松田茂樹『[続]少子化論』

 タイトルからもわかる通り、松田茂樹少子化論』(2013)の続編というべき本になります。

 『少子化論』はバランス良く少子化問題を論じたいい本でしたが、そのこともあって著者は政府の少子化問題の会議などにも参加しています。

 『少子化論』は、仕事と育児の両立支援だけでなく、母親が家庭にとどまって育児をしたいと考える「典型家族」のことも考えた少子化対策が必要だと訴えていましたが、本書でもその基本は変わりません。

 ただし、その後の出生率は2005年の1.26からは回復したものの、大きく伸びているわけではなく、2019年では1.36にすぎません。それもあって、より危機感を強めた内容になっています。

 

 目次は以下の通り。

序章 少子化の状況と少子化対策の必要性
第1章 未婚化はなぜすすむのか―雇用、出会い、価値観
第2章 夫婦の働き方と出生率の関係―夫婦の就労はどう変わり、それは出生率上昇につながったのか
第3章 父親の育児参加-ハードワーク社会
第4章 少子化の国内地域差―地域にあった対策を
第5章 少子化の国際比較
第6章 日本の少子化対策―その特徴と問題点
終章 総域的な少子化対策出生率回復と<自由な社会>

 

 序章でまず、かなり強い調子で少子化の危機が語られています。移民に受け入れに関してもダグラス・マレー『西洋の自死』などが引いて、その道を否定しています。

 また、所々で子どもを持たない人は子どもを育てている人にフリーライドしているのでっはないかということも指摘しているので、反発する人もいるでしょう。

 ただ、序章の後半で出てくる、出生率を2以上にするには、既婚率を引き上げすべての夫婦ができるだけ2人は子どもを持つようにするやり方と、結婚しない人や子どもを持たない夫婦がいることを見越した上で3人、4人と子どもを持つ夫婦を支援するやり方があるという指摘は重要でしょう。

 

 第1章では未婚の問題がとり上げられています。

 女性の就業率の上昇に伴って、未婚女性が結婚相手の経済力や学歴を重視する割合が減るかというとそうではなく、未婚女性が相手に考慮・重視する条件として「経済力」をあげる割合は1997年に90%だったのが2015年には93%、「職業」は78%から86%に、「学歴」は50%から55%にいずれも上昇しています。

 未婚男性をみても、相手に考慮・重視する条件として「経済力」が97年の31%から15年の42%へ、「職業」は36%から42%へ、さらに「家事・育児能力」は87%から96%に、「容姿」も74%から84%に上昇しています(38p)。

 結婚において相手の経済力への期待がさらに高まっていることがわかりますし、全体的に相手に高いスペックを望むようになっているのかもしれません。

 

 こうしたことからも未婚の原因として若者の収入の低迷があげられることが多いです。

 実際、恋人の有無を問わず、男性に関しては。年収300万円以上の正規雇用>年収300万未満の正規雇用>非正規雇用という順番で結婚しやすくなっています。女性が正規雇用であれば年収は関係ないのですが、非正規の女性は結婚しにくいです。ただし、恋人の有無を考慮に入れるとこの差は縮小しており、非正規の女性は「出会いがない」とも言えそうです(47p図1−1参照)。

 

 本書では、若者の持つ価値観と結婚の関係も分析しています。「仕事生活重視度」、「結婚生活重要度」、「性別役割分業意識」という3つの価値観を分析したところ、「結婚生活重要度」の高い人が「仕事生活重視度」の高い人に比べて結婚しやすいのは当然ですが、「性別役割分業意識」に関しては、これが高いほうが女性は結婚しやすくなりますが、男性ではそうではないという結果が出ています(56p図1−3参照)。

 

 第2章では夫婦の働き方と出生率の関係が分析されています。

 現在では共働きが一般的になり家族の形も大きく変わってきたと思われていますが、詳しく見てみるとそうでもない状況もあります。

 子どもの末子の年齢が0〜6歳の夫婦を見ると、妻が正規雇用の割合は2004年12.4%→2009年18.7%→2019年25.6%と順調に増えていますが、妻の収入割合は04年11.5%→09年14.1%→19年14.5%と足踏みしている感じですし、末子の年齢が7〜12歳だと正規雇用の割合は04年17.6%、09年22.7%→19年18.2%、妻の収入割合は04年14.1%→09年19.9%→19年18.3%と09〜19年にかけてむしろ下がっているのです(71p表2−1参照)。

 確かに女性の就業率は上がっていますが、非正規雇用も多く、育児期においては主に夫が家計を支えているという構造は大きく変化していないとも言えます。

 

 女性の就業率の高さが高い出生率に結びつくという説と、女性の就業率が高まると出生率が低くなるという両立困難仮説があります。

 日本のデータと見てみると、妻が正規雇用または非正規雇用であると妻が無職であるばいいに比べて第一子出生が有意に低く、妻が非正規雇用であると第2子出生が有意に低く、妻が年収300万円以上の正規雇用または非正規雇用であると第3子出生が有意に低くなっています(86p図2−2参照)。

 離職の機会費用が少ない非正規雇用でも第1子と第3子以降の出生率が低くなるために、両立困難仮説が支持されるわけではありませんが、就業率が出生率に結びつくというわけではなさそうです。

 

 また、興味深いのは「性別役割分業意識」の強い妻のほうが第1子をつくる確率は高いものの、第3子をつくる確率は低くなる点です(86p図2−3参照)。これは「子どもは2人」というのがある種のスタンダードとして考えられているからかもしれません。

 夫の家事・育児への協力が鍵だという話もありますが、夫の労働時間に関しては、労働時間が長いほど第1子が出生する確率は上がります(88p図2−4参照)。やはり、家事への協力よりも収入のほうが影響が大きいということでしょうか。

 さらに、子どもを持たない夫婦の中で、「子どもが絶対にほしい」と思う割合が男性女性とも減少傾向にあるのも少子化を考える上では1つの問題です(90p図2−5参照)。

 

 第3章では父親の育児参加がとり上げられていますが、日本では未婚男性の一日の平均労働時間は7.9時間、子どもがいない有配偶者男性は8.8時間、未就学児がいる有配偶者は10.0時間となっています(109p)。

 これは労働時間の短い非正規雇用男性よりも労働時間の長い正規雇用の男性の方が結婚しやすく、さらに先程も触れたように労働時間の長い男性の方が子どもを持ちやすいからです。また、日本企業では男性が子どもを持つ時期と仕事が忙しくなる時期が重なりやすいということもあります。

 

 それでも父親の育児参加は重要ではないかと考えられますが、父親の育児参加が出生率に与える影響というのは微妙なもので、父親が育児をするほど第2子、第3子の追加出生は増えるのですが、では、時間をどんどん増やせばいいかというとそうではなく、夫の育児頻度が最も高い夫婦の第3子出生頻度は夫がほぼ育児をしない場合と変わらないそうです(125p注6参照)。

 家事に関しても、夫の家事時間が10〜30%のときに第1子の生まれる確率が高く、それが10%未満、または40%以上だと低くなるという分析があります(118p)。

 このあたりは、やはり家事・育児よりも外で稼いでくる収入の影響が大きいということなのかもしれません。

 

  第4章では地域ごとの分析を行っています。

 この地域ごとの分析は前著の『少子化論』でも興味深いところだったのでしたが、基本的な傾向として、東京は出生率が極めて低く、地方では東北が低く、九州が高いというのは変わりません。

 出生率に影響している要因として、まずは地域の雇用状況があります、福井県三重県など完全失業率の低い県は出生率が高く、近畿や東北の府県では完全失業率の高さが出生率の低さに結びついています。また、男性30歳未満の非正規雇用率が高い都道府県は出生率が低いですが、これが当てはまるのが、京都、大阪、奈良、神奈川といった所です(132p図4−2参照)。

 

 女性の労働力率が高い都道府県ほど出生率が高いとのデータもありますが、これに対しては出生率が都市部で低く、地方で高いことを言い換えているにすぎないとの批判もあります。

 

 また、本章では各自治体が行っている少子化対策の効果に関しても分析されていますが、特にどの政策に効果があるのかということは明らかになってはいませんが、「結婚・妊娠・出産の支援」「家庭での子育て支援」「保育・幼児教育」に関して総合的に地kらを入れている自治体は、そうでない自治体よりも出生率が高いという結果になっています(148p図4−6参照)。

 企業誘致も出生率の上昇に効果がありますが(149p図4−7参照)、これは企業誘致の中心が製造業であり、製造業が良質な雇用を提供するからだと考えられます。

 

  第5章では国際比較がなされていますが、この国際比較に関してはどこと比較するかで印象は随分と変わってきます。

 欧米主要国と比較すると日本の出生率はフランスやアメリカやスウェーデンと比べて見劣りするものですが(161p図5−1参照)、東アジアの国(韓国、台湾、シンガポール)と比べるとマシな方です(162p図5−2参照)。

 

 この東アジアの少子化については、家族制度がジェンダー平等的ではなく、女性にとって仕事と家庭の両立が難しくなっているからだという説があります。ただし、東アジア内にかぎってみると、ジェンダー平等度が高いシンガポールや香港の出生率の低さが説明しにくくなります。

