松沢裕作『日本近代社会史』

 副題は「社会集団と市場から読み解く 1868-1914」。

 タイトルにあるように「近代」の「社会史」なのですが、副題にあるように「社会集団」(身分集団)と「市場」の関わりを軸にして、明治から第1次世界大戦が始まるまでの社会の変容を描いています。

 著者の以前の著作、『町村合併から生まれた日本近代』(講談社選書メチエ)、松沢裕作『自由民権運動』(岩波新書)、『生きづらい明治社会』(岩波ジュニア新書)などを読んだ人はわかるかと思いますが、著者は以前から身分制の解体局面に注目する形で日本の近代を捉えてきましたが、本書ではそれを広いスパンで、さらに「市場」という身分制に取って代わったものに焦点を合わせる形で論じています。

 

 本書は著者が大学で行っている「社会史」の講義をもとにしたもので(コロナ禍のオンライン授業の原稿がもとになっているという)、テキストブックということになりますが、高校の日本史の教科書で「貨幣経済が浸透した」、「階層が分化した」、「社会関係が流動化した」などと書かれている部分において実際のところどんな変化が起きたのかが分かる内容になっています。

 

 目次は以下の通り。

序 章 社会史とは何か? 日本の近代とは何か?
第1章 近世社会の基本構造──領主・村・町
第2章 近世社会の解体(1)──廃藩置県と戸籍法
第3章 近世社会の解体(2)──地租改正と地方制度の制定
第4章 文明開化・民権運動・民衆運動──移行期社会の摩擦
第5章 景気循環と近代工業──資本主義の時代の到来
第6章 小農経営と農村社会──農家とその社会集団
第7章 女工と繊維産業──「家」から工場へ
第8章 商工業者と同業組合──家業としての商工業とその集団
第9章 職工と都市雑業層──「家」なき働き手と擬制的な「家」
第10章 都市の姿──有産者の結合と都市計画
第11章 教育と立身出世──「家」の世界からの離脱
第12章 メディアの変化──流通する情報
第13章 政治の役割──地方利益誘導と救貧政策
第14章 労働組合と初期社会主義──個人の問題から社会の問題へ
第15章 日露戦後の社会──地方改良運動と都市民衆騒擾
終 章 日本近代社会の構造と展望

 

 本書はまず近世社会の説明から入ります。 

 近世社会においては将軍や大名といった領主が存在し、領主が村を支配していました。ここでポイントになるのが領主は個人ではなく村を把握していたことで、年貢も村請制という形で村単位で徴収していました。村は共同体であり、支配のためのまとまりであり、入会地などの共有財産を管理する存在でした。

 外様大名の領地に関しては領域的に連続していることが多いですが、譜代大名や旗本領、幕府領は複雑に入り組んでいました。本書の27pに信濃の所領分布が載っていますが、これを見てもその複雑さがわかります。

 

 都市では「町」がその単位となっていましたが、当初は刀の鞘を作る職人が集まる「南鞘町」のように、職業別に集住しており、それぞれ「役」が割り当てられていました。

 これは『自由民権運動』でも指摘されていましたが、著者は人々が身分という「袋」に入れられ、その「袋」が積み重なったものとして江戸時代の社会を捉えています。

 

 しかし、この身分制は明治になって解体されます。ただし、これは理想に基づき計画的に進められたものではありませんでした。

 明治政府は治安対策のために戸籍の作成しようとします。当初は身分別の戸籍を想定していましたが、その複雑さに断念され、属地主義の戸籍が出来上がりました。新しい戸籍が身分制の解体を進めたことになります。

 

 武士身分については版籍奉還廃藩置県によって解体されていきますが、これも計画的なものではありませんでした。

 版籍奉還は朝敵とされた姫路酒井藩の藩主が生き残りのために願い出たことから動き出し、廃藩置県熊本藩知事・細川護久が建白し、主導権を取ろうとしたのに対して、薩長が乗っかったことから行われています。

 このあたりについて著者は「複雑な社会を正確に把握できず、また、諸藩を含めて社会から信用されていない新政府は、生き残りのために、一か八かの飛躍を行うほかに選択肢がなかったのである」(49p)と述べています。

 

 戸籍法と廃藩置県が、都市の住民と武士の身分性を解体したのに対して、百姓(村)の身分制を解体したのが地租改正です。

 地租改正は土地の所有者に地価を記入した地券を発行し、それをもとに徴税するというものでした。当初は自己申告を中心に地価を決定する方式が模索されますが(ここで神田孝平が出したアイディアはエリック・A・ポズナー/E・グレン・ワイル『ラディカル・マーケット』で紹介されているアーノルド・ハンバーガーの考えとほぼ同じなのは面白い)、結局は収穫量から地価を決める方式に落ち着きました。

 

 地租改正のポイントは村請制を廃止し、税金の納入を個人の責任としたことでした。

 村請制の時代、村の誰かが年貢を納められないとなれば他の村人、または名主などの村のリーダーが穴埋めをしました。

 近世の村は明治になってからも残り、名主は「戸長」となって村をまとめていくことになるわけですが、戸長には村の年貢を取りまとめて納入する責任はありません。

 ただし、人々の習慣はそう簡単に変わるわけではなく、明治になっても年貢が払えないといった相談が村人から戸長に持ち込まれます。そして、今までの人間関係から戸長はこれを断りにくいわけです。

 

 こうした問題を解消するために、いくつかの村をまとめた「明治の大合併」が行われます。いくつかの村が合併し新しい村(行政村)が誕生しました。

 こうした「村」という百姓をまとめていた「袋」は大きく変わっていくことになります。百姓たちは直接、政府機関や市場と向き合うようになるのです。

 なお、この町村合併の過程で被差別部落の問題も浮上しています(63−64p)。

 

