Phoebe Bridgers / Punisher

 アメリカLA出身の女性シンガーソングライターPhoebe Bridgersの2ndアルバム。ちなみにこのエントリーを書く直前まで気づきませんでしたけど、Bright Eyesコナー・オバーストがやっていたBetter Oblivion Community Centerの人ですね。

 最初にこのアルバムを買うきっかけとなったのは次の"Kyoto"のPVを見たからなのですが、「日本で撮影しようと思ったけどコロナで撮れなかった?」と思わせるようなペラペラの映像、音的にもけっこうペラペラな感じです。

 ただ、これが何とも気持ちいい。ペラペラなんだけどトラックのメロディにはしっかりとした良さがあるんですよね。

 


Phoebe Bridgers - Kyoto (Official Video)

 

 このペラペラっぽいけど、トラックが何とも心地よいというのは、他の曲でも言えることで、9曲目の"ICU”あたりがそうです。さらに6曲目の”Chinese Satellite”や7曲目の"Moon Song"ではトラックの良さに加えて、Phoebe Bridgersのヴォーカルの良さも光りますね。

 

 そしてラストの”I Know the End"。最初は非常に静かな感じで始まるこの曲ですが、2:30を過ぎた頃から、祝祭的に盛り上がっていく感じが素晴らしい。ホーンが鳴り響くトラックの祝祭感は、Arab Strapの"There Is No Ending"を思い出しました。

 この最後の締めが効いていることもあって、これは良いアルバムだと思います。

 


Phoebe Bridgers - I Know the End (Official Video)

 

 

待鳥聡史『政治改革再考』

 平成という時代の政治を振り返ってみると、「改革」という言葉が飛び交い、実際に「改革」が行われた時代であったと言えるでしょう。小選挙区比例代表並立制が導入された選挙制度改革と、省庁再編、地方分権、司法改革、さらには日銀法の改正と、憲法の改正に匹敵するような改革が続きました。

 しかし、一方で2度の政権交代はあったものの、結局は自民党が政権を維持し続けており、次の政権交代が見えてこないという55年体制を思わせるような状況も続いています。司法制度改革なども当初の想定通りに進んでいるとは言えないでしょう。

 それはなぜなのか? という疑問に答えようとしているのが本書です。著者は『代議制民主主義』『政党システムと政党組織』『民主主義にとって政党とは何か』などの著作で、現代の民主主義に関する鋭い考察を披露してきた人物ですが、 本書でもここ30年の改革を大きなスケールで鋭く分析しています。

 

 目次は以下の通り。

序章 政治改革への視点
第1章 政治改革の全体像
第2章 選挙制度改革
第3章 行政改革
第4章 日本銀行・大蔵省改革
第5章 司法制度改革
第6章 地方分権改革
終章 改革は終わったのか

 

 本書の特徴は、改革を単体としてではなく、他の改革や変わらなかった制度との関連(マルチレヴェルミックス)で分析しているところ、改革の「アイディア」が実際の制度に落とし込まれる際の「土着化」に注目している点にあります。改革は行われたものの、一部は他の制度と不整合だった面もありますし、また、実際の制度として実現していく過程で、さまざまな妥協や変形を迫られているのです。

 

 また、一連の改革の担い手として「近代主義右派」という立場を想定しているのも本書の特徴と言えるでしょう。この一連の改革の背景に「新自由主義」があげられることが多いですが、例えば、省庁再編を進めた橋本龍太郎を「新自由主義者」と呼ぶのはためらわれますし、政治分野の「改革」の主人公の一人である小沢一郎も筋金入りの「新自由主義者」とは言い難いでしょう。

 日本の社会が古い因習を捨てて「近代化」すべきであるという「近代主義」は、明治以来、知識人の1つの伝統となっていますが、戦後になると近代主義は主に左派によって担われるようになり、右派はその存在感が薄まります。

 しかし、そうした中でも60年代後半以降になると、『中央公論』の編集者・粕谷一希の周囲に高坂正堯永井陽之助山崎正和といった人物が集まり自民党政治にも一定の影響力を持ち始めます。こうした素地に、牛尾治朗小林陽太郎といった海外経験を持つ経済人が加わって改革が進められていくことになるのです。

 

 80年代になると、自民党の派閥政治の弊害や官僚機構の現状維持志向が問題視されるようになってきます。対外的には日米貿易摩擦アメリカからのさまざまな要求、冷戦の終結と新しい国際貢献の必要性などから、それに対応できる新しい政治というものが求められるようになりました。

 さらにリクルート事件、佐川急便事件といった一連の政治腐敗事件が、政治家を「改革」せざるを得ない状況に追い込んでいくのです。

 

 こうしたことを踏まえた上で第2章以降では具体的な改革を見ていきますが、まずは選挙制度改革です。

 現在では中選挙区制を懐かしむ声も聞かれますが、定数が複数でしかも有権者が一人の候補者にしか投票できないという単記非移譲式は、世界的に見てもあまり例がない制度で、利益誘導を生みやすいということは、政治学者の書いたさまざまな本で指摘されていることです。

 先ほど述べたように、リクルート事件をはじめとするさまざまな政治腐敗事件が、選挙制度改革を用意するわけですが、単純に腐敗防止のため、つまり政治の自浄能力を高めるためであれば、選挙制度は変えずに違反に対する罰則を強化し、政治資金の流れを透明化するという方向性もありましたが、同時の当時の日本では政治が国際情勢などの変化に適切に対処できるのか? という応答性が問われていました。

 そこで、イギリスのウェストミンスターモデルをお手本とした大きな改革が動き出すことになります。

 

 しかし、ここで「土着化」の問題が出てきます。イギリスのような単純小選挙区制を導入しようとすると中小政党の賛成は得られません。そこで民意の集約や意思決定の責任の明確化には小選挙区制が優れているとの認識のもとで、一種の妥協として比例代表部分が付け加えられ、小選挙区比例代表並立制が成立します。

 この改革は、日本の政治に二大政党制への志向をもたらし、実際に2009年には民主党による政権交代が成し遂げられました。また、介護保険子ども手当、TPPへの参加といったマクロ志向で普遍主義的な政策は、選挙制度改革によってもたらされたという分析も可能でしょう。

 

 ただし、いくつかの想定外の出来事も起こりました。まず1つは、比例部分が残ったことで小政党が残り続け、むしろ大政党の分裂を促すような結果となったことです。また、小政党が比例の票の掘り起こしのために勝算がなくても小選挙区に候補者を立てたことも想定外だったと言えます。これらは野党の結集の大きな妨げとなりました。

