『別れる決心』

 『オールド・ボーイ』や『お嬢さん』のパク・チャヌク監督の新作。

 岩山の頂から転落した男の事件を追う刑事ヘジュンは被害者の妻ソレの反応や行動に引っかかるものを感じて、被疑者として監視するようになるが、その中でだんだんとソレに特別な感情を抱くようになったしまう…というストーリー。

 刑事が被疑者の女性に惹かれていくというのはよくある話で、『氷の微笑』とかがそうだったと思います。

 この女性はいわゆるファムファタールで、刑事を破滅へと導いていくのです。

 

 本作も前半はこうした構図になります。ヘジュンは優秀な刑事で結婚もしていますが、徐々にソレの謎めいた雰囲気に惹かれていくのです。

 ただし、この映画は2部仕立てになっており、普通の映画のさらにその先が描かれます。映画は起承転結できれいに着地せずに、起承転転転転…と飛距離を伸ばし続けるのです。

 

 そして本作の大きなポイントはソレが韓国人ではなく、密航のような形でやってきた中国人だということです。

 それが夫とのいびつな関係にも関わっているのですが、それだけではなく韓国語が不自由であり、ときにヘジュンとの意思の疎通にスマホの翻訳アプリを使わなくてはいけないのです。

 

 ソレが中国語を話す→翻訳アプリが韓国語を読み上げるといった形で、2人のコミュニケーションには遅延が生じるのですが、このズレが二人の関係の描写にも、さらにはストーリー全体にも大きな効果をもたらしています。

 

 ヘジュンを演じたパク・ヘイル、ソレを演じたタン・ウェイはともに良いですね。特にタン・ウェイファムファタールにありがちな飛び抜けた美人という感じはしないのですが、一見すると平凡なようにみえて非凡な魅力を持っていて、観客を惹きつける力も持っていますね。

 

ペ・スア『遠くにありて、ウルは遅れるだろう』

 独白は混乱とともに終わった。その後。ぴんと張られた太鼓の革を引っかくような息づかいが聞こえてきたが、それは私のもののようだった。(7p)

 

 なかなか印象的な一節ですが、これはこの小説の始まりです。

 主人公はある部屋で目を覚ましますが、なぜか記憶を失っています。しかも同室には男(同行者と呼ばれている)がいます。

 主人公らは持ち物を調べ、外に出てバスに乗り、巫女のもとへと行きます。

 そして、印象的な文体で不思議なエピソードが語られていきます。

 

 著者のペ・スアは韓国文学の世界ではよく知られた存在だそうですが、その独特な文体もあって今作が初めての日本語訳の単行本になります。訳者はおなじみの斉藤真理子です。

 

 ペ・スアは作家であるとともに翻訳家でもあり、30台後半から本格的にドイツ語を学び、ドイツ語、そして英語の小説の翻訳を精力的に行っています。

 韓国とドイツと行き来している生活をしており、韓国にいるときは翻訳に集中し、ドイツにいるときは自分の作品を執筆しているそうです。

 

 そうしたこともあるのか、この作品はここ最近翻訳されている韓国の女性作家の作品とは違っています。

 韓国の女性作家の作品は韓国社会の過去の傷や現在の軋みを感じさせてくれるものが多いですが、本作に「韓国」は登場しませんし、「無国籍的」とも言っていいような印象を受けます。

 

 本作は3部仕立ててで、いずれもウルという女性が中心にいますが、第1部は一人称、第2部は三人称と変わりますし、ウルという女性が同一人物なのかははっきりしません。

 「ウル」という名前はメソポタミアの最古と都市と言われる「ウル」からとったといいますが、本作は何かが始まりそうな雰囲気をたたえながら、何かが本格的に始まることはなく、さまざまなイメージが語られていきます。

 

 「純粋芸術」っぽい作品であり、その文体とイメージには独特の魅力があります。

 ただ、個人的にはもっと現実の社会とダイレクトな関係性を持っている作品のほうが好きですね。

 