 身分性が解体する中で、人々は「結社」をつくってつながりをつくろうとしました。そして、この「結社」を基盤に自由民権運動が起こっていきます。

 自由民権運動というと反政府運動としても捉えがちですが、例えば嚶鳴社は司法省の管理の沼間守一を中心に結成されており、官吏や在野の知識人の間に欧米流の近代社会を目指すという共通の考えがあったこともうかがえます。

 

 一方、民衆の間にまでその考えが共有されているとは言えませんでした。1881年からいわゆる松方デフレが始まりますが、この中で借金を返せなくなった農民たちは、各地で借金の帳消しを求める負債農民騒擾を起こします。

 農民たちの要求には借金の帳消しや繰延、質に入れた土地の買い戻しなどが含まれていましたが、これは江戸時代には一定程度認められていた考えでした。これが「板垣公」や「自由党」による救済願望と結びついたのが秩父事件です。

 

 松方デフレは不況をもたらしますが、この中から日本鉄道と大阪紡績という2つの大企業が生まれ、それが呼び水になって80年代後半になると株式会社の設立が相次ぎます。

 しかし、このブームは資金需要の増大→金利上昇という流れの中で破綻し、恐慌が起こります。こうした恐慌は日清戦争後、日露戦争後にも起こっています。

 こうした中で、一般の民衆も景気変動の影響を受けるようになり、人々の生活と市場が結びつくようになっていくのです。

 

 農村では松方デフレによって多くの農民が土地を失います。日本では大農経営が定着しなかったこともあり、土地を失った農民の多くは地主のもとで小作農となりました。

 近世においては村請制が行われていたために、まずは年貢が徴収され、そのあとに地主の取り分が決まるという形が多かったのですが、地租改正後にはそれがなくなり、小作料などは地主と小作人の個人の関係の中で決まっていくことになります。

 

 こうした中で地主が互いに小作料の減免や免除を勝手に行わずに横並びで対処しようという動きも起こってきます。例えば、小作人が小作料を払えなかったときは当該地主の土地だけでなく、他の地主もその小作地をとり上げるといったことが取り決められました。

 「村」という集団がなくなったことによって人々の関係性は不安定化しますが、地主はそれを独占的な団体をつくることで安定化させようとしたのです。

 

 村の解体は他にもさまざまな影響を及ぼしています。例えば、かつての村である大字では、山林盗伐・濫伐や農作物の窃盗や草の無断刈り取りを禁止する「改良規約」を結ぶところがありました。これはかつての村の掟を引き継ぐもので、村の解体で流動化した秩序を取り戻そうとするものです。

 しかし、同じ頃、国有地である原野を勝手に開墾する動きも起こっています。こうした土地はかつては入会地などとして「村」が管理していたわけですが、明治になるとそこで「抜け駆け」して利益をあげようという者も現れるのです。

 近世の村の秩序は「改良規約」に見られる相互監視で維持されようとしましたが、それは「抜け駆け可能」な秩序でもあったのです。

 

 また、「家」に目を向けると、この時期の農家では現金収入のための副業が行われており、その副業の中心的な労働力として戸主の妻がいました(113p表6−2参照)。家事や育児は主に戸主の母や娘によって担われており、家が一種の企業であったことが見えてきます。

 

 家を一種の企業と見た場合、女工の置かれた状況というのもわかりやすくなります。

 本書で紹介されている諏訪地方の製糸工場で働いていた24歳の女性・ゆうのケースだと、まず、契約はゆうの父である戸主と工場主の間で結ばれており、女工が家の意思に従って働いていたことがわかります。

 

 諏訪の製糸業では、当初近隣の知り合いなどから女工を集めていましたが、事業が拡大すると遠く離れた地域からも募集するようになります。

 このときに起こったのが女工の奪い合いです。ある工場で働くことにあっている女工を途中で勧誘したり、騙して別の工場に連れていくということも行われたそうです。

 そこで諏訪の製糸業者は製糸同盟をつくり、そのもとで女工登録制度をつくります。前年にある工場で働いた女工を別の工場は雇ってはいけないというふうにしたのです。

 ところが、この権利に基づいて引き渡しを求めても、女工本人が拒否するケースもありました。本人というよりも女工の家の意思で行われたケースも多く、より有利な条件の工場へ娘を移籍させようとしたのです。この時期、女工を働かせるためのキーは「家」にありました。

 

 一方、紡績業の女工はより待遇が低く、いずれは家に戻って結婚することが想定されていた製糸業の女工に比べ、「家」から切り離されて過酷な労働に従事させられました。

 ただし、紡績業でも女工の引き抜きはあり、暴力的な手段が使われたり、自社の女工を他者に送り込んで引き抜くということも行われたようです。

 紡績業の女工は家から切り離されている分、自由ではありましたが、家の保護を受けられない存在でもありました。

 

 明治になっても江戸時代以来の中小の商工業者は残りました。これを経済史では「在来産業」といいます。

 岐阜県東部の陶磁器業では多くの小規模な窯屋が存在しており、そこに近隣の農民の次男などが弟子入りし、分家していくというスタイルが取られていました。

 綿織物でも、織元が綿糸を仕入れて製造者に原料を渡して織らせる賃織というものが行われており、農家の副業となっていました。これは農閑期に行われるために、安い労賃で織らせることが可能でした。

 

 こうした産業では問屋が活躍しましたが、江戸時代のように株仲間を結成して営業を独占することはできなくなっていました。

 そこで彼らは同業組合を結成します。政府も品質確保のためにこれを認めましたが、中には職工の引き抜き禁止や賃金協定、被雇用者に贅沢をさせないなどの取り決めを結んでいるケースもありました。

 ただし、こうした決まりは組合内の紳士協定(内容は全然紳士ではないですが)のようなもので、「抜け駆け」が可能でした。江戸時代のようなお上のお墨付きのあるものではなかったのです。

 

