかかわっている投資家は、市場の1%以上を所有することはできない」(277p)というルールを主張しています。インデックスファンドに関しては、企業とやり取りをしない、他の投資家と同じ割合で投票する「ミラー投票」を行うなどの条件をつければ認めてもいいと考えています。

 著者らはこの章の終わりで労働市場における買い手独占についても批判しています。企業が結託して労働者を安く買い叩くような行為を政府は規制すべきだというのです。こうした分野を含めて反トラスト法をもっと幅広く適用すべきだというのが著者らの考えになります。

 

 感想:テクニカルな部分についてはわかりませんが、この機関投資家の規制というのはありではないかと思います。企業同士のカルテルを規制しても、機関投資が多くの企業の大株主となればカルテルを結んでいるのと同じであり、一定の規制は正当化できるのではないでしょうか。四半期ごとの決算ばかりにこだわる株主が大半になれば、企業の長期的な成長も疎外される気がしますし。

 

 第5章はデジタル経済におけるデータの問題について。GoogleFacebookといった企業は利用者のデータを解析してそこから巨額の収益をあげています。一方で、そのデータを提供した個人には報酬が支払われるわけではありません(さまざまなサービスを無料で使えるというメリットはありますが)。

 そこで本章では「データ労働」という考えを提唱しています。現在の機械学習においてはデータはあればあれほどよい状況であり、追加的なデータにも価値があります。しかし、現実の世界ではデータに関しては書いて独占が起きており(GoogleFacebookといった一部のプラットフォームが圧倒的に強い)、これをなんとかしたいというのが著者らの考えです。

 方向性としてはユーザーが労働組合的なものをつくって対価を要求する、タグ付けなどに対価を払うなどが提起されていますが、具体的な方策に関してはやや曖昧です。

 

 感想:方向性としてはありだとしても、実効性や具体的な方策としてはやや弱く感じました。巨大プラットフォームの個人データ収集に関しては一定の歯止めなりルールが必要だとは思うのですが、この章を読んでも答えを得たような気にはなりませんね。

 

 全体の感想:タイトルに「ラディカル」とついているだけあって、まさにラディカルなアイディアが示されていて面白いと思います。今まで「市場を重視」というとリバタリアニズム自由至上主義)が思い浮かびましたが、本書で主張される立場は私有財産制を大きく揺るがすものでリバタリアニズムとはそこが大きく違っています。「市場至上主義」とも言うべき立場で面白いと思います。

 ただし、全体的にあまりにも人間が経済的な動機と行動するものだと想定していると思いました。途中でヒックスの「独占の最大の利益は、静かな暮らしを送れることだ」という言葉を紹介しましたが、独占は別にしても、効率的なしくみだけではなく「静かな暮らし」を保障するようなしくみも必要ではないかと思いました。

 

 

パク・ミンギュ『短篇集ダブル サイドA』

 『ピンポン』『三美スーパースターズ』という2冊の長編が非常に面白かったパク・ミンギュの短編集。この短編集は2枚組のアルバムを意識しており、『サイドA』と『サイドB』が同時に発売されていますが、とりあえず『サイドA』から読んでみました。

 収録されている作品は、現代韓国を舞台にしたものとSFの2種類があり、SF作品は奇想系の作品に近いテイストです。

 

 とりあえず前半に収録されている「近所」、「黄色い河に一そうの舟」、「グッバイ、ツェッペリン」の三作は現代の韓国を舞台にした作品で、いずれも非常に上手いと思います。

 「近所」はガンになって仕事を辞めた男が主人公、「黄色い河に一そうの舟」は退職して認知症の妻を抱える男が主人公。いずれも競争社会をドロップアウトしてしまった人物を中心にして、軽快なタッチで、しかも深く、人生のままならなさを描いています。

 「グッバイ、ツェッペリン」は小さな広告会社に務める主人公と先輩が、広告のために空に浮かべたもののロープが切れて飛んでいってしまった飛行船を追いかけるというもの。こちらもまさにままならない状況を描いているわけですが、そのままならなさのおかしみと、先輩との関係の変化といったものが面白いです。ちなみに、いきなり仮面ライダー555が出てきます。