 さらに日本にはイギリスと違って参議院というかなり大きな権限を持ったもう1つの議院があり、しかも、その改革は比例代表に非拘束名簿が導入されたことを除けば手つかずでした。地方議会の選挙に関しても選挙制度改革は行われず、これらの存在が二大政党制への移行を妨げることになります(地方議会の選挙制度がもたらす影響に関しては砂原庸介『分裂と統合の日本政治』参照)。

 

 第3章は行政改革をとり上げています。行政改革自体は、1960年代前半の第1次臨時行政調査会、70年代末〜80年代前半の第2次臨時行政調査会と取り組まれてきた経緯がありますが、90年代後半の橋本行革はやや違う流れの上にあるというのが著者の見立てです。

 中曽根内閣による行革は、基本的に「小さな政府」の流れに沿うものでしたが、橋本行革は、統治機構の再編を通じて、「国のあり方」、さらには「国民のあり方」を問い直すべきものでした。

 そのために、省庁再編によって行政の無駄を削るとともに、内閣府の強化によって首相のリーダーシップが発揮できる体制の構築が目指されました。

 

 橋本行革もその「土着化」の中でさまざまな変更を迫られることになります。特に省庁再編に関しては「「羊羹の総量を変えずに切り幅を変えた」に過ぎない」(149p)といった批判も寄せられましたが、一方で内閣機能の強化はほぼ無傷のまま生き残りました。「多数派形成の過程において省庁再編や「小さな政府」志向が前景化されることで、「強力な政府」志向の内閣機能強化は行政改革会議の最終報告後の政治過程を息抜き、実現できた」(149p)のです。

 さらに著者はこの「生き残り」の要因として、内閣機能の強化は行政部門に対する政治部門の全般的な優越を確保するものだと思われたこと(だから政治家からは反対意見が出にくい)、官僚が組織防衛に追われていたことなどがあげられています。

 

 このように改革当時には大きな注目を浴びていなかった内閣機能の強化ですが、これが大きな改革であったことは、小泉内閣、そして第2次以降の安倍内閣で明らかになります。

 本章の最後では、橋本行革の1つの柱であった「アウトソーシング化」が、見せかけとしての公務員削減につながっただけで、かえって説明責任を見えにくくさせたことなどが指摘されています。本書で指摘されている国立大学の独立行政法人化などは、まさにそうした例になります。

 

 第4章は日銀・大蔵省改革です。日銀の独立性を高めるべきだという声は以前からあり、特にバブルの発生を防げなかったことなどから改革の必要性が指摘されるようになりますが、この改革を推し進めた原動力は大蔵省不祥事と、そこから起こった大蔵省バッシングです。

 大蔵省は金融業界に非常に強い力を持って君臨していましたが、バブル崩壊後に噴出したさまざまな金融スキャンダルや不良債権問題は、大蔵省批判の材料になりました。もちろんバブルの問題については日銀にも責任があったわけですが、三重野総裁がバブルを退治する「平成の鬼平」としてのイメージを獲得すると、日銀には善玉のイメージが付き、批判の矛先は大蔵省へと向かいます。

 

 このイメージと、当時の政治状況(自民党社会党・さきがけと連立しており、野党の新進党は改革をアピールする政党であった)などから、大蔵省改革は予想以上にラディカルな形で進んでいきます。

 日銀改革ついても当初はもっと政府の関与を残すような方向性でしたが、日銀改革が大蔵省改革とリンクすることで、マスコミや国会議員の注目を集め、「日銀の独立性を弱める=大蔵省の影響力を残す」というイメージがつくり上げられていきました。

 この日銀の独立性を高める改革は、一方で行われた内閣機能の強化に見られる集権的な改革とは違った方向性を持つものです。現在は、安倍首相と黒田日銀総裁が「協調」しているために大きな問題とはなっていませんが、安倍首相と白川前総裁のように政府と日銀が対立し、経済政策がうまく進まないケースというものは十分に考えられます。

 

 第5章は司法改革。司法改革に関してはかなり大きな改革が行われながら、一般の目から見ると大きな変化が感じられない分野かもしれません。

 日本の司法において問題とされたのは司法が国民から遊離しているという問題でした。そのために改革の方向性として打ち出されたのが社会との接点を増やすことです。

 そこで、改革の柱となったのが法科大学院ロースクール)の設置とそれに伴う法曹人口の増加、裁判員制度の導入になります。他にも法テラスの設置、知財高裁の設置、労働審判委員会の創設など、多くの改革が行われました。

 

 しかし、司法改革は「土着化」に失敗したと言えるかもしれません。制度自体はその他の改革に比べるとスムーズに変革されたものの、目玉であったはずの法科大学院は閉鎖が相次ぎ、裁判員制度に関しても辞退率や欠席率が高止まりしています。

 いくつかの面については改革の成果は上がっているものの、当初の目論見通り国民と司法の接点が顕著に増加したとは言えない状況です。裁判員制度に関しては殺人などの重大な刑事事件に絞って導入したことに無理があったのかもしれませんし、法科大学院に関しては、設置しすぎ、予備試験の存在など、細かい部分の詰めが甘かったのかもしれません。

 専門性の高い分野であるがゆえに、制度の帰結に関して法曹以外のアクターが予想しづらかったことも要因かもしれません。また、著者は政権交代が想定ほど起きなかったことが、司法部門と行政部門の関係に変化をもたらさなかったことも要因の1つとして指摘しています。内閣法制局長官の山本庸幸が最高裁判事に転じたことが「左遷」のようにみなされたのは、そうした関係とそこから生じる司法部門への政治家の認識の現れだと著者は分析しています。 

 

 第6章は地方分権改革です。90年代前半から政治改革とともにさかんに唱えられたのがこの地方分権で、政治改革や行政改革と同じく、新たな国際的な課題に対処するため必要だという理由付けがなされました。今までの日本の中央の行政システムはあまりにも地域の問題に注力しすぎていて、新たな国際問題に対処するためには地方のことは地方に任せ、リソースを外交や安全保障などに集中させるべきだという考えです。

 しかし、一方で政治改革や行政改革が首相(与党の党首)とその周辺に権力を集める集権的なものだったのに対して、地方分権は文字通り分権的な改革です。

 

