『KCIA 南山の部長たち』

 1979年10月26日に起きた韓国のパク・チョンヒ大統領暗殺事件を描いた映画。南山(ナムザン)の部長とは、韓国中央情報局(KCIA)のトップのことで、パク・チョンヒ大統領を暗殺したキム・ジェギュ部長が本作の主人公となりますが、本作では「フィクション」だということで名前はキム・ギュピョンに変更されています。

 本作で、このキム・ギュピョンを演じるのがイ・ビョンホン。「2枚目」のイメージが強かったですが、本作では受け身の演技で存在感を放っています。

 

 事件に関してはWikipediaでは次のように説明されています。朴正煕暗殺事件 - Wikipedia

 

大韓民国中央情報部(KCIA)部長・金載圭は朴大統領の古い友人だったが、「学生運動の弾圧が生ぬるい」としてしばしば叱責され、また、ライバル関係にあった車智澈大統領府警護室長から、金泳三の新民党総裁への就任阻止工作の責任を負わされライバル争いから脱落した。このため、一説では金載圭が両人に恨みを持ち、殺害を計画するようになったとも言われている。

 

 何だか怨恨説をとったときの本能寺の変のようですが、まさに本能寺の変を見るような面白さがあります。

 本作で描かれるキム・ギュピョンは、非常に常識的な人物で、民主派やアメリカの意向も汲まなければ政権は持たないと考えています。一方、パク・チョンヒ大統領はイエスマンに囲まれ、次第にそういったバランス感覚を失ってきています。

 同じ理想を掲げてクーデターを起こしたパク・チョンヒ大統領とキム・ギュピョンですが、その絆は失われつつあったのです。

 さらに大統領警護室長クァク・サンチョン(モデルとなっているのは第3代大統領警護室長チャ・ジチョル)に、大統領の面前で罵られたりと、恨み爆発があってもおかしくないようなシチュエーションです。

 

 ただし、本作ではKCIAの前部長であるパク・ヨンガク(モデルとなっているのはKCIA第4代部長キム・ヒョンウク)のアメリカでのパク・チョンヒ大統領に対する告発、さらにはアメリカとフランスを股にかけたスパイ・ゲームなどを描くことで、怨恨には還元されない形での暗殺事件を描こうとしています。

 そして、それはイ・ビョンホンの受け身の演技によってかなり成功しています。「麒麟がくる」の明智光秀もそうですが、裏切らなければならない過程が丁寧に描かれているのです。

 脚本的には、もう少しキム・ギュピョンとパク・ヨンガクという2人の部長の関係や因縁のようなものを描いたほうが良かったような気もしますが、全体を通して緊迫感をもたせることに成功しており、楽しめる映画になっています。

 

Fontaines D.C. / A Hero's Death

 アイルランド・ダブリン出身のポストパンクバンド。すでに話題になっていたバンドですが、自分は年末の2020年ベストアルバムにあがっているバンドをいくつかチェックしていく中で知りました。

 音を聞いて個人的に思い起こすすのはミッシェル・ガン・エレファント。とりあえずは次の"Televised Mind"を聴いてほしいのですが、ガレージロックっぽいギターの音とか、ぶっきらぼうな感じのするボーカルとかがミッシェルを思い起こさせます。

 


Fontaines D.C. - Televised Mind (Official Music Video)

 

 けっこう同じメロディを繰り返しているのですが、それを聴かせる色気のようなものがあって退屈させません。これは4曲目の"A Lucid Dream"とか7曲目の"A Hero's Death"もそうですね。

 この色気のようなものがあるから例えば5曲目の"You Said"のようなテンポが少しゆっくり目の曲でも十分に味があるわけで、そんなに複雑なことをやっているわけではないのですが飽きさせません。

 そして、ラストの"No"ではメロディの良さも楽しめます。荒削りなだけでなく、けっこう繊細なこともできるバンドだということが再確認できます。

 また2ndアルバムになってようやく気づくという遅さですが、これはけっこういいバンドだと思います。

 

ハン・ガン『すべての、白いものたちの』

恢復するたびに、彼女はこの生に対して冷ややかな気持ちを抱いてきた。恨みというには弱々しく、望みというにはいくらか毒のある感情。夜ごと彼女にふとんをかけ、額に唇をつけてくれた人が凍てつく戸外へ再び彼女を追い出す。そんな心の冷たさをもう一度痛切に確認したような気持ち。(133p)

 

 数多くの優れた女性作家が出ている韓国ですが、その中でも突出した凄みを感じさせるのがハン・ガンです。短編集の『回復する人間』でもウィリアム・トレヴァーを思い起こさせるような凄みを感じさせてくれました。

 そんなハン・ガンの代表作の1つが本書ですが、一般的な小説というよりは写真なども交えながら上記で引用したような散文を集めたスタイルとなっています。

 スタイルとしてはノーベル文学賞を受賞したポーランドの作家オルガ・トカルチュクの作品に近いものがありますが、トカルチュクの作品が周囲の生活を起点にしながら、宗教などを交えてイメージをふくらませるようなものだとするのに対して、ハン・ガンのこの作品は、「白」というイメージから常に「死」とその鎮魂に回帰してくるような感じになっています。

 

 その「死」のイメージの中心にあるのは、生まれてすぐに亡くなったこの小説の主人公(著者)の姉の死です。生まれて数時間でこの世から去った姉、その死がもたらした穴のようなもの、さらにそこからの恢復が繰り返し語られています。

 さらに、この作品は著者がポーランドワルシャワに滞在する中で書かれており、そこで知った1944年のワルシャワ蜂起(第2次大戦末期の44年8月に進軍するソ連軍に呼応してワルシャワナチスドイツに対する蜂起が起こったがドイツ軍に殲滅され、ワルシャワの街も破壊された)の出来事が重ねられています。

 ワルシャワのイメージもまた「白」なのです。

 

 ただ、最初にも述べたように、イメージがどんどん広がっていくというよりは、常に自分の「身体」を通じた形で文章が綴られてるのがハン・ガンの特徴と言えるでしょう。とにかく「身体」に起きるさまざまな感覚を言語化するのがうまい作家ですね。

  

 

蒲島郁夫/境家史郎『政治参加論』

 政治学者で現在は熊本県知事となっている蒲島郁夫の1988年の著作『政治参加』を、蒲島の講座の後任でもある境家史郎が改定したもの。基本的には有権者がどのように政治に参加し、そこにどのような問題があるのかを明らかにした教科書的な本になります。