 

 また、なんといっても気持ちがいいのがそのスピード感のある文体。基本的に小さなブロックごとに文章を作っていくようなスタイルなのですが、そこに短文を差し挟むことで加速するような文体をつくり上げています。例えば、こんな感じ。

 

 人間は結局、めいめいの死を待つために耐えに耐えている存在じゃなかったか。その部屋で荷物をほどいて、僕は掃除を始めた。あのときの水気がまだ手に残っているような感じだ。悲しげな月が

 

 わが身を削っているような、深夜だ。

 

 『天路歴程』の第一部を読み終えるころ、ホギから電話がかかってきた。(「近所」25p)

 

 SF系の作品に関しては、ディテールというよりはアイディア勝負の作品が多く、不条理系とも言えるような作品もあります。

 そんな中で面白く感じたのが、「グッドモーニング、ジョン・ウェイン」と「〈自伝小説〉サッカーも得意です」。

 「グッドモーニング、ジョン・ウェイン」は人体の冷凍技術が発達し、不治の病になった人びとが将来の治療のために自らの身体を冷凍するようになった未来が舞台の作品で、ジョン・ウェインが核実験場で映画の撮影をしたために死んだという都市伝説や、全斗煥大統領らしき人物を登場させ、最後にオチを決めます。SF系の作品の中ではもっとも完成度が高いでしょうか。 

 一方、「〈自伝小説〉サッカーも得意です」は自分の前世はマリリン・モンローだったという突拍子もない話から、いかに自分が文学者になったかということを宇宙人なども登場させて描きます。もちろん、無茶苦茶な話ですが、パク・ミンギュの無茶苦茶な話は面白いです。

 

 やはり力のある書き手であることは間違いなく、これは『サイドB』も読まなければなりませんね。

 

 

『リチャード・ジュエル』

 一言で言えば非常に「反時代的」な映画。基本的には、イーストウッドがここ最近好んで取り上げる、「無名の人の行った英雄的行為」を描いたもの。アトランタオリンピックの開催中に起きた爆弾テロ事件において、爆弾をいち早く発見し、被害の拡大を防いだリチャード・ジュエルが主人公です。

 ただし、この話のポイントは、リチャード・ジュエルがヒーローから一夜にして容疑者扱いされるようになったことにあります。英雄になるために自ら爆弾を仕掛けてそれを発見するというのは過去に見られた手口でもあり、リチャードもそういった人物ではないかと疑われたのです。

 しかも、それがFBIからマスコミにリークされたことから、リチャードはマスコミに追い回され、彼と母親は生き地獄を経験することになります。このリチャードを以前からの知り合いであった弁護士のワトソン・ブライアントが救うというのが映画の筋書きです。

 

 このように書くと、いかにも映画になりそうな話ではあるのですが、この映画に関しては主人公のリチャード・ジュエルが、母親と同居するややマザコン気味の貧乏な白人男性で、デブで権威好きでガンマニアで同性愛嫌悪でと、およそ現代のハリウッド映画で主人公になれないような属性をもつ人間なのです。

 普通の映画監督であれば少し人物像の修正を行いたいところですが、イーストウッドはこのようなやや問題含みの人物をそのままに描き出し、彼を通じて「普通の人々のプライド」を描き出します。

 一方、リチャード・ジュエルを最初に容疑者扱いする記事を書いた女性記者の扱いはひどいです。最後に改心して涙を流すシーンもありますが、それすらも「薄っぺらい人間は最後まで薄っぺらいものだ」ということを描こうとしたのではないかという穿った見方をしてしまいます。

 

 太宰治が敗戦後に真の自由主義者が今叫ぶべき言葉は「天皇陛下万歳!」だということを短編の「パンドラの匣」で言っていますが、この映画はポリティカル・コレクトネス全盛の時代に「天皇陛下万歳!」と叫んでいるような映画だと思いました。