 重工業では、江戸時代に職人だった者が現場で働くケースも多かったですが、そのために工場内に親分−子分の関係が持ち込まれました。「親方」職工が作業グループの長(職長)として作業を指揮・監督したのです。

 この親方職工には賃金の分配権を握る者とそうでない者がいましたが、特に前者の親方の権限は絶大で、中間搾取や賄賂もつきものだったといいます。

 また、夫婦で工場で働くケースも多く、炭鉱でも男性が石炭の採掘、女性が石炭の搬出を行う形で夫婦が働いていました。

 

 職工はいずれは独立して小工場を経営し「家」を構えることを夢見ていましたが、貧民窟にはそういった「家」を構える展望もない人々が集まっていました。貧民窟では必ずしも血縁や姻戚関係にない者が同居しており、男女で住んでいても正式な結婚をしているケースは稀だったといいます。

 こうした人々の間でも親分−子分的な関係があり、北海道の土木労働者の間では一番下の序列から上がる時に親分・子分の杯を交わす習慣がありました。こうして擬似的な「家」がつくられたのです。

 

 都市でも「町」が解体され、大阪や京都では小学校の学区を中心としたまとまりができていきますが、東京では有力者を中心に区が形成されていくことになります。

 東京では道路の拡幅などを中心とした市区改正事業が行われましたが、この過程の中で地借の権限は弱められ、地主が優位に立つことになります。

 

 公教育のシステムも近代になって導入されたものです。一般的に小学校就学率は1902年に90%、09年に98%を超えたとされていますが、この数字はこれだけの児童がきちんと小学校に通って卒業したことを示すものではありませんでした、学齢簿からは一年以上居所不明の児童が除かれていましたし、09年頃でも女子の3割以上、男子の2割弱が卒業していませんでした(185p図11−3参照)。

  

 勉強による「立身出世」も目指されましたが、1900年以降、高等学校への進学は狭き門になり(188p図11−4参照)、進学できない独身男性の間では独学がブームになりました。また、働きながら進学を目指す苦学生も増えましたが、彼らは肉体労働などをするしかなく搾取されることも多かったといいます。

 

 第12章では新聞や雑誌がとり上げられていますが、雑誌への投書・投稿から読者同士の交流も広がっており、これも進学熱や立身出世熱を煽った1つの要因でした。

 

 こうした中で、政治は自由民権運動から初期議会のころの「軍拡の政府」VS「民力休養の民党」といった構図が日清戦争前後から崩れ始め、民党が増税を認める代わりに道路や鉄道の建設などの地方への利益誘導を求めるようになっていきます。

 こうした利益誘導は、場合によっては地域からの反発も受けましたが、府県レベルで決定し、さらに市場へのアクセスの向上によって経済が発展するといった理屈で

その反発が乗り越えられていくことになります。

 

 政治には困窮者をどうするかといった問題も持ち込まれましたが、恤救規則が対象をあくまでも「家」の保護を受けられない者に限定していましたし、恤救規則より対象を広げた窮民救助法案が1890年の最初の帝国議会で否決されたことからもわかるように、政治は困窮者には冷淡でした。

 

 政治が冷淡な中で、社会問題の解決を目指したのが初期社会主義者でした。唯物論キリスト教社会主義、非社会主義キリスト教徒と、彼らの立場はさまざまでしたが、彼らの間には緩やかな連帯もありました。ただし、この連帯は日露戦争をきっかけとして崩れていくことになります。

 

 労働運動ではアメリカ帰りの高野房太郎らが労働組合の結成に動きますが、先程述べたように疑似家族的な親分−子分関係が残り、「家」の形成が目的だった職工たちが「労働者」としてまとめるのは困難でした。

 日露戦争前後になると、職場に新たな技術が導入され親方の権限が後退します。こうした中で労働現場とは関係のない上級職長の権限が拡大し、それが現場からの反発を呼びました。1907年には争議が頻発しました、その背景にはこうした問題がありました。

 ただし、ここでの争議の内容はあくまでも特定の職場内での対立であり、「労働者VS資本家」という大きな構図は形成されにくいままでした。

 

 一方、政府が日露戦争後に行ったのが地方改良運動です。この運動内容は多岐にわたっていますが、本書では近世の村が持っていた林野で林業を営み、町村財政の不足を補う部落有林野の統一事業、「一町村一社」を目標に神社を合併していく神社合祀、納税を集団で取りまとめさせる納税組合の組織化が紹介されています。

 これは近世の村の機能を一部で復活させようとする動きにも見えますが、狙い通りにはうまくいかなかったようです。

 

 都市部では日比谷焼き討ち事件に見られるように暴動事件が増えます。これはナショナリズムの高まりといった要因もありましたが、それ以上に暴動の主体となった都市の下層の若者たちが「家」を形成するのぞみを失って、その不満を爆発させたということにあります。

 こうした閉塞感の中で、個人の自律を重視する修養主義が注目されますが、これは「家」から切り離された個人の「人格」の向上を目指すもので、学歴エリートから労働者までを包摂できる考えだったと言えます。

 

 そして、第一次世界大戦のころになると、男性の稼ぎ手と専業主婦からなる「家庭」が出現するようになり、今までの「家」中心の社会とは少し違った様相を見せ始めるのです。

 

 著者は明治から第一次世界大戦までの日本社会の特徴を次のようにまとめています。

 抜け駆けを防止できないという意味では、近代日本の社会集団は弱い力しかもたないが、一方で、常に抜け駆け可能であるがゆえに、常に相互を監視し合うという性格をもつことになる。日本近代社会では、近世に比べて、諸経営・諸個人の自発的な行動、自己利益の追求、新規事業への挑戦の余地は広まった。このことが、同時に、社会集団も、規律維持のために、内部の監視に頼らざるをえないという結果を生んだのである。(253−254p)

 

