西川賢『分極化するアメリカとその起源』

 現在行われている大統領選挙やその他の政治的な風景を見ても、アメリカの政治が「分極化」していることは容易に見て取れます。共和党民主党では、その世界観や生活スタイルまですべてが違ってしまっている感じです。

 しかし、以前のアメリカでは政党の規律は弱く、議会などでも党派を超えて活動する議員はたくさんいました。ですから、以前はこんなにも分極化はしていなかったのです。

 

 では、一体いつからアメリカ政治の分極化は進んでいるのでしょうか?

 本書の問はこのようなものです。アメリカ政治をさかのぼっていくと、2009年から始まったティーパーティー運動、さらにさかのぼって、1994年の中間選挙でギングリッチが掲げた「アメリカとの契約」、さらには1980年のレーガンの大統領選挙での勝利ときて、さらにニクソンの南部戦略あたりまで分極化の起源は思い浮かびます。必ずしも「保守」政党というわけではなかった共和党が「保守」のイメージを確立していくのが、レーガン、見方によってはニクソンあたりからだと考えられるからです。

 

 ところが、本書は分極化の起源をアイゼンハワーの時代にまでさかのぼります。

 アイゼンハワーといえば「中道」の立場の人なので、「???」となりますが、この謎を解き明かすのが本書の内容です。アイゼンハワー共和党を変えようとしたことが、1964年の予備選でのゴールドウォーターの勝利につながり、以降の共和党の「保守化」を決定づけたというのです。

 

 目次は以下の通り。

序 章 共和党保守化の原因とその起源
第1章 中道主義の確立
第2章 中道主義の試行と挫折
第3章 中道主義の終焉
第4章 二重の敗戦
終 章 共和党保守化の帰結とアメリカ政治への展望

 

 本書のキーとなる概念に「与党の大統領化」というものがあります。

  まず、大統領は与党の組織や行動にさまざまな影響を与えます。特に長年政権から離れていた野党が「選挙の勝てそうな人物」を担いで大統領候補にしようとすると、政党は大統領候補に多くの権限を白紙委任せざるを得なくなります。そこで、候補者は自らの影響力を使って、与党の戦略や組織を自らの望む方向に変革しようとします。これが「与党の大統領化」です。

 1952年の共和党から立候補して勝利したアイゼンハワーはまさにそのような候補でした。20年以上大統領の座から遠ざかっていた共和党は、「勝てる人物」としてアイゼンハワーを担ぎ出し、勝利します。中道主義だったアイゼンハワーは、その影響力を使って共和党を中道に引っ張ろうとしますが、それに失敗してかえって保守化が進んだというのが本書の見立てです。

 

 中道主義アイゼンハワー共和党の保守化をもたらしたというのは一見するとわかりにくい話ですが、例えば、自社さ政権で自民が政権に復帰するために歴史問題などで「左」に寄ったことが、かえって「右派的」な議員の動きを活発化させたことなどを思い起こすと、理解しやすいかもしれません。

 

 1930年代半ばまで、共和党の支持の中心は中西部を拠点とする保守派と西部を拠点とする革新派でした。前者は自由放任を重視しニューディールを否定したのに対して、後者はニューディールを受け入れつつ外交的には孤立政策を支持してF・ローズヴェルトを批判しました。

 しかし、1936年の大統領選でアルフ・ランドンが大敗すると、西部の革新派も中西部の保守派も影響力を低下させ、代わって東部を基盤とする穏健派が台頭します。穏健派はニューディールを受け入れ、国際協調にも前向きでしたが、ローズヴェルトトルーマンの前に大統領選に勝つことはできませんでした。

 ここで共和党としては、(1)より保守化して民主党との差異を際立たせる、(2)より穏健で中道的な方向に進み民主党の支持層を切り崩す、という2つの路線が生まれることになります。

 

 1952年の大統領選挙において、(1)の路線を代表するのがロバート・タフトであり、(2)の人々に担がれたのがアイゼンハワーでした。

 アイゼンハワーは第2次世界対戦におけるヨーロッパ戦線の連合国軍最高司令官を務めた人物であり、その知名度は抜群でした。ただし、アイゼンハワー無党派であり、それまで特に共和党の支持者であったことはありません。ニューディールも支持していました。

 このアイゼンハワーを穏健派は「タフトはミスター・リパブリカンと呼ばれているが、アイゼンハワーはミスター・アメリカンである」(42p)として大統領選への擁立を画策します。

 本人不在のまま、穏健派はアイゼンハワーニューハンプシャー州予備選への出馬を宣言し、そこで勝利を収めます。アイゼンハワーはついに出馬の決意を固め52年の6月1日にNAT軍最高司令官の職を辞し、アメリカに帰国します。

 アイゼンハワーは中道的でありながら、ニューディーラーとは一線を画す政策を掲げて党内をまとめ上げ、52年の大統領選挙に勝利しました。

 

 大統領となったアイゼンハワー共和党の再構築に取り組みます。「与党の大統領化」を目指すわけです。民主党ニューディール期に大統領のもとでの一元的な政策決定を目指しましたが(実際には南部の保守派が抵抗勢力として存在し続けたものの)、アイゼンハワー共和党をより一枚岩の集団にしようとしたのです。

 共和党保守派は減税と財政均衡を主張しましたが、アイゼンハワー財政均衡を目指しつつ減税を後回しにし、住宅政策や社会保障政策を推進しました。社会福祉支出の増加率はアイゼンハワー期はケネディ=ジョンソン政権期の伸びを上回っています(75p)。