 このように書くと、本書はあくまでも政治学を学ぶ人向けの本に思えるでしょうが、本書で行われている議論は、教科書的なスタイルからは想像できないほど刺激的なもので非常に面白いです。

 日本は戦後「一億総中流」と呼ばれる社会をつくり上げたものの、近年はそれが崩壊しつつあるというのは多くのひとが感じているところであると思いますが、その要因を「政治参加」という切り口から鮮やかに説明しています。

 1960〜80年代において出現した日本の特殊な「政治参加」の状況が、「一億総中流」社会を生み出しましたが、90年代以降は日本の「政治参加」のあり方が他の国と同じようなものとなったために「一億総中流」社会は消え去ったというのです(先取りして書くと、だからこそ再び格差のない社会をつくることは難しい)。

 

 目次は以下の通り。

序章 政治参加とは何か
第1部 政治参加の理論

第1章 民主主義と政治参加
第2章 社会変動と政治参加
第3章 政治制度と政治参加
第4章 誰が政治に参加するのか
第5章 参加格差のマクロレベル要因
第2部 実証―日本人の政治参加

第6章 日本人の政治参加―比較の視座から
第7章 戦後日本の参加格差構造
第8章 日本型参加格差構造の崩壊
終章 政治参加論の展望

 

  まず、本書では政治参加を「政府の政策決定に影響を与えるべく意図された一般市民の活動」(2p)と定義しています。政治参加は実際の活動であり、一般市民によるものなので政治家やロビイストの活動は含まれません。また、賃上げのためのストライキなども政府の政策決定とは関係がないので、本書の定義では政治参加になりません。

 一方、他人にからはたらきかけによる「動員参加」も政治参加に含んでいます。

 代表的な政治参加として、投票、選挙運動、地域運動(陳情、住民運動などが含まれる)、個別接触(公職者への直接的なはたらきかけ)、抗議活動(デモなど)、オンライン活動の6つがあげられています。

 

 いずれの方法であっても政治参加にはコストがかかります。投票に関してはほぼ時間的コストで済むかもしてません。地域運動や抗議活動には同じ考えを持つ人とのネットワークのようなものが必要かもしれませんし、選挙運動の中の1つである政治献金はお金がかかります。 

 そのため、経済的地位や社会的地位の高い人のほうが政治に参加しやすく、経済的地位や社会的地位の低い人は政治に参加しにくいという状況があります。

 

 民主化の拡大、例えば普通選挙の導入は貧しい人に政治参加の道をひらくので、それが政府の政策に影響し、格差が縮小されると理論的には考えられるのですが、実証的な研究はこの理論に支持を与えていません(54p)。

 その理由として「現実の民主主義国家において、理論が想定するようには各市民の政治的影響力が平等に発揮されていない」(55p)ことがあげられます。いくら選挙権が拡大しても低所得者層が選挙に参加しなければ、経済格差の縮小は進まないのです。逆に民主主義という仕組みのもとで高所得者層のみが熱心に政治参加し、格差を拡大させることも考えられるのです。

 

 しかし、そうした中で民主主義の拡大と格差の縮小を同時に達成したのが戦後の日本です。

 占領期のGHQという重し、農村から都市への人々の移動、農村住民が体制支持的(自民党支持)であったこともなどもあって、日本の民主主義は大きな後退を経験することなく根付いていき、農村の支持に自民党が応える形で格差の縮小も進みました。なお、後半で詳しく検討されていますが、一時期の日本は学歴の低い層ほど投票率が高かったという傾向もあり、これも格差を縮小する政策に大きな後押しをしたと考えられます。

 

 政治参加にはコストがかかりますが、ではその効用は何かというと、これがなかなか難しい問題です。

 現代の選挙では多くの投票者が存在し自分1人の投票で結果がひっくり返ることはまずありません。ダウンズの研究以降、「なぜ投票に行かないのか?」ではなく、「なぜ投票に行くのか?」が解かれるべきパズルとなり、「投票参加のパラドクス」としてしられるようになりました。ダウンズは「投票それ自体の価値」というものを導入して、この問題を解決しようとしています(76p)。

 

 投票率に関しては選挙制度も影響を与えると考えられます。当選者が1人である小選挙区制では選挙をやる前から結果が見えているケースも多いですが、比例代表制では自分の1票が全く無意味になる可能性は低いですし、動員も全国で活発に行われます。このため、比例代表制の方が投票率は上げると考えられ、実証でもそうした傾向が支持されています。

 政党数に関しては、多ければそれだけ自分の考えに近い政党を見つけやすいということがありますが、同時に認知的コストは上昇するので、両者が打ち消し合う可能性があります(実証的にも検出されないことが多い)。

 政党システムの分極性、すなわち政党間のイデオロギー距離に関しては、大きいほど投票を促進すると考えられます。アメリカや日本などではこの考えを支持する実証が得られています。

 

 ヴァーバ(Verba)らによると、政治に参加しない理由は、「できないから」「したくないから」「誘われなかったから」の3つに分けることができるといいます。政治に参加する資源があるか、動機があるか、政治的動員のネットワーク内にいるかがポイントになるわけです(89p)。

 資源に関して、時間、財力といったものももちろんですが、コミュニケーション能力や組織能力など、ヴァーバらが「市民的技能」と呼ぶものも必要になります。例えば、ライティング・スキルが低ければ自らの要求を政治に反映させるハードルは大きく上がることになるでしょう。

 動機に関しては、関心だけでなく、自分の意見が政治に反映されると思える政治的有効性感覚や、政治情報、党派性などがぽいんとになります。

 動員も政治参加には大きな役割を果たすものです。A・ガーバーとD・グリーンの行ったフィールド実験では、戸別訪問、電話、ダイレクトメールの3つの手法が試されましたが、このうち戸別訪問には投票参加を促す大きな効果があるそうです。また、労働組合の組織率と投票率の間に関係があることを示した研究もあります(組織率が低下すれば投票率も低下する(94p)。

 

 個人の属性を見ると、まず男性は女性よりも政治参加の割合が高い傾向があります。これは古い性的な規範の影響とも考えられますが、00年代の先進国でもこの差は消えていません。

 年齢では高い年代の方が参加の割合は高いです。ただし、70代、80代となると健康問題もあって割合は下がります。

 居住地域では、社会の中心に位置し、コミュニケーションの機会が多い都市部の方が政治参加が活発になるという理論もありますが、都市部はコミュニティの弱さなどから動員活動が行われにくく、一概には言えない状況です。