 地方分権改革は、95年の地方分権推進法の成立、99年の地方分権一括法の成立、03〜05年にかけての三位一体の改革、さらには市町村合併、06年に成立した地方分権改革推進法に基づく改革と、かなりの長期に渡って進められました。

 地方分権改革が政治の重要テーマとして浮上し、実際に改革が動き出したのは93年の細川連立政権からで、細川首相が元熊本県知事、武村官房長官が元滋賀県知事、五十嵐広三建設大臣が元旭川市長といった取り合わせが地方分権の優先順位を大きく押し上げました。武村と五十嵐は村山政権でも大きな役割を果たしています。

 

 こうして地方自治体はより自律的な存在となり、中央省庁の関与は縮小しました。ただし、すべての地方自治体に自律的に動ける能力があるかどうかは疑問ですし、日本では地方議会が大選挙区制をとっており、議員が自治体全体の利益を考えずに、自治体全体の利益を代表するのは首長のみという構図になりやすいです。何事も首長次第ということになりやすいのです。

 また、国と地方との関係において、中央省庁の官僚と地方自治体の職員がつながることによる行政ルート、補助金を通じた財政ルートが縮小するのは予想通りの帰結でしたが、選挙制度改革と市町村合併は、政党の意思決定の集権化と、市町村議員の減少による自民党議員と保守系地方議員の系列関係の希薄化をもたらし、政治ルートの縮小ももたらしました。

 

 以上の本書では、広い範囲で行われた改革を改めて点検し、その要因と帰結を分析しています。

 終章ではそのまとめがなされていますが、そこで改めて指摘されているのはマルチレヴェルミックスでの不整合と、改革が不着手になっている領域の存在です。マルチレヴェルミックスの不整合の代表例は集権的な改革と分権的な改革の混在であり、衆議院参議院あるいは地方議会の選挙制度のズレなどです。一方、不着手の領域の代表例が参議院になります。参議院に関しては本格的な改革には憲法改正が必要であり、ここは日本における憲法改正の様々な面からのハードルの高さが問題になってくるでしょうね。

 

 著者も言うように、本書でとり上げられている改革は憲法改正に匹敵するような改革だったと思います。ただ、やはり「9条の呪縛」のようなものがあるため、憲法改正そのものには手を付けにくい状況はいまだに続いているわけで、憲法を変えるにしろ変えないにしろ、そこでどのような知恵を出していくかが重要になるとも感じました。

 というわけで、本書の著者が編者となっている『統治のデザインー日本の「憲法改正」を考えるために 』を読み始めたところです。

 

 

 

 

マーク・マゾワー『国連と帝国』

 授業で国連とかのことを話すときに、「なにか面白い本はないか?」と探していたら、『暗黒の大陸』のマーク・マゾワーが本書『国連と帝国』を出していたことを思い出して、さらに古本がネットで安く買えたので読んでみました。

 中学・高校生向けの授業のネタとしてはほぼ使えない感じではありますけど、いろいろと面白い本ですね。

 読書メモ程度に簡単に振り返っておきます。

 

 目次は以下の通り。

序 章
第1章 ヤン・スマッツ帝国主義インターナショナリズム
第2章 アルフレッド・ジマーンと自由の帝国
第3章 民族、難民、領土 ユダヤ人とナチス新体制の教訓
第4章 ジャワハルラール・ネルーとグローバルな国際連合の誕生
終 章

 

 本書は2007年にプリンストン大学で行われた連続講演をもとにしたもので、イラク戦争などを受けて国連の無力さが露呈された中で、今一度国連の源流を探ってみるといった内容になっています。

 そこで著者が打ち出してくるのが「イギリス帝国との連続性」という意外なものです。なんとなく「第二次大戦によってイギリス帝国は完全に終わった」というイメージがありますが、この「帝国」というのは1つの模範として意識されていて、それが国連の憲章やその他諸々の部分に流れ込んでいるというのが著者の主張になります。

 

 本書の主人公とも言えるのが南アフリカの軍人にして政治家のヤン・スマッツです。スマッツ国際連盟国際連合の創設の両方に関わった唯一の政治家であり、国連憲章の制定にも重要な役割を果たしています。

 一方で、スマッツは母国の南アフリカアパルトヘイトを推進した人物であり、間違いなく人種差別主義者でもありました。

 この「南アフリカの政治家であるヤン・スマッツが、国連憲章の感動的な前文の起草に貢献したという事実をどう考えればよいのか」(21p)というのが本書の出発点になります。

 

 このスマッツと第2章でとり上げられるアルフレッド・ジマーンに共通するのが、世界の文明化には大英帝国的なものが必要だという信念です。

 スマッツ第一次世界大戦のころ、「イギリス帝国を「世界政府の実験として唯一成功したもの」と大いに賞賛」(41p)していました。

 また、スマッツ第一次世界大戦終結にあたって、ウィルソン大統領にはたらきかけていましたが、本書では「二人ともモラリストで、国家や地域の利己的な利益追求を超えた公共倫理なるものを理想化していたし、何よりも、高邁な判断を下せる人間たちが事態全般に取り組めば衝突の源は消え去るという確信を抱いて」(49p)いました。

 

 ただし、ここ最近のBLM運動で批判されたようにウィルソンも実は人種差別的な考えを持っていた人物になります。

 スマッツは「二つの肌の色を混ぜ合わせないこと」(53p)を自明のことと考えていましたし、「白人国家が鎖状につながった」「大南アフリカ」を構想していました(56p)。

 スマッツ国連憲章の前文に基本的人権や人間の尊厳といった概念を盛り込ませましたが、スマッツの中では、文明化の度合いなどによって、集団の扱いが異なるのは当然であり、これらの理想と人種隔離政策が両立していました。

 

 こうした「文明」による教化を重視したのはイギリスで国際連盟の青写真を描き、国際連合創設に関してアメリカにはたらきかけ、ユネスコの創設にも重要な役割を果たしたジマーンにも共通しています。

 古代ギリシャ学について学んだジマーンは、国際政治を古代ギリシャの関係に当てはめ、国際社会における道義性を訴えていきますが、その道義性が拡大していくための裏付けとなる力が、イギリス帝国、あるいはアメリカ合衆国でした。

 

 第3章では亡命ユダヤ人であり、ラファエル・レムキンとヨゼフ・シェクトマンがとりあげられています。

 ここではレムキンが制定に関わったジェノサイド条約がとり上げられていますが、ジェノサイド条約は可決されたものの、「文化的ジェノサイド」の項目は否決され、また冷戦下でこの条約は機能しませんでした。