 公民権の問題に関しては、人種差別に反対しつつ、その解決策は教育しかないという漸進的な考えで望みましたが、「ブラウン対教育委員会事件」において最高裁が司法長官の見解を求めたことから政権は態度をはっきりさせることを迫られます。ランキン司法次官補が最高裁憲法違反との判決を示したことで、学校における人種隔離は違憲であるという「ブラウン判決」が出ることになりますが、アイゼンハワーの態度はこの後も曖昧なままでした。

 アイゼンハワーは1957年公民権法を成立させますが、黒人の立場からするとそれは十分なものではありませんでした。

 

 1954年の中間選挙共和党が敗北すると、アイゼンハワーはアーサー・ラーソンに共和党の新しい理念の取りまとめを任せます。ラーソンはそれまでの保守的な共和党の考えとニューディール的な考えの中間に「新共和党主義」という中道路線を打ち出そうとします。また、1958年の中間選挙敗北後はパーシー委員会を立ち上げて、共和党の新たな理念の検討を行いました。

 しかし、こうした新しい考えは保守派の容れるとことではなく、ゴールドウォーターらの保守派の動きが活性化するきっかけとなります。

 また、アイゼンハワーは支持拡大のために、今まで「共和党は存在しないも同然」(117p)の南部に進出する南進戦略を立てます。この南部戦略は一定の成功を収めますが、南部に進出するためにその主張は保守的になり、公民権に対して州権を支持する形になっていきます。

 共和党内部ではアイゼンハワーの中道路線はうまくいかず、むしろ保守的な動きが強まっていくことになったのです。

 

  アイゼンハワー中道主義はうまくいきませんでしたが、1960年の大統領選挙でニクソンが勝利すれば、この路線が生き残っていく可能性はありました。ニクソンアイゼンハワーの副大統領であり、基本的にはアイゼンハワーの路線を継承すると考えられたからです。

 

 ニクソンは1968年に大統領になって以降の「法と秩序」のスローガンやその政策から公民権に冷淡だとされてきましたが、必ずしもそうだとは言い切れない部分もあります。例えば、1957年にガーナでニクソンと会って意見交換したキング牧師ニクソンの態度に好感を抱いています。

 しかし、1960年の大統領選では、ニクソン公民権に関してはできるだけ曖昧にする戦略をとっていました。積極的な姿勢を見せても消極的な姿勢を見せてもどちらも反発を受ける可能性があったからです。

 この背景には共和党内部の対立もあります。共和党から出馬してニューヨーク州知事になったネルソン・ロックフェラーは公民権に積極的な立場で、大統領選への出馬も養成されていました。一方、ゴールドウォーターらの保守派も健在で、ニクソンは両者とどのような関係を構築するのか難しい局面に立たされたのです。

 結局、ニクソンはロックフェラーらに配慮する形で公民権に積極的な党綱領の採択に同意しますが、当分裂を回避するために出馬を取りやめたゴールドウォーターの株が上がることにもなりました。

 

 しかし、副大統領候補のヘンリー・カボット・ロッジが、黒人閣僚の入閣を示唆したことから保守が反発し、共和党は混乱します。そして、ニクソンケネディの前に敗北することになるわけです。

 ニクソンは「ロッジの発言は「共和党を南部で殺してしまった」と結論づけ」(178p)ましたが、南部での得票は伸びており、アイゼンハワー政権の南部戦略が間違っていなかったことも明らかになりました。

 共和党は、ロックフェラーの共和党左派、アイゼンハワー路線の中道派、ゴールドウォーター率いる保守派に分裂したまま64年の大統領選挙に臨みます。

 

 ゴールドウォーターは連邦政府の拡大にことごとく反対してきた南部アリゾナ州上院議員で、父や叔父は民主党員ながら、ニューディールへの反発から共和党員となった人物でした。

 ゴールドウォーターは南部で人気があり、その人気はケネディも上回っていました(211p)。しかし、62年11月にケネディが暗殺され、テキサス出身のジョンソンが大統領となると、南部に強いジョンソンの対抗馬としてゴールドウォーターは向いていないんではないかという声が上がります。

 このため、一時期ゴールドウォーターは出馬を取りやめようと考えましたが、草の根保守団体のジョン・バーチ協会などの支持を受けて大統領選に臨むことになります。しかし、このジョン・バーチ協会は反共の陰謀論に凝り固まったような団体であり、共和党の穏健派は警戒感を強めます。

 

 一方、ロックフェラーは自身の離婚問題などで失速し、共和党予備選挙は混迷を深めます。予備選挙ではゴールドウォーターがリードするもののその得票率は低く、土壇場になって穏健派からウィリアム。スクラントンが出馬します。

 この背景にはゴールドウォーターが1964年公民権法に反対票を投じたことがありました。スクラントンはゴールドウォーターが党の理念を裏切っていると考え、アイゼンハワーも「共和党内部の反ゴールドウォーター勢力は彼を妨害する「大義名分」を得たと考え」(241p)ました。

 

 1964年7月の共和党全国党大会は、ゴールドウォーター支持者による黒人代議員への嫌がらせが目立つなど荒れました。アイゼンハワーはゴールドウォーターとスクラントンの間を仲介しようとしますが失敗します。

 最終日にゴールドウォーターが「自由を守るための過激主義は悪徳ではないことを忘れてはならない。正義を追求するための中道は善なるものではないこともまた忘れるべきではない」(248p)との一節を含む指名受諾演説を行って党大会は閉幕しますが、最後まで穏健派とゴールドウォーターの対立は消えませんでした。

 