 また、前にも触れたようにSES(教育、所得、職業などによって図られるスコア)が高いほど政治参加に積極的で、低SES層は消極的という傾向が見られます。とりわけ教育と政治参加の関係は強いとされています。しかも、このギャップは拡大しており、投票という平等なはずの仕組みでも、この格差は拡大しています。

 

 ただし、基本的にSESと政治参加が相関しているといっても、集団や組織への帰属によって、それが変わることもあります。低SES層であっても組織化されていれば、政治参加の度合いが高まることがあるのです。例えば、アメリカは基本的に高SES層ほど政治参加の割合が高まる社会ですが、60年代における黒人は集団化された動員過程によって活発な政治参加を見せました。

 基本的に、労働組合やそれに結びついた左翼政党は低SES層を動員する役割を果たしており、労組や左翼政党が強い国では低SES層の政治参加が高まります。一方、アメリカでは労働者の階層的組織化が進まなかったため、ヴァーバらが「「アメリカの政治のおいて社会階層はなんら重要ではないが、同時に甚だ重要」である。そこでは逆説的にも、「社会階級を基盤にした目に見える抗争が存在しないからこそ、社会の持てる者が政治生活で過大な役割を演じる」ことになる」(111p)と述べる状況が出現しています(一方、60年代のオーストリア、オランダなど、宗教政党の影響で高SESで無宗教の層が支持できる政党がなく高SES層の政治参加が抑制されるケースもある(112−113p)。

 

  先進諸国では労組だけではなく団体活動そのものが弱まっていることもあって、集団による動員は高SES層でも薄れつつありますが、やはり影響が大きいのは低SES層です。途上国では買収などによって低SES層が動員されることもありますが、言うまでもなくこうした違法行為は先進国では難しくなっています。

 また、選挙における認知コストも問題になります。例えば、日本の小選挙区比例代表並立制は2票を投じる制度であり、単純に候補者を選ぶような仕組みよりも有権者にとって認知コストがかかると考えられます。そして、このコストの増大による棄権者の増加はやはり低SES層に強く表れます。さらに有効政党数の多さも認知コストを増やすことになりますし、政党間のイデオロギー距離の近さも認知コストを増やす可能性があります。これらは低SES層の政治参加を抑制する可能性があるのです。

 

 第2部(第6章から)は日本の政治参加の実態を見ていきます。

 2018年に行われた「民主主義の分断と選挙制度の役割」調査によると、過去5年間に経験した政治参加として、「選挙で投票した」が86.8%で、2位の「自治会や町内会の活動に参加した」(43.1%)、「献金やカンパをした」(15.1%)、請願書に署名した」(13.2%)となっています(126p表6−1参照)。このうち、「自治会や町内会の活動」は政治参加とは言い難い面もありますし、「献金やカンパ」も慈善団体などへの寄付も含むのでこちらも政治参加とはい言い難いかもしれません。

 ここからわかるのは近年の日本人の政治参加は低調であり、参加したとしても投票に限られるとうことです。

 

 国際的な比較から見ると、投票率は2010年代における下院選挙の平均投票率でOECD36カ国中31位(投票率は55.2%)、それ以外の政治参加についても「請願書に署名した」(34カ国平均20.3%、日本11.7%)、「不買運動(ボイコット)」(34カ国平均19.0%、日本7.4%)、「ネット上での政治的な意見の表明」(34カ国平均7.2%、日本1.3%)と国際的に見ても日本の政治参加は低調です(132p表6−4参照)。

 

 経時的な変化を見ると、投票率は基本的に低下傾向で、特に90年代以降の落ち込みが目立ちます。また、2007年の参院選を除き、亥年参院選投票率が低下する減少が見られますが、これは統一地方選と重なるためだと考えられており、そうだとすると日本の選挙における動員の重要性を示しているとも言えます(134p図6−2、6−3参照)。

 投票以外の参加に関しても、低下傾向にあり、135p図6−4を見ると、「政治や選挙に関係した会合・集会への出席」、「選挙運動の手伝い」、「役所・官僚・政治化との接触」は83〜93年にかけて急落しています。

 デモの経験率も90年代になると1〜2%にまで落ちています。他の先進国では投票率は低下するものの、それ以外のデモなどの政治参加が活発化する傾向も見られえますが、日本では全体的に政治参加が低調です。

 

 政治参加についての個人の属性を見ると、戦後しばらくは男性の投票率が明らかに高かったものの、徐々に男女差は縮まり、69年で逆転し、その後はほぼ変わらない水準です(ただし09年以降は男性の方が若干高い)。ただし、投票に占める割合は戦後すぐは男性が少なかった、その後も女性の方が長生きするなどの要因で、ほぼ一貫して男性の割合が50%を割り込んでいます(141p図6−8参照)。

 年齢に関しては、年齢が上がるほど投票率が高くなる傾向がありますが、健康問題なども出てくる70代後半以降は下がり始めます(142p図6−9参照)。

 居住地域に関しては、日本では農村部が高い傾向が見られます。これは農村のほうが動員の圧力が強い、農村では選挙が一種の「祭り」のように捉えられている、などの説明があります。

 

  教育・所得・職業について見ると、やはり低SES層の投票率は低いのですが、それが顕著なのは若者です。50歳以上では最終学歴が大学・大学院と中学・高校の差は10%ポイントほどですが、18〜49歳では20%ポイントほどに拡大しています(147p表6−6参照)。所得に関しては年金生活者などを除くために60歳以下の男性に限定すると、きれいに所得が高くなるほど投票率が上がる傾向が見られます(148p表6−7参照)。

 投票以外の政治参加に関しても、やはり学歴が高いほど、収入が多いほど参加する傾向が高いです(153p表6−10参照)。

  

 では、歴史的に見るとどうなのか。著者の1人の蒲島は本書の前身となる本で次のように述べています。

 わが国の政治参加のユニークなところは、政治参加における社会経済的バイアスがほとんど存在しないことである。つまり持たざる者も持たざる者もほぼ同等に政治参加の機会を利用している。むしろ教育の次元では、学歴の低い市民が高い市民よりも政治参加のレベルが高いほどである。(157p)

  この一見すると世界の潮流とは逆の事が起こっていた要因としは次の3つの要因があったと言います。

 1つは年齢です。高齢者ほど投票などに熱心に行きますが、戦後の日本では高齢者の学歴が相対的に高く、若年層の学歴が相対的に低い状態が続きました。2つ目は都市に比べて学歴の低い層が多い農村での投票率が高かったことです。そして、3つ目は日本では高学歴ほど政治的有効性感覚が低かったことです。