 本書を読むと、基本的には江戸時代にもあったはずの家父長制が、明治になるとより重苦しい感じになってくる理由なども理解できると思います。身分があって、村があって、家がある近世社会から、家しかない近代社会になったことで、家の重要性は高まり、同時に抑圧的になったのです。

 

 家(あるいは個人)が市場に直接さらされるようになる困難については、著者は『生きづらい明治』(岩波ジュニア新書)でも描いていますが、『生きづらい明治』が思想的な面からそれを説明しているのに対して、本書は社会構造や制度の面からそれを説明しています。

 どちらに説得力を感じるかは人それぞれだと思いますが、個人的には本書の説明がより興味深く思えました。

 

 

 

 

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『ベイビー・ブローカー』

 是枝裕和監督が、韓国を舞台に韓国人俳優のキャスト、スタッフで作った映画。ソン・ガンホペ・ドゥナなどの大物キャストを揃えて、日本人俳優は一切作っていませんが、それでも非常に是枝監督らしい作品に仕上がっています。

 日本にもある「赤ちゃんポスト」がモチーフになっていますが、そこから是枝監督お得意の疑似家族ものにもっていきます。

 映画.comに載っているあらすじは以下の通り。

 

 古びたクリーニング店を営みながらも借金に追われるサンヒョンと、赤ちゃんポストのある施設で働く児童養護施設出身のドンスには、「ベイビー・ブローカー」という裏稼業があった。ある土砂降りの雨の晩、2人は若い女ソヨンが赤ちゃんポストに預けた赤ん坊をこっそりと連れ去る。しかし、翌日思い直して戻ってきたソヨンが、赤ん坊が居ないことに気づいて警察に通報しようとしたため、2人は仕方なく赤ちゃんを連れ出したことを白状する。「赤ちゃんを育ててくれる家族を見つけようとしていた」という言い訳にあきれるソヨンだが、成り行きから彼らと共に養父母探しの旅に出ることに。一方、サンヒョンとドンスを検挙するため尾行を続けていた刑事のスジンとイは、決定的な証拠をつかもうと彼らの後を追うが……

 

 このあらすじを見ればわかるように、映画の始まりはけっこう強引です。赤ちゃんを売り飛ばそうとする男二人と、赤ちゃんを捨てようとした母親が一緒に行動するというのはそんなにリアリティがあるとは思えない設定です。

 

 ところが、最初の客との交渉がうまく行かずにドンスの養護施設に立ち寄り、そこの養護施設にいたヘジンという男の子がついてきてしまったところから、この一行のムードは変わり始めます。

 そのきっかけになる、洗車場でヘジンが思わず窓を開けてしまうシーンがあるのですが、ここが非常に上手いですね。たった1つの出来事で擬似家族的なムードが一気に成立します。

 そして、映画は疑似家族のロードムービーになっていくわけです。

 

 その他にも高速鉄道の中でトンネルを出たり入ったりするシーンや、観覧車の中でドンスがソヨンの目を隠すシーンとかも上手い。役者の存在感もあるんだろうけど、この映画は印象的なシーンが多いですね。円熟味を増した是枝監督の技が冴えていると思います。

 

 役者はドンスを演じたカン・ドンウォン、ソヨンを演じたイ・ジウンが良かったと思います。

 もちろん、ソン・ガンホペ・ドゥナも上手いのですが、是枝監督がやや2人の演技に任せすぎている感もあって、特にソン・ガンホ演じるサンヒョンの設定に関しては、もう少し劇中で丁寧に説明しても良かったと思います。

 

 映画では「子どもを捨てるということはどういうことなのか?」「子どもの幸せを願うということはどういうことなのか?」という問題が取り上げられており、この問題というものは普遍的なものだと思うのですが、同時に韓国ならでは考えというものもあるのかな?とも思いました。

 劇中でサンヒョンは子どもが外国に養子に出されることを問題視しているのですが、韓国は少し前まで海外へ養子をたくさん送り出していた国でした。そのあたりも映画の中だとやや見えにくいですね。

 

 ただし、先程も述べたように非良いシーンが数多くある映画ですし、役者も良いです。また、いかにも是枝作品らしいテーマでありながらおなじみのキャストではないところに新鮮さもあります。

 

カン・ファギル『大丈夫な人』

 白水社の<エクス・リブリス>シリーズから出た1986年生まれの韓国の女性作家の短編集。

 以前、キム・グミの短編集『あまりにも真昼の恋愛』を読んだときに、いくつかの短編は「ホラーだ!」って思ったのですが、このカン・ファギル『大丈夫な人』はほぼ完全にホラーですね。

 ただ、ホラーと言っても血しぶきが飛ぶようなホラーではありません。ここで描かれているのはじわじわと精神的に追い詰められていく怖さです。

 

 冒頭に置かれた「湖―別の人」と、表題作でもある「大丈夫な人」に出てくるのは成功していて表面的には優しい男です。

 「湖―別の人」では、主人公の亡くなった友人の恋人として、「大丈夫な人」では主人公の婚約者として登場するわけですが、二人ともそのソフトさの裏に暴力への衝動が垣間見えます。そして、こうした男と二人っきりでいる女性の恐怖というものが描かれるわけです。

 女性の日常は、何らかの突発的な出来事で「ホラー」になってしまうかもしれないという感覚がここにはあります。

 

 「虫たち」では、男は出てきませんが、ここではルームシェアをすることになった3人の女性の関係が不穏になっていくさまが描かれています。そして部屋に大量発生する白い虫。ゾワゾワする話です。

 この大量の白い虫については「雪だるま」でも出てきます。

  

 「グル・マリクが記憶していることは」は、韓国に働きに来ていたインド人のグル・マリクが残した遺品を受け取りに元恋人同士の2人がソウルの街をさまようという話。

 カースト制度があって努力が報われないインドの社会と現在の韓国社会を重ね合わせるような内容になっています。

 