 結局、1964年の大統領選挙はジョンソンの圧勝に終わります。ゴールドウォーターは深南部の五州を制しましたが、52人の選挙人しか獲得できませんでした。

 共和党内部では、選挙に協力的ではなかったとして穏健派への批判が強まり、穏健派の凋落が決定的になります。ゴールドウォーターもその人気を落とすことになりますが、ゴールドウォーターの保守的な路線の一部はニクソンに引き継がれます。1968年のニクソンの主張は明らかに右傾化しており、「アイゼンハワーの後継者・中道路線の継承者であった1960年のニクソンとは別人」(261p)でした。

 

 以上のように、本書は共和党の保守化の起源を描き出しています。分極化の起源を分極化とは程遠いアイゼンハワーに求めるという問題設定は意外なものですが、本書を読むと、アイゼンハワー路線の行き詰まりがその源流になっていることがわかると思います。

 また、アイゼンハワー政権が取り組んだ南部戦略が結果として共和党の保守化を進めたという点も皮肉なところだと思います。

 一般の読者からすると68年のニクソンについてもう少し触れてくれるとありがたいですが、その前夜の状況まではよく分かるようになっています。

 

 なんとなくトランプの敗色が濃くなってきた2020年のアメリカ大統領選挙ですが(といっても16年もトランプが負けると思い込んでましたが…)、大統領選後の共和党がどうなるのか、「トランプ化」に対する反動で中道に寄るのか、それともペンスあたりを中心に宗教保守で純化するのか、といったことは注目であり、そうしたことを考える上でも本書は興味深いものだと思います。

 

 

Sufjan Stevens / The Ascension

 Sufjan Stevens、5年ぶりのオリジナルフルアルバム。フルもフルで収録時間は1時間21分もあります。

 前作の「Carrie & Lowell」は私的で静謐な感じのするアルバムでしたが、今回は「The Age of Adz」の路線ですね。過剰なまでにさまざまな要素を盛り込んでいます。

 音としても「The Age of Adz」に近くて、エレクトロニカ的な要素を取り入れつつ、全体の色調はダークです。「Illinois」の頃にあった有機的な賑やかさは冷たい無機質さに変わっています。

 

 ただし、メロディはやはりきれいで、そのあたりは1曲目の"Make Me an Offer I Cannot Refuse"、2曲目の"Run Away With Me"あたりからもうかがえます。

 そうした中で最初の盛り上がりが5曲目の"Tell Me You Love Me"。比較的おとなしいメロディが終盤にかけて一気に盛り上がります。

 10曲目の"Gilgamesh"もノイジーな感じで盛り上がりますが、その中でもSufjanの声のきれいさが冴えてますね。12曲目の"Goodbye To All That"は本アルバムの中では珍しく明るさを垣間見せてくれる曲。

 そして、このアルバムは13曲目の"Sugar"から14曲目の"The Ascension"、そしてラストの"America"の流れが良い。静かさと緊迫感を保ちながら続いていく感じはさすがです。長いですが、最後まで聴きましょう。

 ただ、それでもやはり長いですね。通勤の行き帰りの電車の中で聴き終わらない…。

 

 


Sufjan Stevens - Sugar [Official Audio]

 

ジョゼ・エドゥアルド・アグアルーザ『忘却についての一般論』

 白水社<エクス・リブリス>シリーズの1冊で、アンゴラ生まれの作家によるアンゴラの内戦を背景にした作品。

 著者はアンゴラポルトガル・ブラジル系の両親のもとに生まれ、リスボンの大学を出て文筆業に入っています。書く言語はポルトガル語になります。

 

 本書の内容はカバー裏の紹介では以下のようになっています。

ポルトガル生まれのルドヴィカ(ルド)は空や広い場所を恐れている。両親を相次いで亡くし、唯一の家族である姉オデッテの結婚とともに、ダイヤモンド会社に勤める鉱山技師である義兄オルランドアンゴラの首都ルアンダに所有する豪奢なマンションの最上階に移り住む。長年にわたりポルトガル支配下にあったアンゴラでは、本国で起きた革命の余波を受けて解放闘争が激化し、1975年ついに独立を宣言。動乱のさなか、次々に出国する同国人の送別会のひとつに出かけた姉夫妻が消息不明となる。恐慌をきたし、外部からの襲撃を恐れたルドは、マンション内の部屋の入口をセメントで固めて、犬とともに自ら孤立し、自給自足の生活が始まる。その後、アンゴラは27年間にわたる泥沼の内戦状態に陥る。その間、屋上テラスのある最上階の部屋で、誰からも忘れられて一人で暮らすルドは、飢えと隣り合わせの日々のなか、自己と対話し、ありとあらゆる紙に、紙が尽きると今度は壁に、言葉を綴りつづける。一方、外の世界では、独立の動乱を乗り越えたさまざまな人間が、運命に手繰り寄せられるようにしてルドのもとへと引き寄せられていく。2013年度フェルナンド・ナモーラ文芸賞。2017年度国際ダブリン文学賞受賞作。

 

 これは面白い設定だと思います。アンゴラの内戦の中でマンションに立て籠もって、外界とは隔絶した暮らしを送る女性の話というのは非常に興味をそそります。

 実際、内戦の足音が近づいてきて、姉夫婦が失踪し、不安の中で立て籠もるという選択をするあたりまでは面白いです。

 ただし、その後の展開は期待ほどでもという感じです。

 

 この手の話だと、リアルにいくかファンタジーにいくかということになるのですが、本書はファンタジー路線です。主人公が飢えに襲われたりといったことはありますが、比較的都合よくサバイブできます。