 

 この蒲島の説は長らく政治参加の通説として受容されてきましたが、近年、少なくとも2000年代以降は高学歴の方が投票率が高くなっているという実証研究が発表されるようになりました。

 160p図−1の「教育程度と投票参加(衆院選)の関係」のグラフを見ると、蒲島の指摘する投票率の低学歴バイアスは1970年頃から90年頃に見られるものであり、それ以外の時期では高学歴の方が投票率は高いのです。

 

 では、なぜ70〜90年頃の日本では一般的な理論で考えられる結果とは逆の事が起きていたのか? その答えは「動員」ということになります。

 まず、地方では農民の動員が進みます。1950年代に高度成長が本格化すると、農村は発展から取り残されるようになり、それに対して農協が政治へのはたらきかけを活発化させます。特に60年代になると米価をめぐる闘争が激しくなり、集会、デモ、陳情などさまざまな手段を通じて米価の値上げを勝ち取っていきます。

 次第に、選挙における動員と利益誘導がセットのような形になっていき、斉藤淳『自民党長期政権の政治経済学』が指摘するような「逆説明責任体制」と呼ばれるものが出来上がります。利益誘導を受けるために、選挙で投票によって貢献を示すようなスタイルが完成したのです。

 全体的に投票率が下落していく中で、60年代から農林漁業者の投票率は反転していくことになります(165p図7−3参照)。

 

 一方、都市部で低SES層を動員したのが創価学会公明党です。創価学会会員の世帯数は60年頃から急速に伸び、それとともに公明党の得票数も伸びていきますが(168p図7−4参照)、その創価学会が社会的に孤立し、政治的資源にも乏しい都市部の低学歴層を動員したと考えられます。

 一方、高学歴層は60年頃まで社会党を中心に支持していましたが、その支持は60年頃から弱まっていきます(171p図7−5参照)。この高学歴層は「政党指示なし層」になっていき、高学歴層の政治的有効性感覚が失われていくのです。

 

 現在の日本は政治参加の学歴バイアスに関しては「普通の国」となっており、細かく分析すれば「中の上」程度だと言えます(180p)。

 では、1970年頃に成立した日本独特の政治参加の構造はなぜ崩壊したのか? これが第8章のテーマになります。

 

 この日本独特の構造が崩壊したのは1989年の参院選だといいます。

 1978年から減反政策が本格化するなど、農業政策が転換が行われていきますが、1985年の時点で農林漁業者の自民党支持率は70%以上になっており、農民は体制支持的な政治参加を行っていました。

 しかし、農村(郡部)においても政治的有効性感覚は低下しており(187p図8−2参照)、その入力に見合った出力が得られていないという不満が89年の参院選で爆発します。農協組合員の票が社会党や棄権に流れ、自民とは過半数割れの敗北となります。そして、この選挙では低学歴バイアスが崩れました。

 その後、「お灸をすえられた」自民党は農家に配慮した政策を打ち出しますが、ウルグアイ・ラウンドにおけるコメの部分的開放、食糧管理法の廃止など、国際的な圧力の中で農業政策は大きな転換を余儀なくされます。同時に農家においても所得に占める農業の割合が減少し、以前のような見返りを求めた政治参加は見られなくなっていきます。

 

 さらに90年代になると日本社会の脱組織化も進みます。労働組合の組織率も低下し、非正規雇用も増加しました。その結果、「動員」されない人々が増えていきます。

 自民党も変化し、2001年にスタートした小泉政権は都市の有権者をターゲットにしたような政策を打ち出して、都市部からの得票に成功しました。

 こうして、1990年代以降の日本は、「農村部住民の動員」「都市部低学歴層の動員」「都市部高学歴層の疎外」という特徴を失って、「普通の国」へとなっていったのです(196p)。

 

 ただし、低学歴層の政治参加の低下の理由はこれだけではありません。冷戦終結とともにイデオロギー対立の構造がなくなり、各政党のイデオロギー距離は接近しました。

 以前の自民党社会党に比べて、自民党民主党(とその後継)の立ち位置は似通っており、有権者が政党間の政策の差異を見分けることは難しくなっています(例えば、遠藤晶久/ウィリー・ジョウ『イデオロギーと日本政治』参照)。そして、この差異を認識できるのはどちらかといえば高学歴者です。これも低学歴層の投票率が下がる要因となりえます。

 実際、2012年の総選挙では(投票率が戦後最も低く、投票率の高学歴バイアスが強かった選挙でもある)、棄権の理由として19.1%の回答者が「政党の政策や候補者の人物像など、違いがよくわからなかったから」を選んでいます(全体で第3位。203p)。

 

 こうしたことを受けて、終章で描き出されるのは日本の政治と社会に関する深刻な問題です。

 低学歴層の政治参加の度合いが強いという日本独特の構造は、平等な社会を生み出しましたが、現在ではそのバイアスは消滅し、むしろ政治参加が全体的に低調であるということが特徴となりつつあります。

 アメリカは格差の大きな国ですが、その要因として複雑な有権者登録などによって低SES層を排除する政治システムが上げられています(ピーター・テミン『なぜ中間層は没落したのか』)。低SES層の声が政治に届かなくなっているのです。

 そして、日本もそうなっていく可能性が十分にある、というよりも、もはやそうした状況になっているのかもしれません。建前は「一人一票」であっても、政治には高SES層の声ばかりが反映され、格差の拡大が放置されるのです。

 

 こうした状況は「逆リベラル・モデル」とも呼ばれるものです。以前は、政治参加の拡大が格差の縮小や経済発展をもたらしていましが、90年代以降の日本では、「社会経済的発展の減速→政策的選択肢の減少→政治参加の縮小→社会経済的不平等の拡大→社会経済的発展の減速」という悪循環を繰り返しているのです(211−212p)。

 

 これに対する処方箋は難しいものです。とりあえず考えられるのは義務投票制で、これは間違いなく政治的不平等の是正には有効です。

 さらに著者は、政治改革が「わかりやすさ」ということにまったく注意を払ってこなかったことも指摘しています。一人が2票を持ち、比例復活まで考えながら投票する必要のある現在の小選挙区比例代表制は複雑な選挙制度であり、もはや簡単に説明することが不可能になった参議院選挙制度に関しては言わずもがなです。中選挙区制がいいというわけではありませんが、有権者にとってわかりやすい選挙制度等ものが必要になってくるでしょう。

 