 「手」は、夫が仕事で海外赴任に行ってしまったために、地方にある夫の実家に身を寄せて小さな娘を育てしながら教師をしている「私」が主人公。村にいるヨンジャ婆をめぐる奇妙なうわさ、7人しかいない児童の中で起こっているいじめ。さまざまなものが「私」を次第に追い詰めていきます。

 日本にもある土俗的な匂いが漂う「ホラー」と言えるでしょう。

 

 ハン・ガンとかパク・ソルメのような凄みは感じませんでしたが、どれも良くできた短編でしたし、現実のすぐ側にある上手く描いています。

 

 

 

 

 

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『PLAN 75』

 75歳以上が自ら生死を選択できる制度(PLAN 75)が国会で可決された近未来の日本という設定は、正直なところセンセーショナルだけど平凡ですし、冒頭で相模原の障害者殺傷事件の植松被告を思わせる人物が登場するのも平凡です。

 

 ですから、見始めたときは「いまいちか?」とも思ったのですが、見終わってみるとなかなか良い映画でした。

 PLAN 75という制度自体には現実味がないと思うのですが、この制度が導入されたら日本ではこんなふうに運営されるのではないかというところにこの映画のリアリティがあります。

 

 本作は、78歳でホテルの清掃の仕事をしているミチ(倍賞千恵子)、市役所でPLAN 75の案内をしているヒロム(磯村勇斗)、ヒロムのおじでPLAN 75に応募してくる幸夫(たかお鷹)、コールセンターでPLAN 75に応募していた老人のサポートの仕事をしている瑶子(河合優実)、高齢者施設で働いていて後にPLAN 75の施設で働くことになるマリア(ステファニー・アリアン)といったところが主要な登場人物になるのですが、ヒロムと瑶子の仕事ぶりの描き方が上手いです。

 

 実際は老人に対して生死の選択を迫っているにもかかわらず保険の販売のようにソフトな語り口で説明を続けるヒロム、機械的にケアの仕事をしながらもミチと直接会ったことでそのスタンスが大きく揺らいでしまう瑶子。いずれも実際に制度が導入されたらこんな感じになりそうでリアリティがあります。

 また、フィリピン人のマリアという人物を入れているのもいいと思います。すでに高齢者施設には多くの外国人が入っていますが、看取りの施設のようなものができたとしたら、やはりそこには外国人労働者の姿があるでしょう。

 

 そして倍賞千恵子もやはり上手い。それなりに充実した生活を送っているつもりだったものの、仕事を失ったことをきっかけにして追い詰められていく様子を説得力を持って見せています。そして、劇中でも言われていますが声がいいですね。

 

 ラストはちょっといろんなものを動かし過ぎな気もしましたが、凡庸なテーマを上手く見せることに成功している映画です。

 

The Smile / A Light for Attracting Attention

 Radioheadトム・ヨークジョニー・グリーンウッド、そして Sons Of Kemetのトム・スキナーからなるバンド・The Smileのデビューアルバム。

 ここ最近のRadiohead のアルバムに比べるとやや明るい感じで、ポップよりな印象も受けますが、プロデューサーがいつものナイジェル・ゴッドリッチということもあって、聴き終わってみるといつもの世界という印象ですかね。

 

 ただし、3曲目の"You Will Never Work In Television Again"あたりは、トム・スキナーのドラムもあって、ここ最近のRadiohead にはないアッパーな感じで切迫感がありますし(このドラムの切迫感というのは10曲目の"A Hairdryer"でも出ている)、この切迫感は7曲目の"Thin Thing"ではギターで生み出されています。

 やはり、単純な再生産ではない感じです。

 また、全体的にジャズっぽさが漂うのもこのアルバムの特徴です。5曲目の"The Smoke"なんかも、今までのRadioheadにありそうでなかった曲という気がします。

 一方で12曲目の"We Don't Know What Tomorrow Brings"は今までのRadioheadっぽい曲で、Radioheadファンには安定の良さなのではないかと思います。

 

 全体のトーンとしては今までのRadioheadっぽくはあるんですけど、それぞれの曲には新しさも感じさせる1枚ですね。

 


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北村亘編『現代官僚制の解剖』

 2019年に出版された青木栄一編著『文部科学省の解剖』は、過去に村松岐夫が中心となって行った官僚サーベイ村松サーベイ)を参考に、文部科学省の官僚に対して行ったサーベイによって文部科学省の官僚の実態を明らかにしようとしたものでした。

 本書は、それを受ける形で文部科学省以外の省庁(財務省経済産業省国土交通省厚生労働省文部科学省)にも対象を広げて行われたサーヴェイ・2019年調査(本書はヴェイ表記)をもとにして分析を行っています。

 執筆者では、北村亘、青木栄一、曽我謙悟、伊藤正次といったところが『文部科学省の解剖』とかぶっています。

 

 現代において完了に対してサーヴェイを行う難しさというものはあるのですが(松村サーベイは「行政エリート調査」と題されていましたが、現在ではこのタイトルではいろいろ警戒されてしまうでしょう)、やはり実際に調査をして見えてくるものはありますし、現代の日本の官僚が抱える問題も浮かび上がってきます。

 

 目次と執筆者は以下の通り。

はじめに:官僚意識調査から見た日本の行政──2019年調査から見えてきた日本の行政の変容(北村亘)
第1章 省庁再編後の日本の官僚制──2019年調査のコンテクスト(北村亘・小林悠太)
第2章 政策選好で見る官僚・政治家・有権者の関係(曽我謙悟)
第3章 官僚の目に映る「官邸主導」(伊藤正次)
第4章 政策実施と官僚の選好(本田哲也
第5章 なぜデジタル化は進まないか──公務員の意識に注目して(砂原庸介
第6章 2019年の中央官庁の地方自治観(北村亘)
第7章 官僚のパブリック・サービス・モチベーションと職務満足(柳至)
第8章 何が将来を悲観させるのか──リーダーシップ論からの接近(小林悠太)
第9章 官僚にワーク・ライフ・バランスをもたらすものは何か(青木栄一)
第10章 日本の官僚制はどこに向かうのか(北村亘)