 また、外の世界の話も展開していくのですが、その外の世界と主人公の立て籠もっている世界が後半ではややご都合主義的につながっていきます。設定からすると、かなり「重い」話になりそうですが、やや現実離れした個性的な人物を出すことで、そうした「重さ」を回避しています。

 ただ、個人的にはそういった「ファンタジー」の中にも何かしら「リアル」なものがほしいのですが、本書からはあまりそういったものは感じられませんでした。

 ストーリーとしては面白い部分があるんだけど、それが流れていってそんなに引っかかってこない感じでしたね。

 

 

宍戸常寿・大屋雄裕・小塚荘一郎・佐藤一郎編著『AIと社会と法』

 宍戸常寿・大屋雄裕・小塚荘一郎・佐藤一郎の4人が、有斐閣の『論究ジュリスト』誌上で行った研究会の様子をまとめた本になります。法学者の宍戸、大屋、小塚と工学者の佐藤の4人がコアメンバーとなり、1回につき2人のゲストスピーカーを迎えながら、AIがもたらすさまざまな変化と、それが法にどのような影響をもたらすのかを論じています。

 基本的に座談会の形式なのですが、内容はかなりハードで座談会だからわかりやすいというものではありません。個人的に社会科学の中でも法学の本はほとんど読んでこなかったので、咀嚼しきれなかった部分もあります。

 それでも頭のいい人たちが未知のものを検討する面白さというのはすごくあって、刺激を受ける内容です。メンバーの1人である小塚荘一郎『AIの時代の法』岩波新書)のほうが読みやすいとは思いますが、さらに一歩踏み込んだ内容になっています。

 

 本書の論点は非常に多岐にわたっており、全部をまとめることは不可能なので、以下、個人的に興味を引いた部分をいくつかとり上げてみたいと思います。

  

 目次は以下の通り。 

第1章 テクノロジーと法の対話
第2章 データの流通取引──主体と利活用(ゲスト:生貝直人・市川芳治)
第3章 契約と取引の未来──スマートコントラクトとブロックチェーン(ゲスト:岡田仁志・西内康人)
第4章 医療支援(ゲスト:江崎禎英・寺本振透)
第5章 専門家責任(ゲスト:橋本佳幸・森田果)
第6章 著作権(ゲスト:奥邨弘司・羽賀由利子)
第7章 代替性──AI・ロボットは労働を代替するか?(ゲスト:笠木映里・佐藤健
第8章 サイバーセキュリティ(ゲスト:谷脇康彦・湯淺墾道)
第9章 フェイクとリアル──個人と情報のアイデンティフィケーション(ゲスト:成瀬剛・山本龍彦)
第10章 これからのAIと社会と法──パラダイムシフトは起きるか?

 

 まず、第1章でも、まず自動運転の話がとり上げられているのですが、ここではディープラーニングにおける学習対象の問題や、責任の問題、緊急停止ボタンをどう考えるかということなどが論じられています。

 ディープラーニングにとって学習データが重要ですが、例えば田舎道で学習したデータは都会では役に立たないかもしれませんし、日本で学習したデータを搭載した自動車はアメリカで問題を引き起こすかもしれません。

 責任の問題に関しては、現在、自動車事故の責任は運転者に帰せられることが多いのですが、自動運転となれば製造者の責任がより追求されるようになるかもしれません。

 現在のテストカーには緊急停止ボタンがついており、事故が起きそうになれば搭乗者がこれを押すことになっていますが、将来的にも緊急停止ボタンを設置して搭乗者に緊急時にはこれを押す義務を課すとなると、今度は視覚障害者や高齢者から自動運転の恩恵を奪うことになりかねません。

 

 第2章のデータポータビリティに議論に関しては、個人的にそれほどピンときていなかった話なのですが、大屋氏の「世界を国民国家システムにと分割することに意義があるとすれば、それは離脱可能性の保障だというのは、法哲学でも有力な説なのです。データポータビリティを国籍移動の自由に宍戸さんがたとえられたのは、それを踏まえているわけですね」(67p)という発言は面白いと思いました(そして、ここからサイバー世界の境界と現実の国境の齟齬の問題も出てくる)。

 

 第3章では契約の話がなされています。ここも難しい話ではあるのですが、AIによって今までの定型約款が個別の契約に置き換わる可能性が指摘されています。また、ビットコインのように技術文書はあっても約款がないケースもあり、こうなると契約そのものの存在が揺らいできます。

 後半ではブロックチェーンとスマートコントラクト、仮想通貨などの話も出てきます。ここも難しい話なのですが、ビットコインのような純粋な交換価値のようなものは、差し押さえたりできるのかといった問題が提起されていて、興味深く感じました。

 

 第4章では、医療支援の問題がとり上げられているのですが、まず目を引くのが江崎禎英経済産業省政策統括調査官の次のような発言。

 実は一般の認識とは異なり、個人情報保護法は保護法益が「漠然とした不安の緩和」でしかないため、極めて緩い法体系にしてあります。もちろん立法技術的には、蟻の這い出る隙間もないように精緻な体系にしてありますが、同時に象が通れる扉を二つ開けてあります(*引用者:ここでの二つの扉とは23条1項1号の「法令に基づく場合」と本人の同意)。(中略)

 本来「情報」は、誰かがそれを見て初めて価値の生ずる財です。また「情報」は転々流通することが前提であり、高度情報社会の根幹をなすものです。したがって、「これは私の個人情報だから、誰に見せるかも消去・改変するかも私に決定権がある」といった自己情報コントロール権は認めないという方針で法律を書ききってあります(109p)