 どちらかというと、東アジアでは女性の社会進出が進んだものの、労働時間が長く、女性が家庭に責任を持つべきだという社会規範も強いために、両立が難しく、さらに学歴競争が厳しいために学び直しなども難しい「両立困難仮説」のほうが適当かもしれません。

 なお、日本の出生率の「高さ」については「中韓に比べて、日本女性の出産・学歴・就業のパターンが〈多様〉だからである」(163p)との指摘もあります。

 

 また、東アジアは「圧縮された近代」を経験したために、伝統的な家族規範や物質主義的な価値観が残っており、それが同棲や婚外子の少なさをもたらしています。

 それに若年雇用の厳しさや教育費の負担の重さなどが加わっています。特に日本や韓国ではこの教育費の重さが子どもの少なさにつながっています。

 一方、シンガポールでは政府が教育に多額の公的支出を行っているのですが、学歴競争が激しいこともあって、結婚生活などよりも自身のスペック競争に重きを置く「トーナメント競争マインドセット」(186p)を身に着けているため、未婚化・少子化が進んでいるとの指摘があります。

 

 この他、本章ではイギリス、フランス、スウェーデン、韓国、シンガポール少子化対策を紹介しています。シンガポールについては初めて知りましたが、結婚支援や住宅に優先して入居する権利を与えるなどの政策を行っているとのことです。

 

 第6章では日本の少子化対策の振り返りが行われていますが、著者は少子化対策を行ったにもかかわらず日本の出生率があまり回復しなかった原因として、日本の少子化対策は保育園の整備を中心とする両立支援を軸に行われてきたが、第1子出産前後で就業継続をした女性は2009年まではおよそ4人に1人であり、少子化対策と実際のターゲットにミスマッチがあったのではないかと述べています(229p)。

 

 また、著者は、従来にはない架空の政策が導入されたときの状況を回答者に提示するという「ヴィネット調査」も行っていますが、2019年に子どもを1〜2人持つ有配偶者を対象にWebで行った調査では、追加出生意欲を高める政策として、1位は児童手当の増額、ついで幼児教育の無償化や同一労働同一賃金があがっています(234p図6−1参照)。やはり経済的な支援を行う政策が強いようです。

 

 終章では、日本の取るべき少子化対策が打ち出されていますが、提案されているんは「個人・家庭の選択を重視した、〈総域的アプローチ〉」(252p)で、フランスの「自由選択」に近いものが打ち出されています。つまり、専業主婦家庭や妻が非正規雇用の家庭にも十分な支援を行っていくという方向です(フランスの「自由選択」については千田航『フランスにおける雇用と子育ての「自由選択」』が詳しい)

 そのために、若い夫婦への住宅支援、多子世帯への手厚い経済支援、大都市への人口集中の緩和などが打ち出されています。細かいところでは奨学金の一部を多子世帯向けにするなどの政策もあり、かなり細かく総合的な対策が紹介されています。

 

 最初の方にも書いたように、本書は「出生率の向上」という目標を何よりも優先して打ち出しているため、人によっては所々の記述に反発を覚えることもあるのではないかと思いますが、だからこそ見落とされがちな部分を指摘しているとも言えます。

 「男性の意識改革が必要だ」といった意見は確かにその通りなのかもしれませんが、本書を読むと、出生率を上げたければ、そういったお題目よりもまずは経済的な安定なのだろうなということも見えてきます。  

 少子化問題を考える上で読んでおくべき1冊と言えるでしょう。

 

 

Loney Dear / A Lantern And A Bell

 スウェーデンのシンガーソングライターLoney Dearのニューアルバム。

 Loney Dearに関しては、以前は「Loney, Dear」でカンマが入る表記でしたが、いつの間にか入らない表記になっていますね(ただし、自分はLast fmの曲数のカウントを継続させるためにカンマ入の表記に直した)。

 

 出てきたころはブラスバンド+ラテンみたいな感じもあって非常に独特な世界をつくり上げていたLoney Dearですが、段々とラテン的なリズムなどは後退してクラシックっぽくなってきました。今作は特にそうです。

 楽器的にもピアノが前面に出てくるようになっていて、アルバム全体を通して美しい音になっています。

 

 ただし、"Carrying A Stone"や"Everything Turns To You"とかが大好きな身からすると物足りないことも確かで、Loney Dearの良さが半分くらいでているアルバムという感じになりますかね。

 ただ、もちろんLoney Dearの声とメロディには独特の魅力があるので、好きな人は心地よく聴けるアルバムだと思います。

 


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中井遼『欧州の排外主義とナショナリズム』

 イギリスのBrexit、フランスの国民戦線やドイツのAfDなどの右翼政党の台頭など、近年ヨーロッパで右翼政勢力の活動が目立っています。そして、その背景にあるのが移民や難民に対する反発、すなわち排外主義であり、その排外主義を支持しているのがグローバリズムの広がりとともに没落しつつある労働者階級だというのが新聞やテレビなどが報じる「ストーリー」です。

 

 本書はこの「ストーリー」を否定します。

 もちろん、経済的に困窮し排外主義と右翼政党を支持する人びとがいることを否定するものではありませんが、データを見てみれば、排外主義への支持と経済的な困窮は直結するものではありませんし、排外主義と右翼政党支持の関係というのも複雑なのです。

 

 本書は、このことをイギリス、フランス、ドイツといった西欧の主要国だけではなく、中欧や東欧なども含めたヨーロッパ全域のデータを見ていくことで明らかにしていきます。

 右翼政党や排外主義に関しては世論調査では表に出てこない部分もあるのですが(特に高学歴者は排外主義の考えをもっていてもそれを表明するのは不適切だと知っていて隠す)、これをリスト実験という手法で突破しようとするなど、方法にも工夫を凝らすことでヨーロッパの右翼支持と排外主義の実態に迫ろうとしています。

 

 そして、最終的に浮かび上がってくるのは、経済的な問題から排外主義を支持する人々の姿ではなく、文化的(あるいは言い方は悪いが「本能的」な理由)から排外主義を支持する人びとの姿です。 

 

 目次は以下の通り。

序章

第1章 ヨーロッパの排外的ナショナリズムをデータで見る

第2章 誰が排外的な政党を支持するのか

第3章 誰が文化的観点から移民を忌避するのか

第4章 欧州各国の違いを分析する―3パターンの排外的ナショナリズム

第5章 右翼支持者が好む反移民という建物 ―フランス国民戦線支持者のサーベイ実験

第6章 ナショナリストが煽る市民の排外感情 ―ラトビア選挙戦の効果検証

第7章 主流政党による排外主義の取り込み ―ポーランドの右傾化と反EU言説 

第8章 非経済的信念と排外主義

 

 まずは、近年の欧州のトレンドですが、右翼政党(本書では排外主義や自民族中心主義を掲げる保守政党を指す)の支持はリーマンショックあたりを境にして上昇傾向にあります(31p図1.1参照)。

 一方、移民による経済悪化の懸念や文化侵食懸念はほぼ横ばいです(32p図1.2参照)。

 つまり、排外主義は強まっていないが、排外主義を掲げる右翼政党への支持は伸びているという状況です。

 

 ヨーロッパの政治の経済的な右左だけではなく、文化的な面が大きな対立軸として浮上しています。

 一口に右翼政党といっても、イギリスのUKIPやドイツのAfDが経済的に右派志向(市場指向)であるのに対して、ポーランドの法と正義はどちらかといえば左派、再分配志向が強い政党になります。

 ヨーロッパの政治では経済的な争点よりも非経済的な争点が重視されるようになってきている傾向が見られます。

 

 本書では、第2章で欧州社会調査のデータを用いた分析がなされています。

 分析の結果を見ると(66−68p図2.2−2.4参照)、人生の満足度や家計の所得の右翼政党支持に関係はありません。一方、伝統や習慣への追随志向が強い人ほど、右翼政党を支持する確率が高くなります。ただし、命令や権威への服従志向と右翼政党支持にはそれほどはっきりとした関連性はありません。権威主義的性向が右翼政党支持につながわるいうわけでもなさそうです。

 移民が自国経済に悪影響を与えると思っているかどうかも右翼政党支持に影響を与えますが、それ以上に移民が自国の文化を破壊すると思っていると右翼政党支持の確率が高くなります。

 自国の政治への満足度と右翼政党支持に明確な関係性は見られませんが、欧州統合が行き過ぎだと考えるかどうかは右翼政党支持に直結しています。政治不信というよりもEU不信が右翼政党支持と関係しているのです。

 

 回帰分析の結果を詳しく見てみると(72p表2.1参照)、学歴とは比較的明確な関係があり、学歴が高くなるほど右翼政党支持の確率は低くなります。年齢や収入、失業してるかどうかと右翼政党支持の間には明確な関係性はありません。一方で、自国の経済状態が悪いと感じている人は右翼政党支持を支持する確率が高くなります。

 

 第3章では反移民感情がとり上げられていますが、ここでも家計の苦しい人が反移民感情を持つという関係性は薄いです(94p図3.2参照)。一方で、欧州統合への反感や自国民主政治への不満と反移民感情の間に相関が見られます(95p図3.3参照)。

 回帰分析の結果では、ここでも同じように学歴が高いと反移民感情を持つ確率が低くなり、また都市部に居住していてもその確率は低くなります(これは地方農村部では移民と接触する機会が少ない、開放的価値観の人は都会に出ていきやすい、といったことが考えられます)。