 

 第1章は2000年代の統治機構改革を振り返り、日本の官僚制の特徴を指摘しています。

 2000年の地方分権一括法、01年の省庁再編は官僚の置かれた環境を大きく変えましたし、その前に行われた小選挙区比例代表並立制の導入を始めとする政治改革も政治家と官僚の関係を変えることになりました。

 

 かつて、官僚の類型として、国益を重視して政策決定を主導する古典的官僚(国士型官僚)、政治の意向を粛々と執行する政治的官僚(調整型官僚)、政治の意向の中で合理性を追求した執行をめざす合理的官僚(吏員型官僚)という類型が取り出されましたが、古典的官僚の存在する余地は小さくなっていると考えられます。

 官僚の権限が大きく削られたわけではあありませんが、さまざまな政策課題が浮上する中で組織のスリム化が進行したことによって官僚はその余裕を失ってきていると考えられます。

 

 第2章では、今回行われた官僚サーヴェイと東大谷口研・朝日調査による政治家の意識調査、有権者に対する調査を比較する形で、官僚・政治家・有権者の考えを分析しています。

 

 本章ではまず、調査をもとにして政治の対立軸を取り出します。取り出された因子1は防衛力強化や先制攻撃、プライバシーを侵害しうる政府の情報収集、原発継続に反対するというものです。国家への警戒を表していると言えるでしょう。因子2は同性婚を認めず、夫婦別姓に反対するという方向性で、社会的に保守的な志向を示していると言えます。

 

 分析結果は31p図2−2に示されています。

 因子1の軸を見ると、有権者と官僚は単峰型でほぼ左右対称です。強い国家を求める人と警戒する人がバランスよくいる形ですが、官僚のほうがやや強い国家志向の人が多いです。一方で政治家では2017年の衆議院候補者、2019年の参議院候補者とも分極型になっています。

 因子2については、有権者は保守的な人が少なく、政治家では非常にリベラルな人と中立的な人が多いです(非常にリベラルな人は落選候補者に多いので共産党の候補者などが多いと思われる(32p図2−3参照)。官僚もややリベラルと中立的な人が多いのですが、有権者に比べると保守的な人も目立ちます。

 省庁ごとに違いでは、経産省文科省が国家の権力行使にやや消極的でリベラル志向、財務省総務省厚労省国交省はやや強い国家志向で保守的という傾向が見られます(34p図2−4参照)。

 

 属性ごとの違いを見ると、有権者では男性よりも女性の方が、その他の地域出よりも東京圏、高卒以下よりも大卒以上、その他の職業よりも事務・技術職のほうが国家の権力行使に懐疑的になります。これと官僚の位置を比べてみると、官僚の位置は、男性・その他の地域・高卒以下・その他の職業の位置に近いです(36p図2−5参照)。

 官僚は、大卒以上で事務・技術職に近く、東京圏に住んでいるものが多いはずなので自らが属しているはずの属性とはややズレていることになります。

 

 政治家と官僚の分析では、拡張的財政か緊縮的財政かという対立軸も取り出せますが、拡張的な財政を主張する政党が多いのに対して、省庁では拡張的財政を主張するところはなく、特に財務省厚労省は慎重です(42p図2−8参照)。

 

 全体的に見ると、有権者は政治家を選び、官僚は選べないわけですが、政策的な距離でいうと政治家は必ずしも近くなく、官僚は必ずしも遠くないという結果になっています。

 ただし、それは上でも見たように官僚が一般の人々と同じ感覚を持っているということを意味するわけではありません。官僚が持つ属性からすると官僚は保守的だからです。

 また、政治家や官僚の間では財政という軸があるのに対して、有権者ではあまり見られずに、安全保障や原発などの軸が強いことが、選挙での争点と、政府の中での対立のズレを表しているのかもしれません。

 

 第3章は「官邸主導」について。第2次安倍政権になって官邸の力が強まったとされていますが、官僚はどのように認識しているのでしょうか。

 2019年調査では直接官邸主導についての評価を訊ねる質問はありませんでしたが、多くの官僚が首相官邸内閣官房内閣府の理解を得ることが重要だと考えています(59p図3−1参照)。一方で、政党の事前審査が重要だと考える官僚は少なく(60p図3−2参照)、党(自民党)よりも官邸の重要度が上がっていることがうかがえます。

 

 官僚OBの間では、官邸主導の動きを真っ向から否定する前川喜平のような人もいますし、「政治の復権」と捉える兼原信克のような人もいます。

 この辺りには温度差もありますが、指定職以上は「府省の内外から政治任用で東洋すべきである」との問には否定的な答えが多く(61p図3−3参照)、「大統領的首相」に対しては官僚の抵抗感は強いようです。

 

 第4章では官僚の政策実施についての選好を分析しています。官僚が政策を実施するときにどの主体(例えば地方自治体、独立行政法人NPOなど)を選好するのかという問題です。

 かつて、日本の官僚制の特徴として、組織内、組織外のリソースを最大限に使う「最大動員」が指摘されましたが、そのときに比べ、新公共経営(NPM)の考えが広がり、地方分権も進み、また官僚の自発的離職者も増えています(「いい機会があるのならば、できるだけ早くに退職したい」に対し、「強くそう思う」10.4%、「そう思う」23.9%と答えている(72p))。

 官僚の人的資源を考えれば、さらに最大動員を進めたいところですが、例えば、地方自治体にさらに実施を委ねれば、さらなる地方分権を求められるかもしれません。

 