『レジェンド&バタフライ』

 木村拓哉織田信長を演じるというと見る前から満腹感がありますが、木村拓哉主演で織田信長をテーマに1本の映画にまとめるという前提の中では、けっこう面白くできたのではないかと思います。

 

 まず、今作の信長は天才でもサイコパスでもなく、最初はカッコつけで軽めの人間として描かれています。

 そこに綾瀬はるか演じる濃姫が嫁いでくるわけですが、この濃姫は頭が切れて肝も据わっていて、なおかつ、圧倒的な身体能力を持っているという設定。

 初夜のシーンで木村拓哉を華麗に投げ飛ばして固め技を決める綾瀬はるかだけでも、それなりに見る価値はあると思います。

 

 あと、「歴史もの」という点で面白いのは明智光秀の描き方で、従来のパターンでは「魔王」と化した信長に対して「良識派」の光秀がついていけなくなるという形で、本能寺の変が起こる展開が多いですが、今作ではまったく別の解釈がなされています。

 実際、光秀は比叡山延暦寺の焼き討ちでも積極的に「根切り」(皆殺し)に参加しており、そのはたらきを信長から評価されています。

 今作の描き方にリアリティがあるというわけではありませんが、1つの解釈として面白さはあると思います。

 

 ただ、信長の生涯を1本の映画にまとめるということで、どうしてもダイジェスト感がありますし、貧民窟みたいなところで信長と濃姫が大立ち回りをするシーンの意味というのはよくわからなかった。大立ち回りが必要だとしても、敵がゾンビみたいな貧民である必要はあったんでしょうか…?

 

 あと、南蛮人や南蛮文化をやや過剰に取り入れて、ハイブリッド的な時代の雰囲気を出そうとしているのは印象的ですね。それが最終的には「タイタニック??」というようなシーンにもつながるわけですが、映画のトーンとしては一貫性が出ていたのではないでしょうか。

 

『イニシェリン島の精霊』

 物語はアイルランドの孤島のイニシェリン島に住むコリン・ファレル演じるパードリックがいつものように友人のコルムを誘ってパブに行こうとしたところ、コルムから無視されるシーンから始まります。

 何かコルムを怒らせるようなことをしたのか? 悩むパードリックでしたが、やがて、コルムから「お前の話は退屈で、自分は残りの人生を考えて音楽と思索に生きていきたい。だからもう話しかけてくれるな」と言われてしまうのです。

 

 ここから話をどう展開させていくかはいろいろと考えられると思うのですが、『スリー・ビルボード』のマーティン・マクドナーの手にかかると、話はよりブラックで不吉な方向に転がっていきます。

 

 そんなに前情報がないほうが楽しめると思うので詳しくは書きませんが、パードリックにこれ以上付きまとわれないようにコルムが繰り出してきた拒絶の手段が、かなり大げさでグロテスクなものなのです。

 コルムが出した手はかなり強い抑止なのですが、例えば、安全保障の世界において強い抑止が破られたときの対抗策が難しいように、強い抑止であるがゆえに、それが破られたらどうなるのか? というのが問題になるのです(ロシアがウクライナで核を使用したときにアメリカがどうすべきかというのは難しい)。

 

 本作は20世紀前半、第一次世界大戦後が舞台になっていますが、当時、アイルランドでは内戦が行われていました。

 島では内戦は行われていませんでしたが、砲撃の音などは島にも聞こえており、そういった暴力の影が島にも伸びる中で、友情の終わりが暴力的なものへとエスカレートしていくのです。

 ただし、2人は過去の友情なり、優しさなりを完全に吹っ切れない部分もあります。それがもこの映画の良い点であり、同時に悲劇性を高めているとも言えます。

 

 昔はけっこう二枚目な役をやっていたコリン・ファレルが情けないおじさんを好演していて、あの八の字眉毛が情けなさと友情を拒絶されて途方に暮れた感をよく出してますね。

 