 

 ただし、ヨーロッパにおいて移民は単一のイメージで語られているわけではありません。

 EU圏内からの移民(例えば東欧から西欧へ)と中東やアフリカからの移民では、その受け止め方も違ってくるはずです。

 欧州社会調査には、「自分たちと同じ人種/エスニシティ」「自分たちと違う人種/エスニシティ」の移民について受け入れるかどうかを尋ねた設問があり、その答えは国ごとに違っています。

 例えば、ドイツやアイスランドは全移民を受け入れると回答した人が多いのですが、異なる人種は受け入れたくないと答えた人が移民忌避層の過半数を占めます。一方、スペインでは移民を受け入れる割合は欧州平均に近いですが、すべての移民を忌避する層が多く、スペインの移民忌避は人種的なものであるというよりは経済的なものだと想定できます。また、ハンガリーキプロスは移民を忌避する割合が非常に高いです(108p図3.4参照)。

 

 このように同じ移民忌避であっても欧州各国でそれぞれ違いがあるのですが、第4章では、この国ごとの違いを意識しながら排外ナショナリズムを3つのパターンに分析しています。

 

 まずは各国の右翼政党支持の要因を分析しています(118p表4.1参照)。

 これをみるとクロアチアキプロスノルウェーでは低学歴・低所得が右翼政党支持と結びついていますが、チェコ、スペイン、イギリス、リトアニアなどでは高学歴・高所得の人が右翼政党を支持する傾向があります。

 経済的な要因からの移民への反対が右翼政党支持に結びついているのは、オランダとスウェーデンくらいで、「移民によって生活が苦しくなった人が右翼政党を支持する」というわかりやすいストーリーが裏付けられているのはこの2カ国くらいなものです。

 基本的に、文化的な理由からの移民への反対と反欧州統合が右翼政党支持の2つの大きな理由となりますが、東欧諸国を中心にこの2つが上位の理由として入ってきていない国も多いです。

 

 西欧諸国と東欧諸国の違いとして、移民を受け入れる側か、送り出す側か、という違いもありますし、政党システムの違いも大きいです。

 西欧諸国では長年に渡って政党政治が展開されており、(近年それが崩れてきたとはいえ)安定した支持基盤を持っています。一方、東欧諸国は共産党(またはそれに類する政党)の一党独裁から急に多党制に移行したわけで、安定した支持基盤などが構築されていない分、リーダーのカリスマ性や利益誘導によるパトロンクライアント関係が重要です。また、共産主義体制ではそれが抑圧されていた分、ナショナリズムや民族をめぐる争点が重要になっています。

 さらに、西欧では経済的な再分配を求める左派が既存の体制にチャレンジする構図ですが、東欧では経済的自由主義を求める勢力が体制にチャレンジする形になっており、経済的な左派が文化的な保守と結びつくことも珍しくありません。

 

 さらに本章では、各国ごとに右翼政党支持と反移民感情、右翼政党支持と反EU統合、反移民感情と反EU統合の3つの相関関係を調べています(129p図5.1参照)。

 この3つの相関がいずれも強いのはオーストリア、スイス、ドイツ、エストニア、スペイン、フィンランド、フランス、イタリア、オランダ、ノルウェースウェーデンの11カ国で分析対象のおよそ半数です。

 一方、反移民感情と反EU統合のみに相関があるのが、ブルガリアキプロスチェコクロアチアアイスランドラトビアスロバキアといった国々でEU新規加盟の東欧諸国が多いです。

 イギリスやポーランドは、反移民感情と反EU統合に加えて、右翼政党支持と反EU統合に強い相関が見られます。ハンガリーも似たタイプです。

 

 1つ目のタイプの国、例えばフランスには国民戦線、ドイツにはAfDがあり、既存の体制へのチャレンジャーとして反EU統合や反移民を掲げています。

 2つ目のタイプは、右翼政党支持の理由として、反EU統合、反移民以外の理由があるケースです。ラトビアブルガリアなどではそれぞれ固有のナショナリズムの問題を抱えており、それが右翼政党支持の原動力となっています。

 3つ目のタイプは、そこまでラジカルではない右翼政党とより過激な右翼政党の組み合わせになっているケースが多く(イギリスの保守党とUKIP、ポーランドの法と正義と家族同盟、ハンガリーのフィデスとヨッビク)、二大政党制に近い政党構造をとっている国です。これらの国では既存の保守政党が過激な右翼政党の台頭を受けて、排外主義的な言説を取り込む動きが見られます。

 

 第5章以下では、この3つのタイプからそれぞれ一国をとり上げて(フランス、ラトビアポーランド)、さらに個別的な分析を行っています。

 

 まず、右翼支持、反移民感情、反EU統合が三位一体となっている形になっているフランスですが、この手の調査で難しいのは、調査であっても人は世間的には望ましくない意見を隠すことあるというです。

 そこで本書ではリスト実験という手法で隠された本音を暴こうとしています。

 具体的には、いくつかの集団が載ったリストを見せて嫌いな集団の数を答えてもらいます。答えるのはあくまでも数なのでどんな集団を嫌っているのかはわからないのですが、実は回答者はランダムに2つのリストを見せられていて、片方には「移民」というカテゴリーが追加されています。もし、移民に対する忌避がなければ選択される集団の数に変化はないはずですが、移民への忌避があれば「移民」が追加されたグループでは、選択される数がプラス1になるはずです。

 

 著者らはこうしたリスト実験を2018年夏にオンラインで行っています。

 その結果、有権者全体だと実験回答者の約34%が移民を望ましくない集団だと考えていることがわかります。

 そして、次が重要な結果なのですが、国民戦線の支持者に限ると選択された集団の数に統計的な優位な差は見られないのですが、伝統的保守陣営の共和国前進共和党の支持者では優位な差が見られます。つまり、国民戦線の支持者の反移民感情はそれほど強くなく、むしろ中道保守政党の支持者の反移民感情が強いのです(155p図5.2参照)。

 

 しかし、一般的には国民戦線の支持者の間での反移民感情が目立っています。

 これは対面の調査では国民戦線の支持者は「移民は嫌いだ」と答えるのに対して、保守政党の支持者は答えないからだろ考えられます。

 対面調査では低学歴の人ほど反移民的な傾向が強いのですが、本書の調査からはむしろ高学歴の人のほうが反移民的傾向が強いですし、失業者よりもフルタイム勤務で反移民的傾向が強くなっています(15−159p図5.3、5.4参照)。

 これは高学歴者が本音を隠している一方で、経済的に苦しい労働者や失業者は本音を言いやすい環境にある、あるいは、怒りを表現する理由があるからだと考えられます。

 本音を隠している者も「匿名性が保持された投票ブースでは本音を吐き出せるということは考慮しておく必要がある」(164p)のです。

 

 第6章ではラトビアがとり上げられていますが、ここで取り出されているのは、反移民感情→右翼政党支持というロジックではなく、右翼政党の活動が反移民感情を高めるというロジックです。

 選挙になると、政党はさまざまなチャンネルを通じて有権者の政治意識に働きかけようとします。Aという社会問題があったとして、それまでは無関心だったが、選挙の争点の1つとなったために関心を持つということは十分に考えられます。

 

 本章では、移民問題を含むナショナリズム争点が存在し、反移民的な右翼政党が存在するラトビアをとり上げて、このロジックが検証されています。

 ラトビアソ連から独立したバルト三国の1つですが、ソ連によって独立を奪われ、ロシア人をはじめとする移民がやってきたことから、独立後はラトビアナショナリズムが高まりました。

 右派の「ラトビア民族独立運動(LNNK)」やその分派の「祖国と自由のために(TB)」といった右派政党はロシアとロシア語系住民に対してきわめて排外主義的な態度を取りましたが、親EUでもあり、ロシア語系住民に対する差別的措置の是正をEUから求められたときにはこれに従っています。

 ラトビアではその後、ネオナチ的な傾向を持つ議会外の極右組織「すべてはラトビアのために!」とTBが連合して「国民連合(NA)」という政党が生まれています。

 

 この国民連合が勢力拡大のために利用したのが2015年の欧州難民危機でした。

 ラトビアは移民が押し寄せるような国ではなく、どちらかというとロシア語系住民が移民として国外に流出することが問題でした。

 しかし、難民危機でEUが各国に難民の受け入れを求めると、国民連合はこれを「白人に対するジェノサイド」(181p)だと批判し争点化したのです。

 

 ラトビアで総選挙が行われたのは2018年で、すでに難民問題は下火になっていましたが、それでも移民問題は争点の1つとなっていました。そこで著者は現地調査会社に依頼し、選挙の前と後で移民に対する感情がどのように変化したかを調査しています。

 調査の結果によると、選挙前と後で、全体を見れば優位な差は存在しないのですが、無党派層、そして政治に関心が高い層に関しては、移民受け入れを拒否する排外的な態度が強まったのです(189p図6.5参照)。

 これは政治的関心が高いゆえに、右翼政党の主張にきちんと目を通し、そして影響されてしまったと考えられるのです。

 

 第7章ではポーランドがとり上げられています。ポーランドはここ十年余りで顕著な政治の右傾化が進んだ国です。ポーランドでは大政党であった「法と正義(PiS)」の変質とともに移民への忌避も強まったのです。