 国際法と国際的な裁判所によってマイノリティの権利を守ろうというレムキンの考えは骨抜きにされており、「国際連合は全面的に、国際連盟に特徴的であった介入主義から撤退してしまう」(154p)のです。

 

 第4章ではスマッツがインドのジャワハルラール・ネルーの前に敗れ去り、国連が新たな組織として動き出す様子を描き出します。

 1946年、いまだに独立を成し遂げていないなるーのインドは南アフリカにおけるインド人差別の問題を国連総会に持ち込み、「ヨーロッパこそが支配する権利を持っているのだという原理に挑戦して成功した初めての国」(166p)となるのです。

 スマッツイギリス連邦を重視していましたが、母国でのインド人への差別的な政策は、この連邦を引き裂くことになりました。それはスマッツの考えるイギリス帝国の延長系としての国連にも影響を及ぼすものだったのです。

 

 1946年、インドはネルーの妹であるビジャエラクシュミー・パンディットを代表とする代表団を派遣し、国連にこの問題を訴えました。アメリカやイギリス、そして南アフリカなどは、この問題を国際司法裁判所国際法の問題として取り扱うことを望みましたが、インドはこの問題を法曹家に任せることを拒否して総会に持ち込みます。そして、インドは総会で勝利を収め、脱植民地化の動きを確かなものとしたのです。

 スマッツらが掲げた「道義性」はすっかり古いものとなり、別の「道義性」にその座を譲ったのです。

 

 ただし、スマッツの考えが完全に死んだわけではありません。著者は「現在の世代の心地よい人道主義的な言い回しで表されている「失敗国家」という批評は、ヤン・スマッツの世代の文明を盾に取った傲慢さと同じく耳障りに聞こえる」(216p)と書いていますが、この国際政治における「道義性」の問題はいまだに残っているものだと言えるでしょう。

 

 

Polly Scattergood / In This Moment

 イギリスの女性シンガーPolly Scattergoodの3rdアルバム。日本だとそんなに知名度はないと思いますが、儚さと力強さが入り交じるような声は非常に好きで、デビューアルバムから全部聴いています。

 デビューアルバムを紹介したときに「Emmy The GreatよりもシリアスでFlorence & The Machineよりもポップ」と書きましたが、キャリアを重ねたせいか、あるいはこのアルバムの特徴なのか、今までよりはシリアスでヘヴィーです。

 特に1曲目と2曲目はそういった感じで、聴いたとき「これは軽やかさが失われてしまったか?」と思ったのですが、3曲目の"After You"は少しポッポさもあり、なおかつPolly Scattergoodの声のゆらぎのようなものが生きています。そういった声のゆらぎを味わえる曲としては7曲目の"Silk Roses"も悪くないです。

 そして、Polly Scattergoodの声の儚さが一番良く出ているのが9曲目の"Fires"。これはいいですね。曲的には10曲目の"The End Was Glorious"も面白いと思います。

 アルバムとしてはもう1曲くらい"Fires"のような曲があると、個人的には良かったかなという感じです。

 

 


Polly Scattergood "After You" Video

 

 

劉慈欣『三体Ⅱ 黒暗森林』

 『三体』の続編が上下巻で登場。今回は宇宙艦隊も登場し、話はますますスケールアップしていきます。

 前作では3つの太陽のある惑星系に住む三体人の存在が明かされ、その三体人が地球を狙って大艦隊を送り込むという展開になっていました。しかも三体人は智子という智恵のある粒子を地球に送り込み、地球のすべての情報を監視し、人類の科学技術の発展を阻害しています。

 智子の監視を逃れることができるのは人間の頭の中だけということで、人類は「これぞ」と思う4人の人類を面壁者に任命に、彼らに大きな権限を与えて三体人打倒の戦略を考えさせます。

 選ばれた面壁者は、元米国国防長官フレデリック・タイラー、前ベネズエラの大統領でアメリカの介入を跳ね返したこともあるマニュエル・レイ・ディアス、科学者のビル・ハインズ、そして前作の主人公とも言える葉文潔(イエ・ウェンジエ)から“宇宙社会学の公理”を託された羅輯(ルオ・ジー)。

 

 前作はVRゲームの「三体」で思う存分に荒唐無稽な世界を展開してくれましたが、今作の魅力の1つがこの面壁者の考える面壁計画。彼らは誰もが考えつかないような計画を期待されており、実際、かなりぶっ飛んだ計画です。

 そんな中で当然、今作の主人公の羅輯の計画が肝なわけですが、その羅輯の護衛につくのが前作で大活躍した史強(シー・チアン)です。やはりこのシリーズのスピード感を作り上げている要因の1つはこの史強ですね。

 

 また、本作の上手い点はコールドスリープを使って一気に未来に話を進めていく点です。三体人に対抗するには宇宙艦隊が必要なわけですが、それを一歩一歩つくり上げていったら、何巻あっても終わりません。ところが、この小説はそこをコールドスリープで一気に実現してみせ、主人公たちにハイテクを使わせることを可能にするのです。

 そしてコールドスリープをした冬眠者が未来世界でそれなりに尊重されるしくみというのもうまく考えてあります。

 

 個人的には、前作のシリアスな文革パートと、わけのわからないVRゲームと、漫画のようなナノテクの話のごった煮のほうがより面白く感じましたが、今回もとにかく読ませるし、ストレートにスケール感のあるSFになっている。完成度ではこちらのほうが上でしょう。

 とにかく、読み終えると「じゃあ第3部はどうなるの?」となる本で、第3部も本当に楽しみです。

 

 

 

 

アビジット・V・バナジー& エステル・デュフロ『絶望を希望に変える経済学』

 2019年にノーベル経済学賞を受賞した2人(マイケル・クレーマーも同時受賞)による経済学の啓蒙書。2人の専門である開発分野だけでなく、移民、自由貿易、経済成長、地球温暖化、格差問題と非常に幅広い問題を扱っています。

 著者らが得意とするのはRCT(ランダム化比較試験)を使った途上国での研究で、本書もマクロ経済学の理論に対して、ミクロ的な視点から「本当にそうなのか?」と問い直すものが多いです。

 経済成長に関する部分など、意見が分かれる部分もあるかとは思いますが、全体を通じて非常に面白く、刺激的な内容になっていると思います。

 