 このように、本書は政治学の中の「政治参加」という分野に関するテキストでありながら、日本社会にとっての大きな問題をクリアーな形で取り出しています。

 政治学を学ぶ上でもはもちろん、格差問題などを考える上でも重要な知見を含んだ本であり、政治学というくくりを越えて広く読まれるべき本だと思います。

 

 

 

郝景芳『1984年に生まれて』

 「折りたたみ北京」でヒューゴー賞を受賞した中国の作家による自伝体小説。

 著者のことはケン・リュウ『折りたたみ北京』『月の光』という中国のSFアンソロジーを通じて知っていたので、本書もSF的な要素があると予想して読み始めました。タイトルの「1984年」は、当然オーウェルの『1984』から来ているものと考えられますし、早い段階で「They are watching you.」という言葉も登場します。

 

 ところが、これが純文学と言ってもいいような作品なのです。

 1984年に生まれた軽雲(チンユン)という女性と、その父で娘の軽雲が生まれてすぐに姿を消した沈智(シェンチィ)という2人の人物の人生を交互に語ることで、1984年〜2014年にかけての中国の激動と、その激動の並にもまれる人々が描かれています。

 「1984年」という年も、もちろんオーウェルのことも意識しているわけですが、本作では中国における「会社元年」、つまり改革開放が本格的にスタートし、今までの上からの命令をこなす時代から、自分の運命を自分で切り拓かねばならなくなった転換の年として意味づけされています。

 ただ、ちょっと曲者なのが「自伝体小説」という部分で、あたかも自伝のように書かれていますが、そのイメージは最後にひっくり返されることになります。

 

 冒頭では父の沈智の文革の経験が書かれています。この文革から始まるというのは劉慈欣『三体』と同じで、やはりこの世代の文革の経験は大きいのだと改めて感じますし、また、文革の経験があるからこそ、沈智が知り合いに唆されるように深センへと向かう列車での開放感や高揚感といったものが伝わってきます。

 その後、沈智はイギリスを皮切りに海外へと渡り、各国を転々とするのですが、その父の謎を追って物語はもう1度文革に回帰することになります。

 

 娘の軽雲の世代は、まさに中国が豊かになっていくのとともに成長した世代になりますが、時代の追い風を受けているからこそ、「何者かになりたい」という想いに追われています。

 主人公は自らが凡庸であることを自覚していて、どちらかと言えば「何者かになりたい」ではなく「自分は何者なのか」という問題に悩む人物なのですが、親世代とはまったく違った悩みを抱える世代と言えるでしょう。

 

 主人公の紆余曲折に関しては、ぜひこの小説を読んでほしいのですが、最初はこの世界のあるべき姿を考えるものとして政治学(政治哲学)に興味をもった主人公は、社会に出たあとに統計と関わるようになります。

 もちろん、中国の統計には怪しい部分もあり、それは本書にも書かれているのですが、それでも真の姿を記録として残そうとする人もいます。このあたりは、清の時代の揚州大虐殺について書かれた本が日本に伝わって記録として残ったということを描いたケン・リュウ「訴訟師と猿の王」(『母の記憶に』所収)を思い出しました。

 ある種の「記録」が倫理と結びつくというのは中国でこそよく感じられることなのかもしれません。

 

 「折りたたみ北京」のような、度肝を抜くようなアイディアはありませんが、近年の中国の激動と、作者の巧さを感じさせてくれる小説ですね。良い小説だと思います。

 

 

ピエール・ロザンヴァロン『良き統治』

 副題は「大統領制化する民主主義」。18〜19世紀にかけて民主主義の中心は議会であり、立法権であると考えられていましたが、20世紀半ば以降、執行権(行政権)こそが実質的な政治を動かすものだという認識が強まり、政治の評価を執行権(行政権)のトップである大統領や首相の功績や優劣に求める傾向が強まっています。

 例えば、アメリカの政治を語るときでも、「オバマは〜だった」「トランプは〜だった」というように大統領を中心に語られることが多いと思います。

 「なぜ、民主主義の中心は立法権から執行権(行政権)に移行したのか?」、「執行権が中心になった時代の民主主義はいかにあるべきか?」というものが本書のテーマになります。

 著者は政治思想史や社会思想史などを専門とする人物で、さまざまな人物の考えや出来事から民主主義の変化を描き出していますが、同時に現在の民主主義に対する具体的な提言も行っており、「民主主義の危機」が叫ばれる中で、非常にタイムリーな本にもなっています。

 なお、冒頭に宇野重規によるわかりやすいまとめがあるので、本屋で手に取る機会があれば、まずそこを読むといいと思います。

 

 目次は以下の通り。

 

 

「良き統治」とは何か  (宇野重規

序 新しい民主主義への移行

I 執行権——その問題含みの歴史
1 法の聖別と執行権の格下げ
2 非人格性の崇拝とその変容
3 執行権の復権の時代
4 二つの誘惑

II 民主主義の大統領制
1 先駆的な経験——1848年とワイマール共和国
2 ドゴール的例外から大統領制化の普及へ
3 不可避的かつ問題含みの点
4 非自由主義の規制

III 被治者のものとなる民主主義
1 被治者と統治者の関係
2 理解可能性
3 統治責任
4 応答性

IV 信頼に基づく民主主義
1 良き統治者の諸相
2 真実を語ること
3 高潔さ

結論 第二段階の民主主義革命
訳者あとがき  (古城毅)

 

 本書の冒頭には「私たちの政治体制は民主主義的であるといえる。しかし、私たちは民主主義的に統治されていはない」(3p)との一文が置かれていますが、これが本書の出発点です。

 政治の中心は議会から大統領へと移行し、「統治」というものが政治の重要な要素になっているのに、民主主義はそれに対応できていないのです。

 

 18〜19世紀の思想家、例えばベッカリーアやベンサムは、法という一般性に基づく政治こそが正しいものであって、司法や行政に紛れ込む恣意性は古臭いもの、克服されるべきものだと考えていました。

 こうした態度はフランス革命時にも見られるもので、「法の祭典」が開かれ、人々は「法に万歳!」と熱狂的に叫びました(34p)。専制政治は個別的な権力として理解され、「自由は規則の一般性によって確保される」(35p)と考えられたのです。

 この結果、司法権は格下げされ、執行権は蔑視されました。ルソーは執行権は「一般性には属しえない」(38p)と考え、執行権に従属的な役割しか認めませんでしたが、こうした考えはジャコバン派に引き継がれ、ロベスピエール大臣たちを公安委員会の「単なる道具」と形容しました(41p)。