 ポーランドは「外国人を受け入れることがこの国をよくする」という態度を持つ人の割合が欧州の中でスウェーデンに次いで高い国でした(197p)。これにはポーランドが移民の送り出し国であったという理由もあります。

 ところが、2015年頃から移民や難民の受け入れに反対する態度が急速に強まって高止まりしています(198p図7.1参照)。

 

 この背景には、法と正義がEUに対する懐疑感情を支持調達の手段としてきた中で、移民・難民問題を中心的なテーマとして取り上げるようになったという動きがあります。

 ポーランドでは政党支持に東部と西部で違いがあり、法と正義は農村部の多い東部を支持基盤としてきました。EU加盟を問うレファレンダムにおいても西部や都市部で圧倒的に賛成が多かったのに対して、東部では慎重な意見が目立ちました(206p図7.4参照)。

 もともと、法と正義は旧民主化勢力の連帯系のメンバーのレフ・カチンスキヤロスワフ・カチンスキという双子を中心に結成された政党です。当時は中道右派の穏健な政党でしたが、自党よりも右の政党をターゲットに右寄りの選挙戦略を展開し、2005年の総選挙で33%の議席を獲得して第一党になりました。

 

 その後、法と正義は中道左派市民プラットフォームと競争を繰り広げていくわけですが、法と正義はEUポーランド文化という構図を用いて支持を得ようとします。

 さらに2010年に当時大統領だったレフ・カチンスキが飛行機事故にあって死亡するというスモレンスク事件が起こります。この後の大統領選で市民プラットフォームコモロウスキが大統領になったことなどから、法と正義の支持者の間にはこの事件を市民プラットフォームによる陰謀事件とする見方も広がり(犠牲者には市民プラットフォームの関係者もいる)、法と正義の右傾化を加速させたとも言われます。

 

 さらに市民プラットフォームのトゥスクが欧州理事会議長EU大統領)になったことから、法と正義は「市民プラットフォームEU」という図式をつくって戦うようになります。

 2015年にEU理事会の内相法相理事会で難民を分担して受け入れることが決まり、市民プラットフォームからなるポーランド政府は反対をしたものの、最終的には人数を減らして受け入れます。

 これを法と正義は攻撃します。EU(トゥスク)と市民プラットフォームが共謀してポーランド文化を破壊しようとしていると主張したのです。それとともにポーランドの反移民感情も高まっていきます。

 実は欧州理事会EU理事会は別物で、トゥスクは難民を分担して受け入れることに慎重だったのですが、法と正義のつくった図式のわかりやすさが勝ちました。

 2015年10月の総選挙で法と正義は議席率51.1%で勝利します。ポーランドでは根強い反EUの感情と反移民感情が法と正義によって結び付けられることで、排外主義が広がることとなったのです。

 

 第8章では、これまでの議論をまとめながら、排外主義の要因についてやや踏み込んだ議論をしています。

 排外主義が、人類の進化の中で獲得してきた身内の集団を優先する本能のようなものから生まれているかどうかはわかりませんが、最後に著者が次のように述べている部分はその通りなのでしょう。

 

 ヨーロッパの人々の排外的ナショナリズム(右翼政党支持や反移民感情)は、経済的弱者の怒りの爆発などではなく、文化的紐帯をめぐる態度であり、富や学のある者たちもその担い手となっている。排外主義は、民主主義という意見形成と競争の体系において、社会の周辺的な存在が一時的に罹患する流行病のようなものではなく、むしろその担い手の中に普遍的に存在する生まれつきの傷のようなものだ。その傷の原因が本当に何なのかきちんと認識しておくことは、その傷とともに生きていくために重要である。(256−257p)

 

 本書は、「経済危機が排外主義をもたらしそれが極右の台頭を招いている」というわかりやすい「ストーリー」にチャレンジした本ですが、同時に西欧の主要国をもって「ヨーロッパ」を分析するというよくあるやり手法にもチャレンジし、さらにリスト実験という新しい手法を使ったチャレンジも行われています。

 文書も日本の一般読者を想定した書き方になっており、多くの人にとって刺激を得られる本になっていると思います。

 

 

 

ケン・リュウ『宇宙の春』

 1976年に中国に生まれ、11歳の時の渡米して、それ以来アメリカで生活しながら、数々の傑作SFを世に送り出し、また、劉慈欣の『三体』を英訳し、中華SFが広く世にしられるきっかけをつくったケン・リュウの日本オリジナル短編集。

 今回の本も本当にいろいろな魅力が詰まった本なのですが、特にAIなどがつくり出す新たな世界の改変を描いた作品と、東アジアの歴史をSF的な虚構の力ですくいとってみせる作品が見事ですね。後者の「歴史を終わらせた男――ドキュメンタリー」は特に傑出した作品だと思います。

 

 収録作品は以下の通り。

宇宙の春
マクスウェルの悪魔
ブックセイヴァ
思いと祈り
切り取り
充実した時間
灰色の兎、深紅の牝馬、漆黒の豹
メッセージ
古生代で老後を過ごしましょう
歴史を終わらせた男――ドキュメンタリー

 

 まずはAIが改変していく世界を描いた作品から紹介します。

 

「ブックセイヴァ」

 ある小説を読んでいて、物語は面白いけど描かれている女性が古臭くて興ざめしてしまう、物語を素直に楽しめなくなってしまうなんてことは、女性には結構多いのかもしれませんし、男性でもそう感じることがあるかもしれません。

 一方、いわゆる「ポリコレ」的なものに配慮するあまりに陳腐なパターンに陥ってしまう場合もあるでしょう(個人的にはスター・ウォーズの新シリーズ(EP7~9)にそれを感じました)。

 この問題を解決してくれるのが、本作品で登場する「ブックセイヴァ」です。このプラグインを使うと、ウェブ小説の「不適切」な部分をAIが自動的に書き換えてくれます。古臭い女性像や、作者の思わずにじみ出てしまう人種的偏見などに付き合う必要はないのです。

 もちろん、作者はお路地なリティが毀損されると反発するわけですが、この「ブックセイヴァ」こそが不快な思いをしない最適解なのかもしれません。

 そんな「ブックセイヴァ」をめぐる顛末をさまざまな立場の人の意見をコラージュ的に示すことで描き出しています。

 

「思いと祈り」

 銃乱射事件に巻き込まれて命を落とした娘。母親は銃規制を求める団体の応じて、娘のさまざまな映像などを提供し、彼女の人生を追体験できるようなVRを作り出します。これによって人びとの心を動かそうとするのです。

 しかし、この映像は悪意のある人々によって改変され、ネット上に溢れ出します。そして、かけがえのない娘は「素材」なり、ネットで互いを攻撃するための燃料になっていくのです。

 

 つづていては、東アジアの歴史をSF的な虚構の力ですくいとってみせる作品。

 

マクスウェルの悪魔

 第2次世界大戦中、強制収容所に入れられていた日系人のタカコ・ヤマシロが密命を帯びて日本に捕虜の交換という形で送り込まれます。タカコは日本で秋葉という陸軍士官にして物理学者でもある男と行動をともにすることになります。秋葉とタカコはタカコの祖母が生まれた沖縄に移って研究を行いますが、それはマクスウェルの考えを応用した永久機関の研究でした。

 SFとファンタジー的な要素を融合させたアイディアに、沖縄戦と移民にとっての「故郷(ホーム)」の問題を重ね合わせた重層的な内容になっています。

 

「歴史を終わらせた男――ドキュメンタリー」

 遠い星の光は今から何年も前に放たれた光です。本作品では、そうした原理を利用して(もちろん本作品ではもっときちんとしたSF的な説明がしてあります)、過去の光景を見ることができる装置が開発された未来が舞台になっています。

 その装置をつくったは桐野明美という日本人女性で、そのパートナーは日本史を専攻するエヴァン・ウェイという中国系アメリカ人は、その装置を使って歴史の闇を明らかにすることを決意します。

 その歴史の闇とは日本の731部隊によって行われた人体実験です。

 

 中国生まれの作家が書く731部隊の話ということで身構える人もいるかもしれませんが、本作品では、さまざまな立場の人を登場させ、ドキュメンタリー的な体裁をとることで、歴史問題の難しさに多角的に迫っています。

 例えば、この作品の距離感は登場人物の一人の次の発言からもうかがえます。

 

 そして、そう、狭い海をあいだにはさんで、中国と日本は、第二次世界大戦の残虐行為にはからずも同じタイプの反応を集中させてしまったんです ー 『平和』や『社会主義』といった普遍的な理想に名を借りて忘れ去り、大戦の記憶を愛国心にまとめあげ、犠牲者も加害者もおしなべて国家に奉仕する象徴として抽象化してしまったのです。こういう観点から見ると、中国の抽象的かつ不完全で断片的な記憶と、日本の沈黙は、同じコインの表裏なのです。(274p) 

 

 もちろん、これは登場人物の一人の意見であり、著者の声というわけではありませんが、本作品では、歴史を実際に目撃して語るという行為の是非、歴史が誰のものかという問題、当事者(とその遺族)の特権性の有無、謝罪の解像度など、さまざまな問題が語られています。

 