 目次は以下の通り。

1 経済学が信頼を取り戻すために
2 鮫の口から逃げて
3 自由貿易はいいことか?
4 好きなもの・欲しいもの・必要なもの
5 成長の終焉?
6 気温が二度上がったら…
7 不平等はなぜ拡大したか
8 政府には何ができるか
9 救済と尊厳のはざまで
結論 よい経済学と悪い経済学

 

 前半の中心となっているのは移民と貿易の問題です。トランプ大統領誕生以降、クローズアップされているトピックですが、基本的に経済学者の中では、移民も自由貿易も良いことであると考える人が多いです。

 本書でも、特にそれらが批判されているわけではないのですが(移民に関しては移民の弊害を指摘するボージャスの研究を批判している)、著者らがこの2つの問題に関して重要だと考えるポイントは「人は意外と移動したがらない」ということです。

 

 まず、著者らは移民のもたらす影響はそれほど大きくないと見ています(36pではボージャスの研究(『移民の政治経済学』参照)に批判的に言及している)。 

 そして、それ以上に本書が強調するのは、移民が大挙して押し寄せるわけではないということです。Aという国の賃金が高く、Bという国の賃金が安ければ、Bの国の労働者はA国に移動するチャンスが有ればそれを利用するだろうと考えがちです。アメリカとメキシコの賃金格差がなくならない限り、メキシコ人はアメリカを目指し続けるだろうというわけです。

 

 しかし、まず移民がまもとな仕事につくのは簡単ではありません。企業はいかに賃金の安いといっても、まったく知らない者を雇いたがらないからです。そのため、移民は同じ地域の出身者が多い街などを頼って移動します。

 途上国の、特に地方に住む人々にとって移民先の情報は非常に乏しいものです。そのため、ネパールで行われた調査では、ネパールの移民希望者は予想収入を楽観的に見積もるとともに、外国で死ぬ可能性を大幅に高く見込んでいました。そして、正しい情報を教えると出国する割合が高まったといいます(60−61p)。移民先というのは不確実性のかたまりであり、多くの人はリスク回避的に動くのです。

 

 もちろん国境を超えた人の移動はありますが、それは経済的なインセンティブに反応したからというよりも、紛争や経済の崩壊や治安の悪化などで母国に住めなくなったからというものが多いのです(近年の中米からアメリカの人の流れも中米の各国で治安が悪化しているからとも考えられる)。

 

 この人の「移動しない」という特性は貿易をめぐる問題にも関わってきます。

 経済学者の大多数は自由貿易を基本的には支持しており、貿易が人々の生活を改善すると考えています。その基礎となるのがリガードが提唱した比較優位の考えです。ただし、この考えはサミュエルソンが水爆の発明者であるスタニスワフ・ウラムに「あらゆる社会科学の分野の中で、真理であり、かつ自明でない命題は何か、教えてほしい」(81p)と言われたときに、まっさきにあげた考えでもあります。

 

 確かに、自由貿易は富をもたらしてきました。輸入許可制度と関税で輸入を厳しく制限していたインドは、91年に湾岸戦争による石油価格の上昇や中東に行っていたインド人労働者が引き揚げたことで経済危機に襲われ、IMFの支援と引き換えに輸入許可制度の撤廃、関税の引き下げ(平均90%→35%)が行われました。

 この政策の結果、91年こそインドのGNPは落ち込みましたが、それ以降、インド経済は高い成長率を維持するようになりました。自由貿易の正しさは証明されたようにも思えます。

 

 ただし、インドの経済成長が主因が貿易の自由化にあると結論付けられるわけではありませんし、ストルパー=サミュエルソン定理では、労働力が豊富な国では貿易により労働集約的な産業が発展し、労働者の賃金が上がって格差が小さくなると予想されていましたが、インド、あるいはその他の貿易の自由化に踏み切ったメキシコや中国といった低〜中所得国では、いずれも格差が拡大しています(91p)。

 また、ペティア・パトロヴァの研究によると、インドでは貿易の自由化によって国全体の貧困率が大きく下がったものの、貿易自由化の影響を強く受けた地域ほど貧困の低下にブレーキがかかっていたことがわかっています(94−95p)。

 

 一般的に経済学者は、一国の中での格差は人の移動によって解消されると考えます。A地域の産業が廃れてB地域の産業が伸びたら、人々はA地域からB地域に移動すると考えられています(リカードの比較生産費説においても人々は職業を移動すると考えられている)。

 ところが、実際には人はなかなか移動しません。途上国においては土地の所有権の移転が難しかったり、労働者の解雇が難しかったりする問題がありますし、銀行は既存の融資にこだわって新規の融資に及び腰だったりします。人々の移動や産業の新陳代謝はなかなか進まないのです。 

 一方、アメリカのような先進国でも人の移動はなかなか進みません。90年代以降、アメリカの製造業は中国からの輸入、いわゆるチャイナ・ショックに襲われました。オーター、ドーン、ハンソンはこの影響を見るために「チャイナ・ショック指数」を開発し、通勤圏ごとにそれにさらされた度合いを調べました。

 この影響にさらされた地域では製造業の雇用が大幅に減っていることがわかりましたが、同時に労働者の移動がまったく見られないこともわかりました。「影響を受けた通勤圏の生産年齢人口は減っておらず、雇用だけが失われた」(122p)のです。

 

 製造業はクラスターを形成します。このクラスターは産業の発展には有用ですが、貿易ショックに襲われると地域全体が没落します。製造業への打撃は周囲のレストランの売上を減らし、地価を低下させるからです。

 それにもかかわらず人は移動しません。アメリカでは貿易調整支援制度(TAA)があるものの支援は貧弱で、貿易で職を失った人の10人に1人が障害年金の受給申請をしているといいます(126p)。こうなるとその人は永久に雇用機会を失う可能性が高いです。アメリカの社会保障の貧弱さが、こうした状況をもたらしており、いわゆる薬物やアルコール依存を通じての「絶望死」をもたらしています。

 

 また、実は貿易の利益は確かにあるのだけど、そのがくは大した額ではないという研究もあります。アメリカ人の支出1ドルにつき輸入品に使われるのは8セントに過ぎないといいますし(129p)、コスティノとロドリゲス=クレアによる研究ではGDP比2.5%ほどが輸入をシャットアウトするコストだと推計されています(132p)。

 