Little Simz / NO THANK YOU

 前作の「Sometimes I Might Be Introvert」が素晴らしく良かったUKの女性ラッパーLittle Simzのニューアルバム。

 前作のような派手なかっこよさはないですが、相変わらずセンスがよいですし、小気味のいいラップに50分という長さでアルバムを通しても聴きやすいです。

 曲単位でも、3曲目の"Silhouette"なんかは、6分以上あって、トラックもそんなに大きく展開するわけではないのですが、ダレることなく聴けます。

 

 そんな中でも個人的に好きなのが、5曲目の"X"。トラックへのリズムの入れ方もストリングスを使った部分もかっこいいですね。

 ここから"Heart on Fire"〜"Broken"の流れはいいと思います。

 最後の曲の"Control"が非常に落ち着いた感じで終わっていくのもいいのではないでしょうか。

 前作が「傑作」だとすると、今作は「佳作」という感じのアルバムですね。

 


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最後にAmazonへのリンクを貼ろうとしたら、Amazonでは取り扱ってないっぽい。

自分はiTunes Storeで買いました。

 

玉手慎太郎『公衆衛生の倫理学』

 新型コロナウイルスの感染拡大の中で、まさに本書のタイトルとなっている「公衆衛生の倫理学」が問われました。外出禁止やマスクの着用強制は正当化できるのか? 感染対策のためにどこまでプライバシーを把握・公開していいのか? など、さまざまな問題が浮上しました。

 

 そういった意味で本書はまさにホットなトピックを扱っているわけですが、本書の特徴は、この問題に対して、思想系の本だと必ずとり上げるであろうフーコーの「生権力」の概念を使わずに(最後に使わなかった理由も書いてある)、経済学、政治哲学よりの立場からアプローチしている点です。

 そのため、何か大きなキーワードを持ち出すのではなく、個別の問題について具体的に検討しながらそこに潜む倫理的な問題を取り出すという形で議論が展開しています。

 

 そして、その議論の過程が明解でわかりやすいのが本書の良い点になります。

 「これが答えだ!」的な話はありませんが、問題点がわかりやすく取り出されているので、公衆衛生の問題を考える上での最初の地図のような役割を果たしていくれます。

 

 目次は以下の通り。

序章 公衆衛生倫理学の問題関心
第1章 肥満対策の倫理的な課題
第2章 健康の社会経済的な格差の倫理
第3章 健康増進のためのナッジの倫理
第4章 健康をめぐる自己責任論の倫理
第5章 パンデミック対策の倫理
終章 自由としての公衆衛生へ

 

 みんなが健康になるのは良いことに思えますが、そのためにどこまでのことをしていいかというと意見が分かれるところだと思います。

 例えば、酒の飲みすぎは健康に良くないですし、将来的な医療費の増加につながるため、酒のラベルに「飲み過ぎに注意しましょう」という注意喚起を書いたり、アルコール度数の高い酒に高い税率をかけたりすることは、比較的多くの人が受け入れるのではないかと思います。

 一方、マイナンバーカードなどで酒の購買履歴をチェックして一定以上は変えないようにするとか、酒を禁止する、とかまでいくと「やりすぎだ」と感じる人が多いのではないかと思います。

 

 ただし、例えば致死率の高いパンデミックの場合は外出禁止などの自由を制限する手段も許容されると考えられる人も多いでしょう。

 著者は23p図1で「介入のはしご」という図を示していますが、「情報の提供」などに比べて「選択の制限」などを行うにはより強い正当化のための理由が必要になるはずです。

 

 本書の第1章でまずとり上げられているのが肥満の問題です。

 肥満はさまざまな病気の原因とされており、新型コロナウイルスでも肥満の人は重症化しやすいとされました。

 こうしたこともあり2008年からはメタボ健診も行われるようになっています。このメタボ健診の目的としては、個人の健康増進とともに医療費の削減という狙いもあります。肥満対策は社会全体の利益になるとも考えられるのです。

 