 「やはり」というか、経済産業省はこういった問題で相当前のめりなスタンスなのだなと思いました(ベネッセの個人情報流出事件を受けた改正個人情報保護法には批判的(112p))。

 

 本章では、AIによる診断支援が行われるようになった場合、例えば「インフォームドコンセントは成り立つか?」といった問題が議論されています。インフォームドコンセントにおいて、医師が説明し患者が同意するという流れがあるわけですが、患者は必ずしも内容をすべて理解しているわけではなく、究極的には医師の人格を信頼して納得するような部分もあります。これがAIによる説明になると、そうはいかないかもしれません。

 大屋氏が「プロフェッショナルの判断にもブラックボックス部分が相当あるわけですが、それで許されるのはなぜかと言うと、後付けであれ説明する口があるのと、切る腹があるからだという話」(138p)をしていますが、この「切る腹」というのはAIにはないものでしょう。

 

 第5章の専門家責任の問題でも、まずは医師の責任問題がとり上げられています。この章では森田果氏が、「そもそも専門家は特別扱いされるべきなのか?(経営コンサルタントなどは専門家のようでありながら免許もなく誰でも名乗れる)」など、けっこう大胆な提言をしており、法のそもそもの思想を問い直すようなハードな話へと展開していきます。

 

 第6章は著作権。ここではまずAIが学習するときのデータの著作権をどう考えるかという問題と、AIが作成したものが著作物になるのかという問題がとり上げられています。

 基本的には防犯カメラが撮った写真に著作権がないように、AIのつくったものは著作物ではないと考えられますが、日本では著作人格権を法人にも認めており、そのあたりからAIに権利主体性を認める道があるのかもしれません。

 さらに後半では著作権侵害にいてプロバイダー、プラットフォーム事業者の責任を求めるEUDSM著作権指令についても検討がなされています。  

 

 第7章では、「AIやロボットが労働を代替するか?」という問題が扱われています。

 まず指摘されているのが、その人が行う仕事の範囲がはっきりしていない日本の正社員はAIで代替しにくいという点です。一方で、正規と非正規の格差をなくすために職務を明確にしていくべきだという議論もあり、もしそれが実現すればAIによる代替は進みやすくなるかもしれません。

 AIやロボットは人間から職を奪うかもしれませんが、同時に高齢者や障害者に雇用の場を与えることになるかもしれません。現在、重い障害を抱えていると考えられている人も、ちょうど目の悪い人がメガネを掛けて普通の生活ができるように、ロボットなどによって普通の生活ができるようになるかもしれません。

 さらに本章では法実務にどれだけAIを活用できるのかということも検討しています。

 

 第8章はサイバーセキュリティ。サイバー犯罪では、セキュリティの穴を突かれて攻撃された場合や、攻撃の踏み台にされた場合など、被害者であり、同時に加害者(とまで言っていいのかはケース・バイ・ケースでしょうが)であるようなケースも考えられます。その場合に責任をどう考えるかが問題になるでしょう。

 また、国際関係の場では、サイバー攻撃に対して自衛権を発動できるかといった問題もあります。中国のサイバーセキュリティ法では、サイバー空間に「主権」という言葉が使われているそうで(280p)、今までの「自由なネット空間」とは違った空間が出現しつつあるのかもしれません。

 

 第9章は「フェイクとリアル」と題されていますが、前半でGPS捜査、顔認証、プロファイリングなどの操作におけるアイデンティフィケーションの問題がとり上げられています。

 多くの人は顔を晒して公然と移動しているので、例えば、電車で「今日もあの人が乗っている」と認識してそれをメモか何かに記録し始めたとしても、それはプライバシーの侵害とは言い難いでしょう。しかし、AIを使って大量のデータを処理するようになれば位置情報や顔認証でその人の行動を丸裸にできるかもしれません。

 また、ここでは「見られたくない」という考えとともに、「見られたい」(見られることによって安全・安心を得たい)という考えもはたらきます。特に日本では、ヨーロッパに比べると後者が強く出てくる可能性も強いです。

 さらに後半では、フェイクニュースや「AIに刑事責任を問えるのか?」といった問題が検討されています。

 

 第10章はまとめになりますが、ここでは今まで「自律的な個人」というフィクションをもとに構成されていた法が、どのような変化を被るのかと言うとが話題に上がっています。また、今まで契約は自然言語によってなされていましたが、そのあたりも変わってくるかもしれません。

 

 このように本書は盛りだくさんの内容です。ここでは、個人的に気になった部分を拾ってみましたが、他にも面白い部分はいろいろあります。特に法学の素養のある人が読めば、より多くの論点を読み取ることができるでしょう。

 これからの社会を考えていく上で、非常に多くの刺激を与えてくれる本ですね。

 

 

ウィリアム・トレヴァー『ラスト・ストーリーズ』

 2016年に亡くなったアイルランド生まれの短篇の名手ウィリアム・トレヴァーの最後の短篇集。

 短篇というと、よく「何を書かないかが重要だ」といったことが言われますが、トレヴァーの短編は、まさにそれ。ただ、お手本というには本当にびっくりするほど「書かない」作風であり、常人が真似できるものではないですね。

 この本でも、長い人生を20ページほどに閉じ込めた作品がいくつかあるのですが、無駄を削ぎ落とすレベルを超えて、「重要なことは書かない」という確固たるスタイルを感じさせる作品群ですね(「重要なことは描かない」という点で一時期の北野武の映画と少し通じることがあるかもしれません)。