 さらにこの第3章では、「評判」という高いハードルによって途上国の輸出がなかなか進まいということも紹介されています。

 買い手は一定のクオリティと納期の厳守を求めますが、途上国の聞いたこともない零細企業がこれをクリアーできるのかは疑問です。そのために価格が安くても買い手は躊躇してしまうのです。

 ただし、この「評判」が一度確立されれば輸出が伸びていく可能性は高くなります。そして、クラスターが形成され、名の通った生産地として認知されていくようになるのです。

 

 第4章では人々の好みから始まって、差別の問題などがとり上げられています

 アメリカでは、教育を受けたアフリカ系アメリカ人が1965年に比べてはるかに増えたにもかかわらず、教育水準が同程度の白人と黒人の間の賃金格差は拡大を続けており、現在では30%近くに達しています(159p)。これはインドの指定カーストとそれ以外の格差を上回るものです(本書ではアセモグル&ロビンソン『自由の命運』とは違い、インドのカースト差別の解消に一定の評価を与えている)。

 

 しかし、本書は2019年に出版された本なので、「とはいえ2016年の大統領選挙以来、アメリカでしきりに口にされるようになったのは、アフリカ系アメリカ人に対する憎悪よりも、移民に対する憎悪である」(160p)とつづきます。

 実はアメリカの中では、移民が少ない州ほど移民を憎む傾向があり、移民への憎悪の背景には経済的な問題よりも、もっと本質的な不安があることがうかがえます。しかも、トランプ大統領当選以来、この移民憎悪をおおっぴらに口にしていい雰囲気が生まれつつあります。

 

 この問題を説明する1つの方法が統計的差別です。フランスのアフリカ系のウーバーの運転手はウーバーの素晴らしさとして、立派な車を運転していても納得してくれる点だと話したといいます。今までアフリカ系の人が立派な車に乗っていると、麻薬の密売人か盗難車だと思われていたのです(164p)。アフリカ系の人が貧しいのは事実なので、そこから「新車など買えないだろう」と推測することは合理的ですが、この判断が差別をつくっていきます。アメリカで黒人がよく職務質問を受けるのも同じ原理になります。 

 

 この統計的差別を解消させようとするのはなかなか厄介です。アメリカでは23州が求職者に犯罪履歴を訊ねることを禁止するバン・ザ・ボックス法を施行しています。これは犯罪歴を持つ若い黒人男性の雇用を増やす狙いもあります。

 しかし、研究者が架空の応募書類を法律の施行前と施行後に明らかに白人的なファーストネームと明らかに黒人的なファーストネームを織り交ぜて雇用主に送ったところ、意外な結果が明らかになりました。

 バン・ザ・ボックス法施行前は、やはり犯罪歴にチェックを入れると面接に呼ばれる機会は大きく減りました。では、施行後はどうなったかというと明らかに白人と黒人の面接に呼ばれる差が拡大したのです。これは、犯罪歴の項目がなくなったことで、雇用主は黒人であることから犯罪歴を想定したからだと考えられます。犯罪歴という手がかりがなくなったことで、雇用主は「黒人のほうが犯罪歴を持つものが多い」という統計的な事実に頼ったのです。

 

 こうした統計的な差別は「ステレオタイプの脅威」と名付けられている問題を生み出します。黒人と白人が一緒にテストを受けると黒人の成績が下る、あるいはテスト前に「アジア人は数学の能力が優れている」といったアナウンスがあるとSATで高得点をとったアメリカ人学生の成績がひどいものになってしまうなどの例が紹介されていますが、ステレオタイプに導かれるように自己実現的な差別が出来上がってしまうケースもあります。

 また、アメリカのヒスパニックの若者に無料でSATの予備校に通わせてあげると持ちかけられたところ、その事実を公表すると言ったときよりも、公表しないと言ったときのほうが予備校に通う確率が高まります。これは周囲からガリ勉野郎だと見られたくない、仲間の規範から外れたくないからだと思われます。

 

 ここから著者らは、人々の意見や信念といったものを額面通りに受け取るべきではないと主張します。その人の信念は周囲の規範から強く影響を受けています。ただし、だからといって誤りを指摘すれば信念が変わるというわけでもありません。人間は自分の価値観に深く根ざす考えに関しては、その誤りを指摘する証拠を目に入れようとはしないからです。

 そして人々は同じような意見を持つ人とのみ付き合うようになり、分極化が生じます。1960年に自分の子が異なる政党を支持する相手と結婚することを「不快に思う」人は共和党支持者、民主党支持者で両方とも5%程度でしたが、2010年には共和党支持者の50%近く、民主党支持者の30%以上が「非常に不幸だと感じる」と答えています(189p)。

 

 こうした分極化を押し止める効果を持つのが実際に違う人種や民族の人、あるいは違う価値観との接触を持つことです。著者らはここからアファーマティブ・アクションを支持しますが、現在のように人種だけにフォーカスしたようなものにも問題があると考えています。

 本書が提唱するのは、直接的に差別の撤廃に取り組むと言うよりは、さまざまな多様性をつくりだし、社会問題を人種などに還元せずに、ミクロ的な解決を積み上げていくようなやり方です。

 「差別や偏見と闘う最も効果的な方法は、おそらく差別そのものに直接取り組むことではない。ほかの政策課題に目を向けるほうが有意義だと市民に考えさせることだ」(212p)と著者らは述べています。

 

 第5章でとり上げられるのは「経済成長は終わったのか?」ということです。

 1970年代のどこかで経済成長は止まってしまったというロバード・ゴードンなどの議論があります。経済成長は続くかもしれませんが、それは非常につつましいもので、電気や内燃機関などの大イノベーションはもうやってこないというものです。

 「コンピュータとネットがあるじゃないか」との反論が聞こえてきそうですが、コンピュータとネットが全要素生産性TFP)を大きく引き上げたのは90年代後半から00年代前半の一時期で、04年以降のTFPの伸びは停滞しています(219p)。

 ただし、これはGDPで計算しようとするからで、GDPに換算されない進歩があるのかもしれません。例えばFacebookの利用は特にGDPを押し上げませんが、Facebookは利用者一人あたり年間2000ドルの価値を生むとの研究もありますし、Facebookを遮断したほうが幸福度や生活満足度が上がったという研究もあります(227p)。

 