 ケン・リュウは現在、アメリカに住んでいますが、ここには中国や日本に住み続けている限りなかなか得られない距離感があります。

 このあたりは、同じくアメリカに住みながら『ねじまき鳥クロニクル』でノモンハン事件満州の問題を描こうとした村上春樹を思い出しました。村上春樹も日本と中国の双方に距離を取ろうとしている作家に思えますが(個人的には村上春樹が中国での戦争に従軍したという父親についての小説を書かないかと期待している)、ケン・リュウもまたそうした作家の一人だということを改めて感じました。

 この距離感は清の時代の揚州大虐殺について描いた「草を結びて環を銜えん」と「訴訟師と猿の王」でも感じましたが(いずれも『母の記憶に』所収)、さらにシビアなネタでもそれは活かされています。

 

 「アジア」あるいは「東アジア」に一体性のようなものはあるのか? というのは大きな問になりますが、このケン・リュウは(あるいは台湾の呉明益あたりも)、「東アジア文学」の旗手と言えるのかもしれません。

 最後に、ここで紹介した4作品以外もそれぞれ面白いです。

 

上林陽治『非正規公務員のリアル』

 ある制度が良いのか悪いのかというのはなかなか難しく、簡単には判断を下せないケースが多いのです。例えば、選挙制度小選挙区制がいいのか比例代表制がいいのか、日本型の雇用制度が良いのか悪いのか、といったことは一概には判断を下せないと思っています。

 そんな中でも、個人的に明確に「悪い制度だ」と考えているのが、外国人の技能実習制度と、本書のテーマである非正規公務員の問題を含む地方公務員の人事をめぐる制度で、特に後者は新卒に重い価値を日本の就職市場のあり方や、男女の格差の問題の解決にもつながっていく非常に重要な問題だと思っています。

 

 本書は、そんな非正規公務員の問題を扱った本であり、2012年に出版された同じ著者による『非正規公務員』の問題意識を受け継ぐ本です(未読ですが2015年に『非正規公務員の現在』という本が出版されている)。

 非正規公務員の低待遇と不安定な身分を告発するとともに、この問題を改善するために2020年4月から導入された会計年度任用職員制度がまったく改善の役に立ってない、場合によっては状況を悪化させているということを訴えています。

 やや難しい部分もありますが、矛盾にまみれた地方公務員のあり方が痛いほどわかる内容です。

 

 目次は以下の通り。

 

第一部 非正規公務員のリアル
第1章 ハローワークで求職するハローワーク職員――笑えないブラックジョークに支配される現場
第2章 基幹化する非正規図書館員
第3章 就学援助を受けて教壇に立つ臨時教員――教室を覆う格差と貧困
第4章 死んでからも非正規という災害補償上の差別
第5章 エッセンシャルワーカーとしての非正規公務員――コロナ禍がさらす「市民を見殺しにする国家」の実像

第二部 自治体相談支援業務と非正規公務員
第6章 自治体相談支援業務と専門職の非正規公務員
第7章 非正規化する児童虐待相談対応――ジェネラリスト型人事の弊害
第8章 生活保護行政の非正規化がもたらすリスク
第9章 相談支援業務の専門職性に関するアナザーストーリー

第三部 欺瞞の地公法自治法改正、失望と落胆の会計年度任用職員制度
第10章 進展する官製ワーキングプア――とまらない非正規化、拡大する格差
第11章 隠蔽された絶望的格差――総務省「地方公務員の臨時・非常勤職員及び任期付職員の任用等の在り方に関する研究会」報告
第12章 欺瞞の地方公務員法地方自治法改正
第13章 不安定雇用者による公共サービス提供の適法化
第14章 失望と落胆の会計年度任用職員制度

第四部 女性非正規公務員が置かれた状況
第15章 女性活躍推進法と女性非正規公務員が置かれた状況
第16章 女性を正規公務員で雇わない国家の末路

 

 この非正規公務員の問題が一番わかりやすく現れているのは、第2章でとり上げられている図書館員ではないかと思います。

 1987年度、図書館員の82%は専任職員でしたが、2018年度には26%にまで低下しています(37p)。さらに現在では指定管理者制度という民間企業に運営を任せるスタイルも増えていますが、ここでも中心になっているのは非正規労働者です。

 

  しかも、少数の専任職員が高度で専門的な職務を担い、非正規労働者が簡単で周辺的な業務を行っているというわけではなく、司書資格の有無で見ても、2018年のデータで専任職員で48%、非常勤職員で49%、指定管理者職員58%と(41p)、非正規のほうが図書館業務に必要な資格を持っている状況も生まれています。

 さらに次のような事情さえあるといいます。

 

 一定の数少ない専門職・資格職を除き、日本の公務員の人事制度において、正規公務員とは職務無限定のジェネラリストで、職業人生の中で何回も異動を繰り返し、さまざまな職務をこなすことを前提とされている。ところがどの組織にも、さまざまな事情で異動に耐えられない職員、最低限の職務を「当たり前」にこなせない職員が一定割合おり、しかも堅牢な身分保障の公務員人事制度では安易な取り扱いは慎まねばならず、したがってこのような職員の「待避所」を常備しておく必要がある。多くの自治体では、図書館はこれらの職員の「待避所」に位置づけられ、そして「待避所」に入った職員は、そこから異動しない。(36p)

 

 本章の冒頭では、正規職員を減らして非正規を増やしたら図書館の業務が上手く回るようになったケースが紹介されていますが、まさに今や図書館では非正規こそが基幹職員となっているのです。

 しかし、基本的に資格を持ち基幹化した非正規の職員にそれに応じた給与が払われることはありません。各地の図書館は非正規職員の「やりがい」に頼って運営されている状況なのです。

 

 この待遇の差は、例えば教員の世界でも顕著で、本書の第3章でとり上げられている九州地方の女性の臨時教員は、教歴10年以上でクラス担任を受け持ち、職員会議にも出席し、家庭訪問なども行うなど、仕事は正規の教員と同じですが、手取り19万強、年収で約250万円ほどしかもらっていません。これが正規の教員であれば、本給は約40万円には達しているでしょう。

 この背景には地方自治体による人件費抑制の政策があるのですが、近年では臨時教員や非常勤講師のなり手が足りずに、年度が始まっても担任が決まらないようなケースも出てきています。

 

 この非正規公務員の増加の1つの背景となっているのが、2000年以降、自治体に相談窓口の設置を求める法令が次々につくられていることです。

 例えば、「DV防止法」や「改正児童福祉法」、「障害者自立支援法」、「生活困窮者自立支援法」など、さまざまな法律が自治体に相談窓口を設置することを求めています。そして、上記の法律を見ればわかるように、いずれの法律も国民の命や生活を守るための非常に重要な法律なのです(「改正児童福祉法」は児童虐待を扱っている)。

 

 では、その相談業務を誰が担っているかというと、ここでもやはり非正規公務員になります。

 例えば、婦人相談員は、「対人援助を担う専門職」とされていますが、任期1年の非正規職が大半で、2017年4月時点で常勤20%に対して非常勤80%です(107p図表6−2参照)。

 本書では筑後市の人事担当係長の話が紹介されていますが、「相談業務は専門領域に関わる事項が多く、このため当該業務に携わる者は、長期の臨床経験と専門性ならびにそれを裏打ちするための資格職としての性格が備わる」としながら、だからこそ「異動を前提とする人事制度とは相容れないものとなり、畢竟、異動することのない非正規職とならざるをえず」(109−111p)という論理を展開しています。

 専門的な知識や資格が必要だからこそ待遇が低いという倒錯的な状況が出現しているのです(ただし、筑後市では汎用性の高い社会福祉士に関しては正規での採用を行ったとのこと)。

 

 児童虐待などを扱う児童相談窓口でも、業務経験の長い者ほど任期1年以内の非正規公務員という状況が生まれています。

 児童相談所に配置される児童福祉司は、国家資格ではなく児童福祉法であげられている条件を満たした正規公務員の中から配置される任用資格なのですが、そのためになり手不足に直面しています。

 児童相談所の業務は増えており、人員も増加しているのですが、児童相談所生活保護担当と並んで職員が異動したがらない職場であり、ある市では若手職員に3年で異動させると約束して職員を確保させているといいます(128p)。当然ながら、経験年数の浅い職員が増加することとなります。

 

 現在では、ある相談から住民の抱えるさまざまな問題が明らかになることも珍しくはありません。例えば、税金や社会保険料滞納の裏には多重債務などの問題があるかもしれませんし、精神的な疾患などの問題があるかもしれません。

 しかし、相談業務が非正規公務員によって担われるようになれば、ある相談を他の担当につなぐことは難しいでしょう。

 

 生活保護行政においても相談業務の中心は非正規公務員によって担われています。2016年の段階で57%が非正規です(144p図表8−2)。

 この背景には、生活保護のニーズの増加にケースワーカーの増員が追いつかないこと、生活保護の審査・決定や保護の停止・廃止につながる訪問審査は公権力の行使につながるために正規が担わざるを得ないという仕組みがあります。

 結果として、公権力の行使にはあたらないとされる相談業務を非正規に任せることで業務を回しているのです。しかし、これは同時に相談者からさまざまな状況を聞き出し、そのニーズもわかっている人物が支援メニューの決定にアクセスできないということでもあります。

 