 収録作品は以下の10篇

ピアノ教師の生徒
足の不自由な男
カフェ・ダライアで
ミスター・レーヴンズウッドを丸め込もうとする話
ミセス・クラスソープ
身元不明の娘
世間話
ジョットの天使たち
冬の牧歌
女たち

 

 どれも面白いですが、特に長い人生を凝縮した作品としては「カフェ・ダライアで」、「冬の牧歌」、「女たち」が面白いですかね。

 「カフェ・ダライアで」は、かつてはダンサーで今は出版社の原稿審査の仕事をしているアニタが、いつも仕事で使っているカフェ・ダライアでかつてのダンサー仲間でもあったクレアと再開します。

 実はアニタとクレアで親友でありながら一人の男を取り合った仲であり、その男ジャーヴァスが死んだというのです。ここから二人の過去を織り交ぜながら話は展開していきますが、この展開のさせ方がなんとも絶妙。人間が自分の過去につける折り合いと、その繊細さとしぶとさのようなものが描かれます。

 

 「冬の牧歌」はおそらく本書の中でも一番幅広く受け入れられるのではないかという作品。

 荒野の中にたたずむ裕福な農家の一人娘のメアリーと家庭教師としてやってきたアンソニーのひと夏の恋。それから10年以上経って結婚したアンソニーがふと思い立って屋敷を訪ねたことからドラマが始まり、そこからさまざまな物が壊れ始めます。そんな中で最後に残るものは? という話です。

 

 「女たち」は、母を亡くして父と二人で暮らすセシリアが寄宿学校で、ミス・コーテルとミス・キープルという奇妙な二人組の女性を出会う話。しっかりとした結末があると言えばあるのですが、「本当にこれでいいのかな?」と読み終えた後に少し不安になる作品ですね。

 

 トレヴァーを初めて読む人にとっては、あまりに省略されすぎている作品が多いと思うので、『聖母の贈り物』か『ふたつの人生』あたりをおすすめしたいところですが、トレヴァー好きにとっては濃縮されたトレヴァーが楽しめる作品ですね。

 

 

morningrain.hatenablog.com

 

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THA BLUE HERB / 2020

 THA BLUE HERB、5曲入のミニアルバム。去年、2枚組のセルフタイトルのアルバムが出ていたことに気づかなったかという情弱ですが(音楽雑誌読まなくなるとこのあたりがダメですね)、このミニアルバムには気づくことができました。

 というわけで、THA BLUE HERBのアルバムとしては「TOTAL」以来なわけですが、「震災」というテーマのあった「TOTAL」に比べると、BOSSの私小説的な面もありますが、ソロアルバムの「IN THE NAME OF HIPHOP」のような人生振り返りモードではなく、今思っていることを素直にラップしている感じがありますね。

 漠然とした印象に過ぎませんが、韻なども比較的わかりやすく踏んでいるような気がします。

 

 そんな中でも「社会派」な曲が"2020"。♪トランプが今のオーナー 棒読みプロンプター♪といった政治批判もありますが、それよりも印象に残るのは♪REST IN PEACE ノムさん イカした奥さんと末長く仲良くな♪というリリック。野村監督夫妻への評価って、自分が年齢を重ねるに連れ、あるいは時代の変化につれて変わってきた感じもするのですが、BOSSもそうなのかな?と思って、非常に頭に残ります。

 また♪2020 今年は長かった春休み 音楽は衣食住の次♪とあるように、コロナによる音楽業界へのダメージが素直に語られているあたりも、2020年の世相をよく表しているのではないかと思います。

 

 コロナが未だにおさまらずに、本当にライブを中心とした音楽のシーンはどうなってしまうのか? という感はありますが、このミニアルバムは、そんな中でも静かに踏みとどまってやろうという決意を感じさせますね。

 

 

ピーター・テミン『なぜ中間層は没落したのか』

 著者は著名な経済史家で、経済学の立場としてはケインジアンだといいます。そんな著者が「なぜ中間層は没落したのか」というタイトルの本を書いたというと、近年の経済の動きと格差の拡大を実証的に分析した本を想像しますが、本書はかなり強い主張を持った論争的な本です。

 現在、アメリカの社会は左右に分極化していると言われますが、著者は上下の分極化を指摘しています。アメリカの社会は上20%(本書はFTE部門(FTEは金融(Finance)、技術(Technology)、電子工学(Electronics)の頭文字)と呼んでいる)と下80%に分極化し、共和党はもちろん、民主党も基本的には上20%の代表になっているというのです。

 そして、現在のアメリカはアーサー・ルイスが途上国の経済を分析するときに使った二重経済のモデルで説明できるというのが本書の主張になります。

 少し陰謀論的な印象を受けるところもありますが、70年代以降のアメリカの政治の状況をみると「大富豪たちの陰謀」のようなものを想定せざるを得ないわけで、それを正面から告発しようとした本書は読み応えがあります。

 

 目次は以下の通り。

第1章 二重経済――成長の終焉とルイス・モデル
第2章 FTE 部門――金融・技術・電子の特権階層
第3章 低賃金部門――格差と抑圧の構造
第4章 移行――教育による階層間移動への壁
第5章 人種とジェンダー――根深い差別の存続
第6章 政治の投資理論――政治資金の影響力
第7章 超富裕層の選好――小さな政府と減税
第8章 政府の概念――誰のための政府か?
第9章 大量投獄――人種差別と負のスパイラル
第10章 公教育――財源不足と学生ローン地獄
第11章 アメリカの都市――インフラの荒廃と居住の隔離
第12章 個人と国家の負債――借金漬けの個人、救済される銀行
第13章 比較――技術変化と国際化のなかのアメリ
第14章 結論――公正な社会のための行動計画
エピローグ――トランプ氏の経済的帰結
補論 不平等のモデル――ピケティ・ソロー・クズネッツ 