 成長の鈍化についてはロバート・ソローも予測していました。ソローによればTFPの成長はただ起きるものであって、どう起こせるかはよくわかりません。

 これに対してポール・ローマーはアイデアという概念に注目し、そのアイデアの交換によって成長が起こると考えました。シリコンバレーで起きているスピルオーバーはローマーの考えを裏付けるものと言えるかもしれません。

 ただ、シリコンバレーのような都市が、イノベーティブな人が集まることによって栄えるのは事実かもしれませんが、それが一国全体に行き渡るとなると、そう簡単なものではありません。

 

 また、ローマーは経済成長をもたらす政策については多くを語ってくれません。

 ローマー・モデルでは政府による減税は経済成長をもたらす効果があるはずなのですが、レーガン減税もブッシュ減税も経済成長をもたらしたという証拠はありません。とりあえず高所得者に対する減税は、それだけでは経済成長につながらないという点で多くの経済学者は一致しています(257p)。

 一方、世界に目を転じると貧困は減少しています。絶対的貧困率は1990年から現在にいたるまでで半減しました(262p))。これとともに乳児死亡率の低下、識字率の上昇など生活も改善されています。

 

 著者らは、ハイパーインフレ、自国通貨の過大評価、ソビエト型、毛沢東型、北朝鮮型の共産主義など、明らかに避けるべき政策はあるものの、経済成長をもたらす政策というのは存在しないのではないかという立場です。例えば、日本や韓国やシンガポールは政府の産業政策によって発展したとされていますが、産業政策によって発展したのか、それがなくても発展したのかは確かめようがありません。

 

 ただし、リソースの配分に関しては改善できる面があり、それは経済成長をもたらすかもしれません。例えば、インドでは土地の所有権がきちんと管理されていない、売買がうまくいかない、といったことがあり土地が有効に活用されているとは言い難い状況です。

 また、20〜30歳で10年以上教育を受けたインド人男性の26%は働いていないといいます。教育を8年未満しか受けていないインド人男性の無職率は1.3%に過ぎないにもかかわらずです。これは仕事を選り好みしている、特に公務員という職にこだわっているからだと考えられます(公務員試験の応募資格が30歳でなくなるのでそれ以降は無職率が減ってくる)。

 これはガーナでも見られる現象で、ガーナの学資不足に陥っている若者に高校進学のための奨学金を提供する実験を行ったところ、確かに奨学金を受ければ進学率は高まるのですが、首尾よく公務員になった一部を除いて、平均所得はさほど増えませんでした。追跡調査の結果、奨学金をもらった若者は25,6歳になっても、もっといい仕事があるはずだと夢見ていることが多く、かなりの割合が無職でした(285p)。

 

 こうしたことがアフリカやインドなどにおける「採用難」を生んでいます。失業率が高い国でもなかなか人材が集まらないのです。

 原因は期待のミスマッチで、彼らには「大学を出たからにはふさわしい仕事(代表は公務員)」につきたいという思いがあります。周囲の学歴も低いですし、大学さえ出れば公務員になれた時期もあったのですが、現在はそうではありません。それにもかかわらず、膨らませた期待をしぼませることができず、公務員試験などのチャレンジし続けるわけです。インドでは国有鉄道が下級職員9万人を募集したところ2800万人が応募したそうです(288p)。

 本章では、最後に著者らがGDPの増加よりも、ワクチン接種やマラリア予防など、明確な目標が定まっている政策に重点を置くべきだと述べていますが、ここは少し意見が分かれるところかもしれません。

 

 第6章では地球温暖化についてとり上げています。主に途上国への影響、途上国におけるその他の大気汚染などの問題が分析されていて興味深い部分もありますが、ここでは割愛します。

 

 第7章は「不平等はなぜ拡大したか」というタイトルで、近年の格差の拡大の要因を探っています。

 AIやロボットによる自動化は時代の趨勢ですが、著者らは人間よりもロボットのほうが生産性が低い場面でも自動化が進められているケースがあるといいます。これは現在のアメリカの税制が資本よりも労働に高い税金をかけているからです。人間を雇えば給与税を払わなければなりませんが、ロボットへの投資は資本支出に対する加速償却を適用して節税できますし、それが借入金でなされるならば利払い分を利益から差し引くことも可能です。しかも、労使関係の軋轢もなくなります。

 

 格差拡大のもう1つの大きな原因はサッチャーレーガンらによって所得税最高税率が引き下げられたことです。

 ただし、80年代以降、格差は税引前の段階ですでに開いており、税だけが原因ではありません。1980年頃から教育水準の低い労働者の賃金上昇が止まり、1979年から今日まで実質賃金はむしろ下がっている有様なのです。労働分配率も下がり続け、1982年の時点では製造業の売上高の約50%が賃金として払い戻されていましたが、2012年にには10%になっています(346p)。

 

 考えられる要因はIT業界に見られる勝者総取りのあり方ですが、それ以外にも著者らは金融業という仕事自体にも注目しています。例えば、アメリカやイギリスでは格差が拡大する一方でデンマークでは最上位層の所得は伸びていません。西ヨーロッパの多くの国、そして日本もそうです。

 アメリカやイギリスで所得を伸ばしているのは金融業の従事者です。金融部門で働く人は同等の専門的スキルを持つ他部門の労働者と比べ5〜6割増しの報酬をもらっています(352p)。アメリカの平均的な投資信託アメリカの株式市場よりも成績が悪いにもかかわらずです。

 インドやアフリカでは公務員がやたらに高給で労働市場を歪めていますが、アメリカやイギリスでは金融業の高すぎる報酬が労働市場を歪めていると言えるかもしれません。

 

 格差が拡大していく中で、アメリカでは「絶望死」と呼ばれる中年白人男女のアルコールや薬物、それに伴う病気、あるいは自殺などによる死が増えています。そして、彼らはその怒りを「移民」や「中国との貿易」などにぶつけるようになるのです。

 

 こうした状況の中で、政府には何ができるのかを検討したのが第8章です。

 政府が格差解消に取り組むためには財源が必要です。ただ、一般的に増税は嫌われます。また、増税は勤労意欲を削ぐとも考えられています。

 しかし、スイスでの税制改正の結果を見ると増税が勤労意欲を削ぐとは言えません。スイスでは1990年代後半から00年代前半にかけて、従来の過去2年分の所得に対して納税するしくみからその年度の所得に基づいて納税するしくみに移行しました。その移行措置として例えば98年は95年と96年の所得に対する税金を収め、99年にはその年度の所得に対する税金を収めるといったことがなされました。この措置は早くから告知されていたために、住民はこの免税になる年度(このケースでは97年と98年)により多く稼ぐことも可能でした。ところが、労働供給はこの期間、ほとんど変わらなかったといいます。免税期間にガツガツ働いて、納税期間は労働時間を短くするような人は人ンド存在しなかったのです(381−382p)。