 では、どのような実施主体を選好するかというと、これは省庁ごとに特徴が出ます。総務省文科省厚労省経産省地方自治体を選好する傾向があり、総務省文科省経産省は民間企業も選好しています。さらに文科省には独立行政法人への選好もあります。一方、国交省は地方支分部局を選好しています(79p表4−2参照)。

 総務省は通信政策を所管するため、文科省は近年の族議員の世代交代などから民間企業への選好が強いのだと思われます。

 個人で見ると、年齢が高いほど民間企業に否定的で、留学経験があると民間企業に肯定的になります。

 

 また、どのような主体の理解を得ることが重要化に関しては、文科省厚労省地方自治体と公社・公団・独立行政法人を重要視し、文科省はさらに大学などの専門家や有識者の理解も重視しています。一方、個人で見ると、留学経験があると地方自治体の理解を得ることの重要性は低下しています(85p表4−7参照)。

 

 第5章は行政のデジタル化について、「なぜ進まないか?」という問題が分析されています。

 

 2019年調査では「情報技術(ICT)の進展によって業務負担は大きく改善される」、「人工知能(AI)が導入されても自分の給与や待遇に影響ない」という質問があります。 

 ICTについての答えを見ると、意外にも年齢による影響はそれほどありません。年齢が高いほどICTに懐疑的というわけでもなく、そもそも「強くそう思う」と答えた割合は非常に少ないです(94p表5−1、95p図5−1参照)。

 省庁別に見ると経産省内閣府はICTで業務負担が改善されると見ている人が多く、財務省は少ないです(95p図5−2参照)。

 また、ICTで業務改善ができると考えている人ほど、業務量の増大に対処できているという傾向も見られます(98p図5−3参照)。

 一方で、AIに関連する質問についてはこれといった特徴が見られません。

 

 また、官僚は外部との調整を求められることが多いですが、外部の理解の重要性を感じている職員ほどICTで業務改善はできないと感じており、AIが導入されても自分の待遇は変わらないと感じている傾向があります(99p図5−4参照)。

 業務の効率性の重視とICTの関連についてはICTで業務が改善されないとする職員ほど効率性を重視しない傾向があります(100p図5−5参照)。

 さらに自分たちの業務が公務であるという動機づけ(PSM(パブリック・サービス・モチベーション))との関連では、明確な関連性は見出し難いですが、ICTについては否定的な回答をする者ほどPSMが高い傾向を見出すこともでき、AIについても機械への代替に否定的なほどPSMが高い傾向があります。

 

 デジタル化は効率化を改善させると予想されますが、官僚が重視する価値観には効率性以外にも公平性や必要性といったものもあります。デジタル化の推進には後者の価値観とどう折り合いをつけていくかも重要になるでしょう。

 

 第6章は地方自治体に対する評価について。

 まずは、地方自治体の仕事ぶりに対する評価ですが、総務省文科省厚労省が高く、財務省は否定的です(116p図6−3参照)。一方、職位による差はあまりありません(118p図6−6参照)。

 将来の関係を聞く質問では、厚労省総務省国交省の順で密接になると答えており、ここでも財務省は疎遠になるという傾向です(119p図6−7参照)。調査は2019年でコロナ以前ですが、厚労省自治体との連携を求めていたことがうかがえます。職位別に見ると、課長補佐級は疎遠になるという傾向です(120p図6−9参照)。

 

 地方財施についての質問では、地方交付税、国庫補助負担金、国税の基幹税目の税源移譲のそれぞれの重要性について尋ねていますが、財務省はすべて軽視という傾向で、総務省文科省厚労省地方交付税と国庫補助負担金を重視、国交省地方交付税軽視で国庫補助負担金を重視といった傾向です(122p図6−10参照)。国税の税源移譲についてはいずれの省庁も低めで、総務省ではさえ低めということは、これ以上の税源移譲は進まないかもしれません。

 

 さらに本章では、設問への答えから省庁を4つにタイプ分けしています。地方自治体への実施依存度が高く信頼して権限移譲をおこな手も良いと考える省庁として厚労省地方自治体への実施依存度は高いが、権限移譲を行うのには反対な文科省国交省、実施依存度は低いが権限を移譲しても構わない経産省、実施依存度も低く権限移譲にも消極的な財務省と言う形になります(総務省もカテゴリー的には経産省のところに入る)(131p図6−16参照)。

 

 第7章は、第5章でも出てきたPSM(パブリック・サービス・モチベーション)について。

 日本の官僚の給与はそんなにいいものではなく、わざわざ官僚になった人には「公益に貢献したい」といった思いがある可能性が高いわけですが、そのあたりを分析しています。

 2019年調査には、「私にとって公益に貢献することは重要である」、「私は市民の平等な政治参加の機会があることはとても重要だと考える」、「私は他人の幸福を考えることはとても大切だと考える」、「私は社会のために犠牲を払う覚悟がある」といった質問があり、ここからPSMの高さを引き出しています。

 

 まず、省庁別に見るとPSM指標の値が高いのは経産省ですが、統計的には優位ではありません(140p図7−1参照)。

 また、職務満足度指標を見ると、文科省が高く、経産省厚労省と続き、財務省は低いです(143p図7−2参照)。

 PSMとの関連を見ると、PSMと職務満足度は相関しており、組織や組織のメンバーへの愛着である情緒的コミットメントとPSMも弱いながら相関しています。一方、離職意思との関係では職務満足度や情緒的コミットメントと離職意思は負の相関にありますが、PSMとの相関はありません(145p表7−6参照)。つまり、PSMだけでは官僚を引き止めることはできないということかもしれません。

 

 PSMとやりがい、職位は相関していますが(職位が高いほどPSMも高い)、職務満足度はやりがいだけではなく、ワーク・ライフ・バランスや幹部ヴィジョン(幹部に将来の明確なヴィジョンがあるかどうか)と相関しています(151p図7−3参照)。