 

 法はその非人格性から支持されましたが、そうした中で権力を握ったのはナポレオン・ボナパルトという1人の人間でした。スタール夫人は「革命が始まって以来、固有名が皆の口に上るのは初めてだった」(49p)と述べていますが、突如として非人格性という理想は捨て去られたのです。

  この後、ナポレオンの失脚とともに再び非人格的な権力が支持されるようになり、19世紀は非人格的な政治を求める動きが続きます。

 

 しかし、20世紀になると、普通選挙の導入、第一次世界大戦の勃発、ケインズ主義による経済分野への政治の介入の拡大という3つの要因によって、執行権が復権してうくることになります。

 特に経済分野への政治の介入は、政府が経済を中心にさまざまな分野に関して「調整」することを期待することとなり、法も執行権が産出するものとなっていきます。「一般性の概念と一体になった立法権力と、個別性の概念と一体となった執行権力との間の旧来の区分は、このような状況で完全に消滅した」(76−77p)のです。

 

 ただし、この執行権を民主主義にうまく組み込めませんでした。行政部門には合理性と効率性が求められましたが、当時は「ボス」によるに政治が批判されていた時代でもあり、同時に行政部門からの党派性の追放が叫ばれました。行政部門はそうした党派争いから距離を取ることが求められたのです。

 カール・シュミットは執行権を称揚し、自由主義的な民主主義を否定しました。テクノクラート的、あるはい決断主義的な執行権のあり方が求められるようになり、執行権における民主主義は大統領制化という形で実現されることになります。

 

 著者は、「民主主義の大統領制化=人格化の動きは、20世紀最後の数十年の政治活動を特徴づけた」(99p)と述べます。普通選挙によって、執行権の長を選ぶことが民主主義の明白な特徴となったのです。

  トクヴィルは「大統領から選挙を取ってみなさい。憲法上、彼にはもはや何も残らないだろう」(105p)と述べましたが、いつの間にか大統領選挙こそが民主主義の中核のような形になっていったのです。

 

 民主主義の大統領制化に関して、ワイマール期のドイツについてもウェーバーなどをとり上げながら検討していますが、著者の母国でもあり、本書でも中心的にとり上げられているフランスを例に取れば、やはりドゴールがポイントとなります(ちなみに本書ではアメリカの大統領は例外として捉えられている(125−126p)。

 ドゴールは議会は「特殊な諸利害の代理人を集結」(127p)させているとし、一方で執行権こそが一般意志と国の統一性を代表する役割を果たすと主張しました。そして、ドゴール以降は、この執行権を有する国家元首は選挙によって選ばれ、政党を超越し、一般意志と国の統一性を代表するものとして制度化されていくのです。

 そして、この選挙による大統領制は独立を果たしたアフリカ諸国やラテンアメリカ諸国に広がっていくことになります。

 

 ドゴールは自ら社会を体現しようとしましたが、後継者は徐々にそうしたスケール感を失っていきます。「それゆえ、ドゴール以降の第五共和政を名付けるのに、人々は「天才なきカエサル主義」という言葉を使うことができた。かくして大統領制化=人格化の政治形態と社会を体現することとの間に溝ができ、その溝は広がり続けているのである」(137p)というわけです。

 

 こうした大統領制化は民主主義的な要請に応えるものでもあります。まず、大統領は議会よりも責任を帰属化させやすいという面があります。また、革命の機運が交代するとともに、新しい大統領に社会的な期待がかけられるようになりました。さらに民主主義の大統領制化=人格化は制度や決定過程をより理解可能なものとする要請に応えるものでもあります。

 この大統領の正当性は選挙に依っているのですが、この選挙が万能というわけではありません。例えば、次のような問題があります。

 良き候補者は有権者を魅了できないといけない。良き候補者にとって重要なのは、魅力を放ち、親しみやすさを表現し、雑多に構成された人たちを集めることである。つまり少なくとも部分的には矛盾する公約の言葉を重ね、多くの言葉を操ることが重要となってくる。〜一方、統治する場合、選択の公表が迫られ、あまりに長時間、さまざまな選択肢を検討することは難しくなる。統治するということは、政治の言葉が織りなそうとする計算された曖昧さのベールを定期的に引き裂く決定をするということである。つまり、こうした不一致は構造的に失望を引き起こし、政治世界に対する拒絶を生むものである。(143−144p)

 

 他にも大統領は有権者と類似した存在なのか、卓越した存在なのかという緊張関係も引き受けます。

 こうした中で選ばれた大統領は、唯一無二の地位を得ることとなり、非自由主義的な傾向を助長します。選挙で選ばれた大統領こそが他の権力に比べて正当性を持つと理解されやすいからです。

 

 この大統領という統治者と被治者の関係は複雑です。立法に関しては、人民は国民投票などを通じて自らも立法者として振る舞える可能性がありますが、自分自身で統治することはできません。「被治者と統治者の間には一種の構造的な非対称性が存在している」(177p)のです。

 「社会はつねに多様であるのに対して、執行権は、それが法的に有効となる条件とは関係なく、その性質上つねに一つ」(179p)なのです。 

 

 こうした中で、著者は統治の民主的な質を高めるためには、「理解可能性」、「統治責任」、「応答性」の3つが必要であると訴えています。 

 まずは「理解可能性」からです。ここではアカウンタビリティから議論を始めています。アカウンタビリティは議会に対する会計報告と監査から始まり、フランス革命後の人権宣言には「社会はあらゆる公共機関にその行政の会計報告を請求する権利がある」(197p)と述べています。

 また、議会活動の公開も進みましたが、だからといって「理解可能性」が高まったとは言い難い面もあります。政治の「可視化」は進みましたが、だからといって決定過程や政策に対する理解が深まったとは言い難く、ルイ14世のように指導者の私生活は公開されても、実際の政策決定の過程はまったくわからないという状況に戻りつつあるかのようです。

 

 しかし、「理解不可能性はおのずから幻滅と拒否を生む。欧州連合の諸組織ほど、このことを雄弁に物語っているものはない」(211p)と著者が述べるように、理解可能性の後退は大きな不満を生みます。欧州連合の場合は、その非人格性が理解不可能性を高めているわけですが、人格性を全面に出して「理解可能性」を表面的に高めたとしても問題が解決するわけではありません。そして、理解可能性の後退は陰謀論を招きます。

 スノーデンやウィキリークスのような暴露も重要ですが、同時にそうした暴露を分析して解釈する能力が重要であり、メディアや市民団体、知識人などにそれが求められています。