 このようにさまざまな矛盾をはらんでいる非正規公務員の問題ですが、さらに労災が認定されないと言った問題があります。公務員は労災法適用の例外となっており、代わりに地方公務員には地方公務員災害補償法が適用されるのですが、これは1年以内で雇い止めされる非正規公務員には適用されず、制度の落とし穴となっています(実際の制度はさらに複雑なのですが、詳しくは本書の第4昌をご覧ください)。

 

 この公務員における正規と非正規の格差を是正するために、非正規公務員の採用根拠を明確にし、期末手当を支払えるようにする地方公務員法地方自治法の改正が2017年に成立しました。そして、2020年4月からは新たに会計年度任用職員制度がスタートしています。

 2016年の時点で、長崎県佐々町の66.0%を筆頭に非正規率が50%を超える市町村は珍しくありません(182p図表10−2参照)。非正規公務員の処遇の安定はまさに喫緊の課題と言えます。

 

 実際、司法の場でも、任期1年の雇用でも長年勤務していれば雇用継続の期待権が生まれると判断した2007年の中野区非常勤保育士再任拒否事件の交際判決、週勤務時間が常勤職員の約半分の非常勤職員であっても常勤職員と同じ仕事をしていれば一時金等の支給は違法ではないとした2008年の東村山市事件など、非正規公務員の権利を認めるような判決も出ています。

 

 こうした動きを受けて、2017年1月に出された地方公務員法改正原案では、非正規公務員の処遇に関して踏み込んだ表現がなされていましたが、3月に閣議決定された地方公務員法改正法案では、勤務時間の短い職員については待遇を常勤に合わせなくても良いということになり、勤務時間の長短を要件として、今までのような低待遇が可能となりました。

 結局は非正規公務員にも期末手当を支給するということ以外、非正規公務員の待遇を大きく改善するような改正はなされなかったのです。

 非正規公務員に関しては、パート・有期雇用労働法が非適用であるため、地方自治体には正規との不合理な待遇の差を解消する義務はなく、民間よりも遅れた状況が放置されています。

 

 今回の改正で「会計年度任用職員」という仕組みが導入されています。これは今までまちまちだった非正規公務員の呼び名を統一し、フルタイム型とパートタイム型に分けたものになります。

 任用期間は最長1年で、守秘義務や職務専念義務が課される一方で、条件付き期間を除き身分保障があり、不合理な理由で免職や懲戒処分を受けないというものになっています。

 

 しかし、フルタイムとパートタイムで待遇の差をつけていいことになっており、パートになれば支給すべき手当は期末手当に限定され、労働災害保険や地方公務員災害補償基金への負担金も不要になるため、各地で進んだのは今までフルタイムだった非正規公務員をパートタイムにする動きです。

 2016年の総務省調査では非正規公務員のフルタイム勤務者の割合は31.5%でしたが、会計年度任用職員制度が導入された2020年4月の調査ではフルタイム勤務者の割合は19.9%にまで減少しています(236p図表14−1参照)。

 さらに期末手当を支給するために月給を下げる事例も多発しており、「ボーナスが出ると言っても月収から引かれている分が戻ってくるだけ」(242p)との声もあります。

 実は、国は期末手当のための財源を地方交付税として配分しており、期末手当を出す一方で給与を抑制することは法改正の趣旨に合わないとの通知を出しているのですが、自治体はその予算を他に流用しているのです。

 

 加えて、制度導入に合わせて在職者も一般求職者と同じように公募試験を受けさせられ、その成績が悪いとして雇い止めになるケースも報告されています。

 公務員には労働契約法が適用されないため長年雇われても無期転換申入権は発生しないのですが、裁判では先述の中野区非常勤保育士再任拒否事件のように雇用継続の期待権が発生するとの判断が示されています。そこで、そうならないように公募試験を実施し、長年勤務してきた非正規公務員を雇い止めする事例が起きているのです。

 残念ながら、今回の法改正によって非正規公務員の待遇を改善されたとは言えない状況です。

 

 最後の第15章と第16章では、この非正規公務員の問題が女性の問題に接続されています。

 2016年の時点で、市町村では43万人ほどの非正規公務員が働いており、そのうち34万7627人が女性です。正規公務員は90万人ほどであり、非正規と合わせた数は133万人ほど。ということは、市町村で働く人の26%ほどが非正規の女性ということになります(263p図表15−1参照)。

 

 そのため、正規と非正規の待遇の格差は男女の待遇の格差にもつながっています。

 例えば、一般事務職は正規では男性が多いくらいなのですが(264p図表15−2では技術職と一緒に計上されているために詳しい内訳はわからず)、非正規でみると女性が80.4%を占めます。そして、一般事務で働くフルタイムの非正規公務員の年収の平均が173万6460円なのに対して、正規公務員は640万8481円と4倍弱になっています(266p)。もちろん年齢構成や仕事の違いもあるとは思いますが、それにしても大きな格差です。

 これ以外でも非正規の給与は正規に対して、図書館員で28.9%、義務教育の教員・講師で45.7%、保育士で37.8%、給食調理員で31.8%などとなっています(267p図表15−3参照)。

 

  この結果、正規だけを見れば民間よりも男女の給与差が少ない地方公務員ですが、非正規を含めて考えれば必ずしもそうは言えない状況となっています。

 さらに育児休業に関しても、地方公務員法ではそれを条例で定める形式になっているため、条例の不備から非常勤職員が育休を請求できないという状況もあります。

 

 格差を縮小させ、女性の活躍を後押しすることは公的部門に率先して求められることだと思いますが、現在は、最も身近な公的部門である地方自治体において、ある意味で格差を広げ、女性を安く使い捨てるようなことが行われています。

 スウェーデンは男女平等が進んだ国として知られていますが、G・エスピン‐アンデルセン『福祉資本主義の三つの世界』の中で指摘しているように、女性の雇用は公共セクターによって支えられており、「実際、スウェーデンの雇用構造は二つの経済部門に分かれて発展しているといえる。一つは男性に偏った民間セクターであり、もう一つは女性が支配的な公共セクターである」(228p)という状況です(ちょっと古い本なので近年では少し変化してきたかもしれませんが)。

 そして、同じく、エスピン‐アンデルセン『アンデルセン、福祉を語る』の中で、「公的部門で働く女性の合計特殊出生率は高い。筆者がヨーロッパの世帯を調査した統計データを分析した結果、安定的な雇用契約で就労する女性が子どもを出産する可能性は、期限つき雇用契約で就労する女性の二倍であることがわかった。一般的に、公的部門での職は最も安定性が高く、さらにこうした職の雇用条件は緩い。だからこそ福祉国家に雇用されている女性たちの合計特殊出生率は著しく高い」(18-19p)と指摘しています。

 ここから読み取れるのは、非正規公務員という制度が、日本の男女平等を阻害し、出生率を低下させている可能性です。

 

 この問題の処方箋としては、前田健太『市民を雇わない国家』(この本は本書でもたびたび言及されている)を紹介したときにも触れたジョブ型公務員の導入しかないのではないかと思います。

 図書館員、児童福祉司など、それなりに専門性の高い分野に関しては、その職種限定で募集をし、基本的に異動をさせない。その代わりに現在のジェネラリスト型公務員よりも給与水準を抑えるというのが1つの答えなのではないでしょうか。

 ただし、人事制度というのは思い切った政治力がないと動かせないものだと思うので、自治体任せではなく、国からの法改正やモデルの提示といったことが必要になるでしょう。

 

 冒頭でも述べたように、この非正規公務員の問題は日本の抱える問題の中でも最重要のものの1つだと個人的に思っているので、本書を読んでこの問題に注目し、その問題点に気づいてくれる人が増えてくれることを願っています。

 

 

 

 以下、このエントリーの中で言及した本の紹介記事のリンクも載せておきます。

 

morningrain.hatenablog.com

 

morningrain.hatenablog.com

 

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アン・ケース/アンガス・ディートン『絶望死のアメリカ』

 『大脱出』の著者でもあり、2015年にノーベル経済学賞を受賞したアンガス・ディートンとその妻で医療経済学を専攻するアン・ケースが、アメリカの大卒未満の中年白人男性を襲う「絶望死」の現状を告発し、その問題の原因を探った本。

 この絶望しに関しては、アビジット・V・バナジーエステル・デュフロ『絶望を希望に変える経済学』でもとり上げられていますし、大卒未満の中年白人男性の苦境に関しては、例えば、ジャスティン・ゲスト『新たなマイノリティの誕生』でもとり上げられています。学歴によるアメリカ社会の分断に関しては、ピーター・テミン『なぜ中間層は没落したのか』も警鐘を鳴らしています。

 

 そうした中で、本書の特徴は、絶望死についてより詳細に分析しつつ、対処すべき問題としてアメリカの医療制度の問題を指摘している点です。

 例えば、ピーター・テミンはアメリカ社会の分断に対する処方箋として、公教育の充実、大量投獄から社会福祉へ、インフラの整備、低賃金部門の債務の減免といった手段を幅広くあげていますが、その分、何から手を付けていいのか分かりづらいところもあります。

 それに対して、本書ではピンポイントにアメリカの医療制度を告発している点にインパクトがあり、また、こうした問題をなんとかしたいと考える人びとに指針を与えるものとなっています。

 

 目次は以下の通り。

第I部 序章としての過去
 第1章 嵐の前の静けさ
 第2章 バラバラになる
 第3章 絶望死
第II部 戦場を解剖する
 第4章 高学歴者(と低学歴者)の生と死
 第5章 黒人と白人の死
 第6章 生者の健康
 第7章 悲惨で謎めいた痛み
 第8章 自殺、薬物、アルコール
 第9章 オピオイド
第III部 経済はどう関係してくるのか?
 第10章 迷い道──貧困、所得、大不況
 第11章 職場で広がる距離
 第12章 家庭に広がる格差
第IV部 なぜ資本主義はこれほど多くを見捨てているのか?
 第13章 命をむしばむアメリカ医療
 第14章 資本主義、移民、ロボット、中国
 第15章 企業、消費者、労働者
 第16章 どうすればいいのか?