 ただし、肥満防止のための政策が行き過ぎたパターナリズムとなる可能性もあります。

 パターナリズムには「強いパターナリズム」と「弱いパターナリズム」があるといいます。弱いパターナリズムは自律的な決定能力を持たない人に対するもので、強いパターナリズムは自律的な決定能力を持った人に対するものになります。

 例えば、嫌がる子どもに野菜を食べさせるのが弱いパターナリズムで、大人に嫌いな野菜を食べさせるのが強いパターナリズムとなるわけです。

 難しいのは強いパターナリズムだからダメというわけではなく、シートベルトの着用義務は強いパターナリズムですが、広く受け入れられています。

 

 さらに「目的パターナリズム」と「手段パターナリズム」という分類もあります。当人が支持する利益を増進するのが手段パターナリズム、介入する側が目的まで設定するのが目的パターナリズムです。

 例えば、禁酒したいという人に酒のメニューを見せないのが手段パターナリズム、酒が飲みたい人から酒をとり上げるのが目的パターナリズムとなります。

 

 ただし、この2つがきれいに切り分けられないこともあるでしょう。

 肥満のケースで言えば、肥満防止の啓発が強くなされるほど、周囲からのプレッシャーによって肥満をなんとかしなければと思うようになるかもしれません。そうなった場合、介入は手段パターナリズムなのか目的パターナリズムなのか曖昧になります。

 また、「肥満を防止しよう」という啓発がなされるほど、肥満は「自己責任」とみなされるようになり、「肥満=自己コントロールができない人」といった形で肥満のスティグマ化が起こるかもしれません。

 

 さらに肥満対策は医療費の削減という財政上の要請から進められている面もあります。こうなると目的は個々人の幸福というよりも、社会的なコストの問題であり、「健康」というものが他の目的のために手段となる「健康の道具化」が起こっているとも言えます。

 健康という価値を肯定するとしても、その実現をめぐってはさまざまな倫理的な問題があるのです。

 

 第2章でとり上げられているのは、社会経済的な要因からくる「健康格差」の問題です。

 どのような家庭に育つかでその人の健康状態は変わってくるかもしれません。例えば、経済的に貧しくてジャンクフードばかり食べていた、親が忙しくて歯磨きの習慣が身に付かなかったといったことがあれば、その人の大人になったときの健康状態は恵まれた環境で育った人に比べて悪化しているかもしれません。

 

 こうした健康格差は問題ですが、では是正のために介入をすべきか、どんな介入をすべきかというと難しい問題もはらんでいます。

 例えば、政府が健康状態の改善のために「食事に野菜を一品増やそう」と呼びかけることは特に悪いことではないように思えますが、そういった経済的余裕のない人もいるでしょうし、逆に経済的に裕福な人達だけがそのメッセージを受け止めて生活を改善し、ますます健康格差が開くということも考えられます。また、肥満と同じように不健康がスティグマ化される恐れもあります。

 

 2016年に自民党の若手議員が「健康ゴールドカード」という提案をしました。これは定期検診を通じて健康管理に務めた人は医療保険の自己負担を3割よりも低い水準に引き下げるというものでしたが、これは自助努力によって健康を獲得することができるという前提にもとづいており、「不健康=自助努力ができない人」というイメージを強める恐れがあります。

 

 一方、イギリスでは国内で販売される食パンの食塩含有量を少しずつ減らすことで、人々の塩分摂取量を減らし、高血圧や脳卒中心筋梗塞などの症状を減らしたとされています。

 これならば「自助努力ができない人」にも効く政策になりますが、こういった方法がエスカレートすれば個人の自由や自律が侵害されていると感じる人も出てくるかもしれません。

 

 そこで登場するのが第3章でとり上げられているナッジです。

 ナッジは、例えば、メニューの目立つところにヘルシーなメニューを載せるなど、人々の行動をちょっとだけ誘導するもので、自由や自律を侵害するものではないとされます。

 拒否できるちょっとしたおせっかいを通じて社会全体の効用を改善できるというのが、このナッジを推進するリチャード・セイラーやキャス・サンスティーンの立場で、彼らはこれを「リバタリアンパターナリズム」と名付けました。