 

  中間層が没落しつつあるというのは、ここ最近さまざまなところで指摘されています。アメリカでは1970年から現在まで、中間層の所得シェアが減少する代わりに上位層、特に上位1%の所得が伸びています(xiii p図1、5p図3参照)。

 この現象を説明するに著者が持ち出すのが二重経済というモデルです。もともとは、アーサー・ルイスが使ったモデルで、ルイスは経済が成長すると上において、資本主義部門と伝統的な小規模農業部門が併存する状態を考え、これをつかって賃金の決まり方などを説明しました。この状況では農村に大量の余剰労働力がいるために人手が足りなくなっても労働力は次々と農村から補充されます。こうして賃金が低く押さえられるのです(この余剰労働力がなくなるのが「ルイスの転換点」)。

 

  著者はこのモデルを先進国で「ルイスの転換点」などはとっくに過ぎているはずのアメリカに適用します。アメリカの経済は上位20%のFTE部門とそれ以外に分断されており、下の層はいつまでたっても賃金が上昇しない状況となっているというのです。

 ルイスの記述する途上国の経済では生産設備などの資本を一部の人々が独占しており、それが資本主義部門と農村の格差を生み出していました。一方、著者は現在のアメリカにおいては物的資本だけではなく、教育が生み出す人的資本や社会資本をFTE部門とが独占しており、それが格差を生み出しているとしています。

 そして、この格差は人種とも重なっています。FTE部門の中心は白人であり、黒人やヒスパニックは下の階層に閉じ込められているのです。

 

 では、どのようにしてこのような二重経済が維持されているのでしょうか?

 中国では都市と農村の戸籍制度が二重経済の維持を後押ししたと考えられますが、アメリカにおいて人々の移動の自由を妨げるものはないはずです。

 しかし、著者はニクソン政権以来、富裕層や企業をエンパワーメントし、下の層を従属化させるような政策が次々と打ち出されてきたと考えています。

 ニクソンによって最高裁判事に任命されたルイス・パウエルは、元は企業弁護士で企業の発言力を高めるべきだと考えていました。このパウエルの考えに基づき、ヘリテージ財団やケイト―研究所がつくられ、ここには大富豪のコーク兄弟らが資金を提供しました。

 1973年にはアメリカ立法交流評議会(ALEC)がつくられ、コーク兄弟の提供する資金をもとに州議会にはたらきかけました。ALECの推進する政策は、ビジネス規制の削減、公共サービスの民営化、減税(特に富裕層と企業向け)、組合活動の制限といったもので(24p)、州レベルからアメリカ社会を変えていきました。

 

 こうした動きは80年代のレーガン政権になって加速します。レーガンは就任時の演説で「政府は我々の問題の解決策ではない。政府こそ問題である」(28p)と述べましたが、この考えのもとに富裕層への減税や公共サービスの民営化が進みます。

 また、金融部門の規制緩和が進み、金融部門は80年代に劇的に拡大しました。そして、金融部門は富裕層の集団となりました。FTE部門はもちろん大卒者が中心ですが、大卒が豊かさを保障するわけではありません。大学教授でも経済学なら年収10万ドルでFTE部門といえますが、英語・英文学なら6万ドルで低賃金部門に近づきます。高校教師もそうで、いくら優秀な教員でもほとんど昇給せずに、低賃金部門のままで終わる可能性が高いです(32−33p)。

 

 一方、低賃金部門で働く人々は低賃金部門に閉じ込められました。ルイス・モデルでは農村の人々は都市に食糧を売りますが、現代では低賃金部門の人々はFTE部門にさまざまなサービスを供給します。中程度の賃金は減っていく一方で、飲食店、清掃、運転手などの低賃金部門の仕事は減りませんでした。

 低賃金部門の給与が上がっていかない理由の1つは組合の不在です。製造業が力を持っていたときは組合が賃金を引き上げましたが、製造業は日本や中国との競争でダメージを受け、組合の力も弱まりました。

 

 さらに著者は、人種を狙い撃ちにしたような政策が黒人を低賃金部門に閉じ込めたと考えています。ニクソンは「薬物との闘い」をはじめましたが、ここでターゲットになったのは反戦左翼と黒人でした。ニクソンの内政担当補佐官ジョン・アーリックマンは次のように語っています。

 「ニクソンの1968年の選挙戦とその後のホワイトハウスには、二種類の敵がいました。反戦左翼と黒人です。わかりますか? 戦争反対や黒人であることを違法にはできないと承知していましたが、ヒッピーからマリファナ、黒人からヘロインを国民に連想させて、その二つを厳しく非合法化することで、彼らのコミュニティを混乱させることができました。指導者の逮捕、自宅への手入れ、集会の解散、毎晩の報道で彼らを中傷することができたのです。」(234p)

 

 結果、黒人男性は3人に1人が生涯のうちに刑務所を経験するような状態になりました(49p)。彼らは就労に苦労するようになり、低賃金部門から脱出できなくなります。

 さらに白人たちが都市部から郊外へと脱出したことで、都市部の財政は悪化し、黒人たちの生活環境は悪化しました。

 

 さらにアメリカの場合は教育制度がこれに拍車をかけます。高等教育への州の支援は削減され続けており、それが授業料の高騰を招いています。1980年から2012年にかけて、主な州立大で250%、全州立大とカレッジで230%、コミュニティ・カレッジで165%、授業料(インフレ調整済み)が増加しました(58p)。

 こうなると低賃金部門の子どもはなかなか進学できませんし、学生ローンの返済に苦しむ若者も増加しています。

  

 このアメリカの二重経済は人種やジェンダーとも結びついています。特にアメリカの歴史の中で黒人は一貫して低賃金部門に閉じ込められており、政治の部門からも排除されてきました。

 しかし、少なくとも公民権法によって選挙権や公職につく権利などは黒人にも女性にも等しく保障されるようになったはずです。それにも関わらず、なぜ抑圧はつづいているのでしょうか?