 

 20世紀は健康状態が大きく改善し、平均寿命も大きく伸びた時代でしたが(これは『大脱出』のテーマ)、21世紀に入ってアメリカの非ヒスパニック白人の中年(45〜54歳)の死亡率の下げ止まりが見られます。他の国は順調に下がっているのにもかかわらずです(33p図2−1参照)。

 依然として、非ヒスパニック白人よりも黒人の死亡率が高いのですが、その差は縮まりつつあります。

 地域的には、カリフォリニアを除く西部、アパラチア、そして南部で白人死亡率が高くなっています(37p図2−2参照)。

 

 この原因となっているのが、本書が「絶望死」と名付けている現象です。

 この絶望師をもたらしているのは、事故または意図不明の中毒(そのほぼすべてが薬物の過剰摂取)、自殺、アルコール性肝疾患と肝硬変になります。さらに他国では低下している心臓病による死ぬリスクが低下しなくなっています(46p図3−1参照)。

 

 では、どんな白人の健康状態が悪化しているのか?

 これは明確な傾向があって、中年の死亡率が上昇しているのは学士号未満、つまり大卒ではない人びとです。一方で学士号以上の人びとの間では死亡率の上昇は見られません(53p図4−1参照)。

 米国において格差が拡大しているという話はよく聞きますが、健康状態にまであからさまに格差ができているというのはやはり驚きです。しかも、この差は1990年にはたいしたものではなかったのに、21世紀になってから急速に拡大しているのです。

 

 もはやアメリカは健康状態から見ても2つの世界に分断されています。

 2019年の意識調査によれば、大学が国に良い影響を与えていると考えるアメリカの成人は半数しかいなかった。共和党 ―以前にもまして低学歴者の政党となっている党だ― の支持者の59%が、むしろマイナスの影響を与えていると答えている。(58p) 

 このように、大学というものが人びとにチャンスを与えるものというよりは、格差を作り出すものとして認識されているのです。

 

 この中年の死亡率の差は女性にも当てはまります。男性ほどではないものの、学士号以上の女性と学士号なしの女性の中年における死亡率の差は拡大しています(1990年にはほぼないと言ってもよかったのに(61p図4−2参照)。

 62pのコーホート(出生年ごとの集団)別のグラフをみると、学士号なしでは1950年生まれの世代あたりからグラフが立ち上がってくるように死亡率が上がっていることがわかります。50年生まれ<60年生まれ<70年生まれ<80年生まれという形で死亡率はきれいに上昇しているのです。

 

 では、白人以外はどうなのか?

 黒人の死亡率は常に白人を上回ってきましが、近年、その差は縮まりつつあります(68p図5−1参照)。しかし、やはり黒人においても2013年頃から大卒未満の死亡率が上昇しています(69p図5−2参照)。この背景にはフェンタニルと呼ばれる合成麻薬の広がりがあります。ただし、自殺率に関しては白人と違って上昇は見られません。

 20世紀後半に都市部の黒人コミュニティで起こったことは、21世紀になって白人に起こったことの前兆だったといいます。1970年代に都市部の製造業が衰退すると、黒人の失業率は上昇し、家庭を支えられる男性が減ったことによって、シングルマザーが増加しました。そして、80年代になるとクラックやコカインが流行したのです。

 当時は父親のいない黒人の家庭環境や勤勉さの喪失が問題だとされましたが、それが間違っていたことは現在の白人の絶望死の増加が証明しています。

 

 近年、アメリカでは多くの人びとが「痛み」を訴えるようになっています。

 この痛みの中心は関節炎などなのですが、アメリカでは中年期の痛みが急激に増え、高齢者よりも中年が痛みを訴える状態になっています(88p)。

 ギャラップ社の調査では、調査の前日に人びとに物理的な痛みを感じたかどうかを尋ねる項目がありますが、これを地図に落とし込むと痛みの訴えが目立つのは、カリフォルニアのベイエリアを除く西海岸、アパラチア、南部、メイン州ミシガン州の北部といった所で(91p図7−1参照)、失業率やトランプに投票した人之割合と相関しています。

 そして、この痛みに関しても、学士号以上ではコーホートによる差がありませんが、学士号未満ではより若くして痛みを訴えるようになっています(94p図7−3参照)。

 この痛みの原因の1つとして肥満があげられますが(足などに負担がかかる)、痛みの増加の1/4ほどを説明すると言われています。

 

 2017年、アメリカでは15万8000人が本書の言う絶望死で亡くなっています。

 まず、自殺ですが、1990年代後半から増え始め、アメリカの自殺率では他の富裕国の中でも一番高い部類となっています。そして、地域別にみると自殺率の高さと痛みの訴えの多さは相関しているといいます。

 1945年生まれのコーホートを見てみると学歴による自殺率の差はほとんど見られませんが、1970年生まれになると学士号未満の自殺率が学士号以上を大きく上回っています(108p図8−1参照)。かつて、学歴の高さは自殺のリスク因子でしたが、現在の白人にはまったくあてはまらなくなっているのです。

 

 アルコール依存に関してもこの傾向はあります。飲酒率は高学歴者のほうが高いのですが、深酒をするのは低学歴者です(113p図8−2参照)。ロシアではソ連崩壊前後にアルコール消費量が伸び、平均余命が低下しましたが、アメリカでも同じようなことが起きているのかもしれません。

 

 そして、痛みを抑えるためのものでありながら、死亡率を押し上げる原因となっていると考えられるのがオピオイドと呼ばれる鎮痛剤です。

 オピオイドモルヒネと似た効果がある合成物、および半合成物ですが、麻薬と同じように中毒症状があり、日常生活を崩壊させる恐れがあります。2016年には1万7087人が処方箋のオピオイドによって死んでいるといいます(120p)。

 2015年にはすべてのアメリカの成人の1/3以上にあたる9800万人がオピオイドの処方されているといいます。しかし、過剰摂取で死んでいるのはやはり学士号未満の者が中心で被害者の2/3が高卒以上の教育を受けていません(121p)。

 

 1996年、12時間かけてゆっくりと放出されるというオキシコンチンという鎮静剤の登場以来、オピオイドの処方が急速に増えました。使用者の多くが再び痛みに悩まされるようになり、さらなら処方を求め、医師もそれに応えたからです。

 2011年頃には軽率な処方が問題視されるようになり、医師も処方を制限しましたが、代わりにヘロインやフェンタニルによる死が広がりました。フェンタニルに関してはアフリカ系アメリカ人の中年の死亡率を押し上げています。

 

 本書ではこのオピオイドの流行を「エピデミック」という病気の流行を表す言葉で表現しています。

 製薬会社が製造・販売し、議員たちは意図的な過剰処方をアメリカ麻薬取締局(DEA)が取り締まれないようにし、DEAは原料となるケシの輸入をそのままにし、食品医薬品局はこうした薬物を承認し、その後に麻薬の密売人がやってきました。こうしてエピデミックは広がったのです。

 例えば、ジョンソン・エンド・ジョンソンタスマニアオピオイドの原料となるケシの栽培を行い、巨額の利益をあげました。

 

 このように書いていくと、不平等や格差がこのエピデミックの原因だと考えたくなりますが、例えば、ニューハンプシャーとユタは所得の不平等がもっとも少ない州ですが、もっとも不平等なニューヨークやカリフォルニアよりも絶望死は多いです。

 また、貧困が原因だとも考えられますが、貧困が主因だとするとアフリカ系アメリカ人が少なくとも2013年まではエピデミックから免れていたことが説明できません。

 リーマンショックの影響も考えられますが、緊縮財政によって福祉などが削減された欧州に比べると、アメリカでは厳しい緊縮財政はとられませんでした。

 

 このエピデミックをもたらしているのはもう少し長期的な影響だと考えられます。

 戦後、1970年代頃までは人びとはエスカレーターに乗っているようなもので、多くの人びとが自然に豊かになっていきました。しかし、70年代以降、学歴が高い人の乗ったエスカレーターは動き続けた一方で、学歴の低い人が乗ったエスカレーターは止まってしまったのです。1979年から2018年までの間、生産性は70%伸びましたが、時間給12%の伸びにとどまっています(165p)。

 非ヒスパニック白人男性の平均所得をコーホート別に見ると、学士号以上を持つ人の所得は1940年生まれ<55年生まれ<70年生まれと順調に伸びていますが、学士号未満では40年生まれ>55年生まれ>70年生まれと逆に低下しています(168p図11−1参照)。しかもその差は年齢を重ねるごとに広がっていきます。