 

 次に「統治責任」について。統治責任とは積極的な権力行使の代償ともいうべきものであり、被治者と統治者の関係を構築する主要な要素です。

 統治責任には、権力を保持し、問題があったら辞職するという形の責任と、被治者に対する説明責任があります。

 ただし、誰に責任を帰属させるのか? という問題は、決定過程の不透明化と統治構造の複雑化によってますます難しくなっています。また、責任を問うもの世論がその存在感を増し、「いまや実質的な存在となった」(245p)わけですが、この世論は混沌としており、著者は「組織された市民社会として世論を構成することが必要だ」(247p)と考えています。

 

 最後に「応答性」ですが、まず、19世紀以降、「市民の意志表明が、選挙という形式的な表明へと徐々に後退し」、「政党が職業化」した状況があります(253p)。

 こうした中で、市民と政治のつながりをいかに構築するかが課題となるわけですが、こうしたつながりを担っていた労働組合なども衰えており、統治者たちは「街頭と世論調査にしか向き合わないように」(270p)なっています。

 この市民と政治がつながる回路が弱まったことが、置き去りにされた者たちを代表するというポピュリズムの台頭を招いています。

 民主主義は相互作用であり、さまざまな多様性を取り入れる必要があります。著者はこのために公的討論のためのしくみを構想しています(本書では具体的に展開されてはいませんが)。

 

 第4部では良き統治者像を探っています。歴史上、有徳な君主という中世のモデル、 純粋な選良モデル、カエサル的な期限を持つ人民の体現者モデル、マックス・ウェーバーの天職による政治家モデルなどが存在しましたが、著者は「信頼のおける人間」という統治者増を提案しています(280p)。

 歴史的なモデルに関しての詳しい説明は本書に譲りますが、フランス革命期に表れた純粋な選良モデルにおいて、立候補という行為に貴族主義的な匂いが嗅ぎつけられ、立候補が禁止されたというのは興味深いですね(286p)。

 

 著者は、「被治者と統治者の間の民主主義的な関係の再構築は、何よりもまず、今日極めて劣化している信頼関係の立て直しから始まる」(297p)と述べています。かつてのように「代表」という面から統治者を捉えることは難しくなっており、それを埋め合わせるためにも信頼が重要だというのです。

 

 そのために必要なのが「真実を語ること」です。

 ヒトラーにしろ、あるいはトランプにしろ政治家が陰謀論的な世界観を語り続けることの危険性は広く知られていることですが、「政治において「真実を語ること」とは何なのか?」というのは難しい問題だと思います。

 本書でも、それほどクリアに論じられているとは思えないのですが、政治の世界におけるモノローグへの批判の部分で出てくるイギリスとフランスを対比した次の部分は面白いと思いました。

 イギリスの伝統では、演説は一般的に即興でなされなければならず、発言者は要点を記したメモに頼ることが許されるだけであった。〜演壇が存在せず各自がその場で発言するため、発言は率直な性格を保つことができ、その結果、討論はしばしば真の議論をもたらすこととなった。これとは全く異なるのがフランスの経験であった。ここでは革命以来、演説原稿の使用が重んじられたが、それは本質的な理由と形式的な理由による。書かれたものへの好みはまず、それが概念上優越しているという啓蒙思想から継承された見方と結びついていた。〜古代のレトリックへの批判に基づいた考察に、文書のおかげで、演説を議場の内部から外へ出すことが可能になるという民主主義の議論が加わった。それは強い仲間意識やジェントルマンのクラブを作ろうとする考えを特徴とするイギリスの議院の機能の仕方を批判する一つの方法であった。〜(フランスでは)大きな書見台があるおかげで、彼は自分の原稿をゆっくり広げることができた。それゆえ、繰り返されることになるのはモノローグであった。(318−319p)

 ベンサムはこのようなフランスの議会のあり方を批判しましたが、著者もまた、議論がモノローグの羅列となることを批判しています。これによって「市民は受動的市民という立場に閉じ込められてしまう」(321p)のです。

 

 もう1つ統治者に求められる資質が「高潔さ」です。「高潔な人物とは、一つの職務に集中し、己の役職に精魂を傾ける人物、その役職と完全に同一化し、個人的な利得をそこから引き出さないような人物である」(325p)と述べられていますが、それを被治者が確かめるのはなかなか困難です。

 そこで透明性が求められます。「人々は、権力が明確に何をなすべきかがわからないため、いまや権力がどのようであるべきかを気にかける」(328p)のです。ただし、「この枠組みにおいては道徳的嫌悪が政治的判断を形成する決定的変数」(328p)となるのです。

 そのため、あまりに透明性が追求され、それが目的化するとかえって不信を招き寄せう可能性もあります。また透明性の追求のために被治者のプライバシーが犠牲になるのも問題です。

 著者は政治家の財産状況を監視したり、汚職を取り締まる機関の設置とともに、腐敗で有罪となった議院に「民主的不適格の刑」(被選挙権の長期間の停止など)を課すことも考えられると述べています(347p)。

 

 以上が、自分なりの本書のまとめですが、本書の大きな魅力はこのまとめではほぼ捨象した過去の政治思想や社会思想のピックアップにあります。自分のような思想史に関する素養のないものではまとめられるようなものではないので、その部分についてはぜひ本書を読んでほしいと思います。

 

 最後に、本書の民主主義の大統領制化に対するスタンスですが、これはちょっと複雑なのかもしれません。

 はじめのうちは、政治の人格化に関して警戒を示す考えなどが数多く紹介されているために、著者も政治の人格化に反対なのかと思いますが、後半では統治者の資質に議論が及ぶように、政治の人格化を受け入れているように思えます。

 多くの政党を比較するよりも、数人の大統領候補を比較するほうが簡単でわかりやすいことです。著者は、それが良いのかは別にして、現代の民主主義では「わかりやすさ」も必要であり、民主主義の大統領制化を止めようとするよりは、それを改良してより良い大統領制、つまりタイトルの「良き統治」の実現を目指すほうが現実的だと考えているのでしょう。

 何か明確な処方箋が示されているわけではないですが、現代の民主主義を考える上で多くのヒントを与えてくれる本です。

 

 