 さきほどの離職意思についての分析を合わせて考えると、官僚の離職を防ぐにはワーク・ライフ・バランスや幹部ヴィジョンが重要となりそうです。

 

 第8章は「何が将来を悲観されるのか」と題されていますが、ここでは幹部のリーダーシップの問題がとり上げられています。

 2019年調査では、「幹部には組織の将来像に関する明確なヴィジョンがある」との問に対して、「そう思わない」「全くそう思わない」の回答が合わせて64.5%でした。中央省庁の幹部を対象とした調査にもかかわらずです(160p)。

 省庁別に見ると、幹部のリーダーシップを評価しているのは財務省経産省で、総務省厚労省文科省は低めです(163p図8−3参照)。職位別に見ると、局長・審議官級>課室長級>課長補佐級となっており、若手ほど幹部のリーダーシップに懐疑的です。

 本章の後半では、政策距離などを用いた分析も行われていますが、けっこう込み入っているのでここは実際に読んでみてください。

 

 第9章は官僚のワーク・ライフ・バランス。官僚の長時間労働が問題となっていますが、2019年調査では7割近くの官僚が「自分はワーク・ライフ・バランスがとれている」と答えています(183p図9−1参照)。睡眠時間についての質問でも最頻値は6時間(47.7%)で5時間と7時間が20%台前半で続きます(184p図9−2参照)。

 ただし、「業務の高度化や複雑化」「以前より部下への丁寧な説明が必要」といった回答が多い一方で、「部下との飲食は円滑な業務遂行のために必要」といった回答も多く、全体の回答からは過渡期であることも感じさせます(186−187p表9−1参照)。

 

 ワーク・ライフ・バランスの鍵としては分析の結果、上司の配慮などが関わっていることがわかりますが、「適切な昇進管理」とワーク・ライフ・バランスが負の相関となっており、現在の昇進の仕組みはワーク・ライフ・バランスの実現と合ってないともとれます(189p表9−3参照)。

 省庁別に見ると、ワーク・ライフ・バランスがいいのは総務省厚労省文科省の順で(厚労省が入るのが意外だと筆者も指摘している)、上司による仕事外の配慮は文科省が突出して高く、文科省の家族的な組織風土を表しているのかもしれません。職務満足度は経産省が高く、睡眠時間は財務省が長いです(191p表9−4参照)。

 

 また、この章では官僚の読書時間の少なさ(回答者の19.1%が1日あたり0分で41.7%が30分)や会食についての認識(職場の同僚との会食を最も重視しているのが文科省で、次いで国交省(195p図9−4参照))なども紹介しています。

 

 第10章はまとめですが、ここでは若い世代の官僚から「我々を職員と言ってほしい。あくまで粛々と業務をこなしているだけだ」(205−206p)という声があったというのが印象的ですね。

 やはり、日本の官僚制は曲がり角に来ているというか、すでに曲がり角を過ぎており、今までとは違った官僚像、そして働き方が必要になってきているのだと感じました。

 

 この手の調査をやることは難しくなっており、本書の調査も対象人数や回収率などを見るとやはり大変だったのだと思います。

 ですから、本書は必ずしもすべての幹部官僚の声を拾えているわけではないのですが、それでも実際に出てきたデータというのは貴重だと思います。そうだろうな、と思う知見もあれば、厚労省のワーク・ライフ・バランスが良いなどの意外な知見もあります。

 青木栄一編著『文部科学省の解剖』が青木栄一『文部科学省』というまとめに結実したように、本書の調査からさらなる官僚制の研究が進展することを期待したいですね。

 

 

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『犬王』

 見終わった最初の感想は「これはクイーンであり、犬王はフレディ・マーキュリーだ」ということ。映画の中のかなりの時間をステージのシーンが占めているのですが、それがとにかく過剰。

 湯浅政明監督は、アニメならではのさまざまな効果を存分に使って作品を見せる監督ですが、今回はありとあるゆる演出方法が詰め込まれれている感じで、とにかく派手で華麗です。

 

 原作が同じ古川日出男、アニメーション制作がサイエンスSARU、この『犬王』も『平家物語』をとり上げているということで、当然ながらアニメの『平家物語』と比較したくなるのですが、『平家物語』の無常観を比較的淡白な絵で抒情的に表現していた『平家物語』に対して、こちらの『犬王』は時代が室町時代に下ったということもあって、さまざまな演出がごった煮のように使われています。

 浮世絵を思わせる、平面を並べて奥行きをつくる感じとか、盲目の友魚(ともな)(→友一→友有)の視界を表現しようとする効果、異形の犬王のダイナミックな動きなど、これでもかと凝った演出が繰り出されています。

 

 一方、このようにステージを中心とした演出に全振りしているので、ストーリー自体は比較的シンプルです。

 壇ノ浦の漁師の子だった友魚は、沈んでいた三種の神器の1つである草薙剣の呪いによって父を失い、自らは盲目となります。その後、友魚は友一という名の琵琶法師となって京の都で異形の犬王と出会い、ロックバンドのようなスタイルで犬王の舞(能楽)を盛り上げます。そして、この二人の挑戦がそのままストーリーになっています。

 草薙剣の行方とか、足利義満に認められるまで犬王の舞台を後援していた人物がいたのか? とか、いろいろとストーリーを発展させることはできたと思いますが、そのあたりは追求せずに、とにかくステージを見せます。

 

 ステージは荒唐無稽であるのですが、特に鯨をモチーフにしたステージはカッコいいですね。

 能に関しては、正直退屈というイメージしかなく、足利尊氏のころに能を見ていた観衆が興奮して舞台を破壊したとかいう話を聞いても、理解できないでいるのですが、室町時代の能はもっと派手で過激なものだったのかもしれません。

 その失われてしまった過激さを、今ある全ての材料で再現してみせたのが、この『犬王』という作品でしょう。