 1979〜2017年の大卒未満の白人男性の平均賃金の伸びは年間マイナス0.2%となっており(169p)、完全に経済発展から取り残されているのです。

 

 しかも、学士号未満の白人の間では賃金だけでなく仕事をしている者の割合も低下しています(174p図11−2参照)。アメリカでは製造業を中心に多くの仕事が失われてしまい、代わりとなる仕事は不安定な臨時雇いのサービス業などが中心でした。これらの仕事はロボットが来るまでのつなぎにすぎないかもしれません。

 Amazonの倉庫などに代表されるように多くの仕事は委託であり、もはや企業との一体感はありません。経済学者のニコラス・ブルームの言葉を借りれば「もう休日のパーティに招かれることもない」(180p)のです。 

 

 こうした雇用状況は家庭にも影響を与えます。学士号未満の結婚している非ヒスパニック白人の割合は現象を続けており(184p図12−1参照)、同時に同棲と未婚の子育てやシングルマザーが増えています。

 以前はアフリカ系アメリカ人に多く見られた、未婚で子育てする割合は大卒資格を持たない白人女性において、1990〜2017年の間に出産総数の20%から40%超へと増えています。

 労働組合の組織率も下がっていますし、毎週教会に通っている割合も大卒未満で落ち込みが目立ちます(194p図12−3参照)。

 低学歴の白人は所得の面で差をつけられているだけでなく、コミュニティそのものから疎外されている状況なのです。 

 

 では、なぜこのような状況に陥ってしまったのでしょう? また、この状況を改善するにはどこから手を付けたらしいのでしょう?

 公教育の充実、累進性を高めた税制、社会保障制度の整備、あるいはロビイストの規制など、いくつか対策が思いつきますが、本書が一番問題視しているのがアメリカの医療制度です。

 アメリカの医療制度は「経済の全身に転移したがんのようなもので、アメリカ人が必要としているものを届ける能力を奪っている」(204p)というのです。

 

 アメリカの医療システムはGDPの18%を吸収しており、2017年の額は国民1人当たり1万739ドルで教育費の約3倍です(208p)。オピオイドの処方などの個別の問題だけではなく、医療が労働者の所得を食いつぶしていることが大きな問題なのです。

 アメリカの医療費は世界一高額ですが、アメリカ人の健康状態は富裕国の中では最低です。つまり、アメリカ人は他の国の人びとよりも余計な出費を強いられていると言えます。

 まず、あげられるのが薬剤や機材の高さで他の国よりも3倍程度高くなっています。医師の給与も高いですが、これは医師団体や連邦議会の要請によって医師の数が低く抑えられ、外国人医師の開業も難しくしているからです(215p)。

 もちろん薬には開発費もかかりますが、アメリカでは多くの金額が費やされながら健康を増進しない薬が流通しています。イギリスでは費用対効果が検証されていますが、アメリカではそのような仕組みがありません。

 病院は合併によって競争を排除して価格を吊り上げており、地域独占病院は競争の激しい地域よりも12%高い料金をとっています(218p)。その一方、2017年、アメリカの病院は広告費に4億5000万ドルを投じたといいます(219p)。

 

 結果、所得の中で医療費以外に使える割合は1960年の95%から現在は82%に減っています(221p)。これが他のものを買う能力を奪い、貯蓄する余裕を奪っています。

 この医療費の高騰は健康保険にも影響を与えています。アメリカでは一律の医療保険がなく、雇用者が保険を提供する方式となっていますが、医療費が増加して健康保険の拠出金が増えれば、企業は雇う人を減らしたり、一部の職種に健康保険をつけなくなります。場合によっては部門ごと外部委託するかもしれません。

 健康保険の家族契約のコストは高給取りにはささいなものですが、平均賃金の半分しか稼げない低賃金労働者では、コストの60%となります(224p)。

 さらに医療費の高騰は、連邦政府と州政府の予算も食いつぶしています。メディケイドが州歳出に占める割合は2008年の20.5%から2018年には推定29.7%まで増えています(225p)。

 医療において、患者は医療提供者と同等の情報を持つことはほぼ不可能で、医療の過剰提供を断ることはほぼできません。だからこそ政府の規制が必要なわけですが、アメリカでは医療業界のロビイストが大きな力を持っており、必要な政府の規制をブロックし続けているのです。

 

 本書では、この医療以外にもいくつかの問題を検討しています。

 まずは移民の問題ですが、確かに短期的には賃金を低下させる圧力になり得るかもしれませんが、長期的にそういった明らかな影響は確認されていないといいます。労働者が増えることが賃金の低下につながるのであれば、女性の社会進出も賃金低下の要因になるはずですが、こちらもはっきりとした影響は確認されていません。

 グローバル化に関しては、確かに中国からの輸入による「チャイナ・ショック」を受けた地域では失業者が増え、死亡率も高まったという研究があります。また、グローバル化によって消滅した仕事と増えた仕事がありますが、成功している都市の生活費の高騰が労働者の移動を難しくしています。

 ただし、中国からの輸入が増えてもドイツやフランスで絶望師が増えているわけではありません。ここにはやはりアメリカのセーフティネットの貧弱さがあります。

 

 さらに近年のアメリカでの独占の進行は、労働市場における買い手独占を生み出しています。先程触れた人びとの移動が難しくなっている問題も、この買い手独占を助長していると考えられます。

 

 最後にいくつかの処方箋があげられています。医療制度の改革、トラストへの対策、最低賃金の引き上げ、ロビイングに関する情報公開、教育改革などです。ただし、あくまでも簡単なスケッチというかたちです。

 ちなみにユニバーサル・ベーシックインカムについては慎重な見方を示しています。

 

 このように本書は読みどころの多い本ですが、最後にディートンが『大脱出』につづき、RCTに対して疑問を呈している一節を紹介しておきます。本書によれば、オピオイドが認可されてしまったのもRCTのやり方、そしてそれに信頼を置きすぎることに問題があったからで(137p)、ディートンはかなり強いRCT懐疑論者と言えそうです。

 

 最後に「なぜ」について私たちがどう考えているかを一言。私たちは原因について、どちらかというと歴史家や社会学者の精神で考えている。経済学者の中には、因果関係を示すには比較実験が必要である、あるいは最低限、そもそも区別できない人たちをグループに分けて、違う形で、特定の出来事にさらす歴史的状況が必要だという考えに賛同するものがいる。こうした手法に利点はあるが、私たちの役にはほとんど立たない。ゆっくり変化する大規模崩壊に、さまざまな偶発力が歴史的にかかわり、その力がお互いに影響しあっているからだ。一部の鼻っ柱の強い社会科学者は、このような状況で学んだことはすべて幻想だと主張する。私たちは、この意見には根本的に反対だ。(270p)

 

 

 

 さらにこのエントリーであげた本の紹介記事のリンクを載せておきます。

 

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『ノマドランド』

 一時期、日本でも「ノマドワーカー」というオフィスなどではなくカフェなどで移動しながら仕事をするスタイルが局所的に持ち上げられましたが(安藤美冬さんとか何をしているんだろう?)、この映画に出てくる「ノマド」は全く違うものです。

 この映画に出てくる「ノマド」はアメリカでキャンピングカーなどの車中で暮らす人々のことであり、その多くは老人でありながら、季節労働者のように各地で仕事をしながら暮らしています。

 

 映画は、フランシス・マクドーマンド演じる主人公のファーンがネバダにある企業城下町での事業所の閉鎖によって住む所を失う場面から始まります。

 車に簡単な家財道具を詰め込んだファーンは、そういった車が夜を過ごせる場所に車を止めてAmazonで働きだします。

 ここまでは現代アメリカ社会の格差や分断を告発する映画のように思えるのですが、この映画はそういった形には展開しません。もちろん、主人公の職場、Amazon、公園の清掃、レストラン、じゃがいも(?)の収穫作業などは低賃金労働であり、登場人物が年金の少なさを嘆くシーンもあります。

 いわゆる「虐げられた人びと」を描いた映画と言えるのかもしれません。

 

 ただし、主人公のファーンもそうなのですが、この映画で描かれるノマドの人びとは自ら望んで移動を続けています。もちろん、何かの問題があって車上生活に入ったのかもしれませんが、そこにある種の「自由」を感じているのも確かなのです。

 
 そして、何と言っても本作の特徴はフランシス・マクドーマンド以外は1人を除いて実際のノマドが自身の役を演じているということです。エンドロールで気が付きましたけど、これがこの映画の雰囲気を大きく決定していたのでしょう。

 客観的には惨めな境遇かもしれないけれども、けっしてみじめな雰囲気ではないですし、だからといって前向きというわけでもありません。彼らにはそれぞれ車中で暮らす理由があり、その厳しさも受け入れているからです。

 

 そんなノマドととの交流とともに本作ではアメリカのダイナミックな自然が描かれます。アメリカのロードムービーというと、「どこまでも広がるトウモロコシ畑を行く」みたいなシーンが思い浮かびますが、この映画が映し出すのはもっと荒々しい自然です。

 そういった部分も含めてアメリカの基底のようなものを描いた映画と言えるかもしれません。

 

 でも、この映画の監督は中国生まれのクロエ・ジャオなんですよね。さらにネットで調べてまだ30代(1982年生まれ)と知ってびっくりしました。

 深い余韻を残すいい映画だったと思います。