2020年の紅白歌合戦を振り返る

 あけましておめでとうございます。

 新年最初の更新は例年通り、紅白歌合戦の振り返りからですが、今回の最大の注目ポイントは「紅組の勝利」。

 もちろん、第2部を見れば紅組のほうが穴のない布陣で純粋な歌唱の点から言うと紅組の勝利で何の不思議もないのですけど、それでも白が勝つのが近年の紅白。

 これはジャニーズ・ファンが内容に関係なく大挙して白に入れるから起こる現象だと考えられ、そのため自分は「お茶の間審査員の廃止」を提言してきたわけですが、今回は拡大されたお茶の間審査員のみの投票で紅組が圧勝しました。

 この謎を解く仮説としてとりあえず思い浮かぶのが、「嵐ファンが中継のときこそ紅白を見たけど、基本的にはラストライブの中継を見ていて紅白には帰ってこなかった」というものですが、もう1つ別の仮説も思い浮かびます。

 それは、今までの登録されたお茶の間審査員とは違い、誰でも参加できるシステムを導入したことで「組織票」的なものが無効になったというものです。

 これは民本主義を唱えて大正デモクラシーの風潮に思想的な基盤を与えた吉野作造の普選論に通じるものです。吉野は政友会が利権などで築いた地盤を破壊するために普通選挙を導入するべきだと主張しました。普選の導入によって有権者が激増すれば組織化や利益誘導が無効になり、健全な競争が取り戻せると考えたのです。

 今回の紅白においては普通選挙の導入に匹敵する、簡易的なお茶の間審査権の拡大によって、ジャニーズというマシーンの支配が打破された紅白として歴史に記録されるのかもしれません。

 

 あと、特筆すべきは二階堂ふみのそつのなさ。「和久田アナか?」って思わせるほどウッチャン大泉洋のアドリブをあっさりと引き取っていましたし、ディズニーコーナーで聴かせてくれた歌もうまい。あまりに隙がなくて、吉高由里子綾瀬はるかが懐かしくなるほど。

 

 では、ここからは各歌手の短評を

 

milet → 日本語の歌詞を洋楽のイントネーションに乗せる歌い方はLOVE PSYCHEDELICOを思い起こさせますね。けっこう良かったと思います。

櫻坂46 → 路線を変更するために改名したのかと思ってましたけど、欅坂と同じような路線なんですね。だと平手友梨奈を求めてしまうような…

水森かおり → 衣装はきれいだったけど特にびっくりするものではなく、フワちゃんの絡みのなんだか空振りだったような…

純烈 → リーダーのハート入りヘアスタイルで水森かおりの衣装を上回り、最後は罰ゲーム的な紙吹雪。ゴールデンボンバーの後継者か!

坂本冬美 → 上手くいえないけど、桑田佳祐がつくった歌は「フェイク」なんだけど、坂本冬美は「マジ」に歌っているので、そこに乗り切れない何かがある感じですかね。

NiziU → メンバーのテイストが似すぎていて識別不能な坂道シリーズよりも、女の子にはこっちはウケますよね。楽曲もJ-POPとは緩急の付け方が違って飽きさせない。

瑛人 → 一発屋かもしれないけれど、このサビのメロディの中毒性というものは確かにある。

BABYMETAL → 合いの手で入る声の脱力的なところはいまいちだけど、ボーカルの人の声はいい。どこかで演歌のカヴァーをしてほしいくらい。

JUJU → 歌が上手いのは知ってたけど、今回はリミットを振り切って歌っていた感じでしたね。これも良かった。

GReeeeN → 「AI・美空ひばり」の技術を応用して、いつでもボタン1つであなたにカスタマイズした人生の応援歌を歌ってくれる「AI・GReeeeN」とかが開発されそうですね。

嵐 → これだけ大きくなったグループが誰ひとり欠けることなく、メンバー間のあからさまな格差みたいなものも感じさせることなく、とりあえずは終えられたというのは、やはりすごいことですよね。

LiSA → 「炎」は楽曲のみだと少し弱い気もするのですが、背景で煉獄さんが映れば「煉獄さ〜ん」(泣)。

Official髭男dism → 昨年の歌は近年のバンドのいいとこ取りみたいに感じましたが、今年の歌は80年代後半から90年代前半のトレンディドラマ全盛時にハマりそうな歌。暗いヒット曲の多い今年の中では異色かも。

三山ひろし → もはや誰も歌を聴いていないのではないかと思われるのですが、前回の失敗が盛り上がりを生む麻薬的コンテンツになりつつある。

YOASOBI → 歌詞だけ聴けばかなり重たい感じですが、それに限界まで速度をつけることで軽快に仕上げている感じでしょうか。で、歌い手がそれを歌いこなしてる。

東京事変 → 坂本冬美の話につなげて言うと、「フェイク」としての曲を「フェイク」として歌うのが椎名林檎東京事変)の魅力ではないかと。

あいみょん → 以前は王道に寄りすぎかと思った時期もありましたが、王道歩んでも全然行けそうですね。

YOSHIKI → 「Endless Rain」はいい曲なのですが、この曲聴くとどうしても「捕鯨☆柔和論」を思い出してしまって…→こちらを参照(注意! これ聴くと今後「Endless Rain」をきちんと聴くことができなくなる可能性があります。相当前に見たのですが、今回探したらまだニコ動にあった)

Superfly → 現在、排気量が最も大きな歌手は男性なら宮本浩次、そして女性ならSuperflyですかね。今回のMVPといっていいと思います。

Mr.Children → 本人たちは気に入っているのかもしれないけど「Documentary film」よりも「Brand new planet」のほうがいい曲なんだって。

星野源 → やはり「安倍首相は!?」ってなりますよね。でも、批評性のある歌詞で良かったと思います。

氷川きよし → 「限界突破する」と聞かされて、甘露寺蜜璃みたいな服になって、さらにもう1回衣装替えというのがわかったときは「限界突破ってパンイチ?それとも貝がら??」と不安も限界突破でしたが、ゴールデンな衣装で宙吊り。これは最高だった!

松任谷由実 → 3杯目、いや4杯目のティーバッグでいれたお茶という感じで、さすがに歌手としては厳しいものがあるので…?岡村、田中、出川と並んだ画は面白かったけど。

玉置浩二 → こちらは枯れず。日本でもトップクラスに歌が上手い人ですが、さすがのステージでした。

MISIA → 曲は正直どうでもいい感じなのですが、福山雅治とでは歌手としての排気量が違いすぎる感じ。

 

 というわけで、個々に振り返ってみてもやはり紅組ですかね。

 あと、北島三郎のリモート出演という謎演出ですが、第2部における実質的な演歌が石川さゆりのみということを考えると(三山ひろしは「けん玉」で氷川きよしは「限界突破」)、「演歌の死」の確認ということになるんですかね?