 

 もっとも、人々が税を嫌う要因としては政府に対する不信もあります。2015年の調査で、政府を「つねに」または「だいたい」信用できると考えているアメリカ人は23%で、59%は政府を信用していません(383p)。

 では、民営化を進めればいいかというとそうでもありません。多くの人は公的機関よりも民間のほうが効率的だと思っていますが、インドでは公立の学校の生徒もNGOの運営する学校の生徒も試験の成績は同じようなものですし、フランスの民間が運営する職業斡旋所は公的機関のものよりも成績が低いです(386p)。

 さらにアメリカでは政府に対する不信が優秀な人材を政府から遠ざけています。著者らは近年中南米で再分配プログラムの成功に期待をかけていますが、多くの国にとって政府への信頼を取り戻し再分配を行うには多くの困難が伴います。

 

 第9章では貧しい人を救う方法についてですが、著者らが重視するのは「助けてもらう人の尊厳を踏みにじってはならない」(399p)ということです。

 いくら給付プログラムをつくっても手続きが煩雑であれば必要ない人に届きませんし、何かを提示しなければならないしくみだとそもそも嫌がる可能性があります。また、最初から福祉の利用を諦めてしまうケースもあります。

 そこで注目されるのがユニバーサル・ベーシックインカム(UBI)です。食糧などの現物給付はコストが掛かりますし、UBIならば先ほどあげた支援が必要な人に届かないということを防げます。また、UBIは人を怠けさせるとの声もありますが、今までの研究では、その傾向はそれほど大きくないというものが多いです。

 

 ただし、やはり問題となるのは財源です。また、UBIの長期的な影響というものはわかっていません。

 また、UBIですべて解決といかないのは、多くの場合、仕事が生きがいといったものと結びついている点です。ボランティアなども考えられますが、定年や失業で自由な時間が増えた人とフルタイムで働いている人を比べると、ボランティアをしている時間が長いのは後者です。ボランティアは仕事の代わりにはならないのです(432p)。

 UBI以外だとデンマークの「フレキシキュリティ」があげられます。これは手厚い失業保障と職業訓練で再就労を後押しする政策で、経済学者の間でも支持が多いです。ただし、本書の前半で指摘されていたように人は移動を嫌がります。長いこと同じ職で働いて生きた中高年には別の方法が必要だというのが著者らの見方です。

 

 このように本書は盛りだくさんの内容です。ここに書いたこと以外にもまだまだ興味深い部分はあります。

 マクロ的なものよりもミクロ的な政策を重視する著者らの姿勢には賛否両論がありそうですけど、今の社会の問題を考える上でヒントが詰まっている本であることは間違いないですし、社会の複雑さに向き合った本であると言えます。

 

 そして、500ページを超える本でありながら、定価が2400円+税。さらに薄めの紙を使っていて500ページ超えながら厚さが3センチ程度と、通勤カバンに入れられるボリューム。

 本に関しては人それぞれこだわりがあるでしょうし、ジャンルによっても違うのでしょうけど、経済学の啓蒙書としてはこれ以上ないほど素晴らしいパッケージだと思います。訳も村井章子氏で読みやすいですし、広くおすすめできる本です。

   

 

 この2人の本としてが『貧乏人の経済学』も面白いです。

 

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ジョナサン・フランゼン『コレクションズ』

 『フリーダム』がとても面白かったアメリカの作家ジョナサン・フランゼンの長編小説になります。『フリーダム』が2009年発表の第4長編、この『コレクションズ』は2001年発表の第3長編です。

 まずタイトルの「コレクションズ」ですが「Collections」ではなく、「Corrections」です。「修正」とか「訂正」といった意味を持つ言葉ですね。

 内容としては家族小説で、アメリカ中西部に住むアルフレッドとイーニッドの夫婦、そしてその3人の子ども、ゲイリー、チップ、デニースの人生とそれぞれが抱える問題を描いています。

 

 こうした家族小説はアメリカの小説でよくあるものですが、本作はちょっと違っているのは、まず家族の年齢が比較的高いことです。アルフレッドはもう退職していて70歳代でパーキンソン病を患っています。長男のゲイリーは40代で3人の男の子がいます。次男のチップも39歳、デニースも30代半ばであり、3人ともこれから大きなドラマを引き起こすには少々年を取りすぎている感があります。

 

 そして、実際この小説にはたいしたドラマはありません。上下巻で合計1000ページ弱あるというのに、それほどたいしたドラマが起こらないのがこの小説の特徴です。例外的に、次男のチップはセクハラで大学をクビになり、リトアニアに行って詐欺の片棒をかつぐという大きな展開が待っているのですが、長男のゲイリーのパートなどはクリスマスに規制するかどうかで延々と奥さんと揉め続ける描写が続きます。

 

 このように書くとなんだかつまらない小説のようですが、これが面白い。

 『フリーダム』もそうでしたが、とにかくフランゼンはキャラクターの造形がうまく、いかにも現代にいそうな人物を次々と登場させ、現実よりもほんの少しだけ戯画的に描き出します。「ライフスタイル」という言葉が定着し、その人の職業や持ち物がその人の性格を規定してしまう現代という時代を本当に巧みに書いていきます。

 チップの大学教員時代の教え子や、シェフとなったデニースのパトロンとなる夫婦など、「これぞ現代のアメリカ」といった形の人物を登場させていくわけです。

 

 ただ、小説の舞台となっているのは90年代後半であって、今から見ると少し変わってきた部分もあります。

 それが中西部の鉄道技師だったアルフレッドです。この小説でも子どもたちが住む東海岸に対して中西部は取り残されつつある地域として描かれているのですが、アルフレッドは夫婦でクルーズ船の旅にでるなど、経済的にはぎりぎり「逃げ切った」世代になります。

 中産階級の暮らしを維持できたアルフレッドに対して、この後(おそらくリーマンショック後あたりから)それができなくなって、それがトランプ支持へとつながっていくのでしょう。

 

 『フリーダム』と合わせて、現代のアメリカ社会を理解するのにぴったりな作品だと思います。

 

 

 

 

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