 ここで著者が持ち出すのが政治の構造であり、「政治の投資理論」という考えです。 

 

 二大政党制の行動を説明するものとして中位投票者定理というものがあります。政党は支持を拡大させるために政策の中間地点に寄ってくるという考えですが(例えば、A党が高福祉高負担、B党が低福祉低負担のポジションで争い合うのではなく、支持拡大のためにお互いに中福祉中負担のポジションに寄ってくる)、現実のアメリカの二大政党は分極化しています。

 また、多数派のはずの低所得者層の利益があまり反映されていないのもアメリカ政治の特徴です。

 

 そこで持ち出されるのは「政治の投資理論」です。この理論では企業が消費者への情報提供へ投資するように、政治団体有権者の情報提供へ投資します。投票者にとって誰に投票すべきかということが、ちょうど数多くの商品からどれを選ぶべきなのかがわかない時があるように、情報不足によってわからないときがしばしばあります。そこで政治団体は自らに有利な情報を提供して有権者を動かし、自らの利益を実現しようとするのです。

 

 実際、過去20年の政策決定を検証したところ、中位投票者を反映する多数派の利益と、所得分布の上位10%のエリートの利益が対立した場合、前者が政治的競争でほぼ負けていたそうです(104p)。少なともアメリカでは中位投票者定理よりも政治の投資理論が現実をうまく説明できているのです。

 例えば、ナンシー・ペロシとジョン・ベイナーは、それぞれ民主党共和党の下院議長を務めましたが、所得上位の1%の中のさらに1%の超大金持ちからの支援を強力に受けた政治家であり、「政治の投資理論」によれば、二人の政策姿勢はあまり違わないことになります(109p)。

 アメリカ政治は分極化していると言われていますが、大金持ちの影響を強く受けているという点では民主党共和党も変わらないのです(とは言っても、著者は共和党の政治姿勢をより問題視している)。 

 

 所得上位1%の選好を調査したところ、1%層は財政赤字の削減を重視し、民間支出による教育の改善を支持し、規制の削減を望み、可能せあれば減税を支持します(108p)。本書では彼らの願望を「ニューディールを取り消したいということになる」(109p)とまとめています。

 彼らの願望を実際の政治の場面で叶えてきたのが、先述したコーク兄弟らの活動です。彼らは豊富な資金を使って、さまざまな規制を撤回され、低所得者層の政治参加の機会を制限していきました(2013年の「シェルビー郡対ホルダー」事件で、1965年投票権法の連邦政府が制限的な州の投票ルールを施行前に禁ずることができる部分が違憲になって以降、投票制限が強まっている州も南部を中心に多い)。

 

 このように、政治部門を富裕層が支配する中で、低所得者層が「政治的」に低賃金部門に押し込まれる現象も起きています。それが先程も述べた大量投獄です。

 大量投獄は多くのコストを必要としますが、それに対応するものとして出てきたのが刑務所の民営化です。民営刑務所にとって囚人の増加は利益になります。そこで軽微な犯罪でも3回目で長期刑となる「三振即アウト」法が各州で制定され、民間刑務所に囚人が供給されることになりました。この「三振即アウト」法制を広めたのが先述したALECです。

 

 アメリカの初等中等教育では、学区ごとに学校が運営されており、学校の予算も学区の固定資産税などで賄われているのですが、それが格差を固定する要因ともなっています。黒人が多く住む地区では学校の予算も少なく、十分な教育が受けられません。

 こうした問題を解決するために、アメリカではチャータースクールと呼ばれる「民営公共」ともいうべき学校がつくられていますが、全体的な成績はあまり良いものではありません。

 いくつかの効果をあげた取り組みはありますが、初等中等教育もまた格差を固定する1つの要因となっています。

 

 結論で、著者は問題への処方箋として、公教育の充実、大量投獄から社会福祉へ、インフラの整備、低賃金部門の債務の減免といったことを提言しています。

 しかし、その結論のあとに置かれたエピローグでは、トランプがまったく逆のことをやろうとしていることが事細かに指摘されており、将来の展望はまったく明るいものではありません。

 

 本書はかなり明確な立場から書かれた本であり、客観性よりも主張に重きを置いた本と言えるかもしれません。

 ただ、解説で猪木武徳が「読み終えると、些末なことを厳密に議論するよりも、大事な問題を少し大まかに議論することも、時にははるかに望ましい姿勢だと教えられる」(264p)と書くように、その思い切った主張に価値があると思います。

 少なくとも、「どうしてアメリカ社会はこんなふうになってしまっているのだ?」という疑問に1つの答えを与える内容になっており、本書で提示されている「二重経済のモデル」や「政治の投資理論」はアメリカ社会を見る上で、そしてその他の地域の政治や経済を見る上でも、頭に入れておいてよい考えだと思います。