 さらに比較的低コストで介入ができるのもナッジが注目される要因です。

 

 ただし、ナッジが有効である、つまり人々がナッジによって大きく誘導されるのであれば、それはそれだけ自律性が侵害されているとも考えられます。

 また、ナッジは安上がりな方法であるために、慎重な検討なしに導入されてしまう懸念もあります。

 

 ナッジは本人が望んでいる目標を実現するための手助けという位置づけが基本になります。基本的に「健康増進」は多くの人が望んでいる目標と言ってもいいかもしれません。

 ただし、ナッジは本人の利益だけではなく社会全体の利益のためにも用いられがちですy。例えば、臓器提供カードのデフォルトを「提供」にすることの目的は個人の利益ではなく社会全体の利益でしょう。ナッジの提唱者のサンスティーンはこのようなナッジを肯定しています。

 このように社会全体の利益のためのナッジが普及すれば、健康に対する自己コントロールが知らぬ間に縮小されているということも起こり得るでしょう。 

 

 第4章では健康をめぐる「自己責任」の問題が論じられています。

 健康問題において自己責任論を持ち出すのはよくないとされていますが、それでも酒やタバコもやらない人が酒やタバコが原因で病気になった人に「自己責任だ」と言いたくなるのは理解できますし、ましてや医療費の抑制が要請されている中でこうした声が高まってくるのはある意味で自然です。

 

 自己責任論に対しては、まずは本人のどうにもならない要因があるという反論があげられます。遺伝性の疾患に対して本人ができることは限られます。

 そこで、コントロール可能性ということが前提にされるわけですが、世の中における「責任」に概念は必ずしもコントロール可能性に結びついているわけではありません。組織の責任者は部下のやったことの責任を取る必要がありますし、子どもが飛び出してきた交通事故でも運転者は一定の責任を感じるでしょう。

 コントロール可能性とそれに伴う責任の有無というのはグラデーションがあり、恣意的な線引がなされやすいのです。

 

 自己責任論を強調することは、健康を害した人があたかも劣った人でとの印象を与える点で個人の尊重に失敗しています。

 一方、コントロール不可能性を強調しすぎると、今度はその人を自由な選択を行う主体とはみなさなくなるという点で、こちらも個人の尊重が侵害されると言えます。

 こうした中で著者は持ち出すのが「後ろ向きの責任」、「前向きの責任」という概念です。

 

 定義はそれぞれ

後ろ向きの責任:過去の特定の行為から生じた損失の責任を、当人が個人的に引き受けることを要請する規範

前向きの責任:当人の置かれた状況に応じて、将来ある特定の行為を遂行することを望ましいとみなす規範(175p)

となります。

 

 例えば、「日本の過去の戦争に対する責任」というときに、当時生まれていなかった人に「後ろ向きの責任」はとりようがないわけですが、「前向きの責任」であれば、それを引き受けるべきだという話はできるでしょう。

 

 この2つの概念を使うと、自らの健康に対する責任の問題について、後ろ向きの責任ばかりを追求するのは問題だが、前向きの責任についてはあるのではないか(将来の健康のためにできることをすべきである)と考えることができると思います。

 そして公衆衛生の政策では、不健康になってしまった後ろ向きの責任を追求するのではなく、将来に向けてサポートするようなものが重要だとも言えるでしょう。

 

 第5章ではパンデミック対策とそれがもたらす問題が論じられています。

 新型コロナウイルスの感染拡大に際し、マスクの強制や外出の禁止など、人々の自由を制限する政策が打ち出され、それが支持されることともなりました。さらに一部では、中国のような強権的な政策が支持される向きもありました。

 「命を守る」という価値がせり出してくると、「自由」という価値は相対的に低下してしまう傾向があるのです。

 

 これに対して著者はアマルティア・センのケイパビリティ・アプローチの考えを使ってこの問題に答えようとします。

 ケイパビリティとは「人が達成することのできる機能(ある状態であることや、何かをすること)のさまざまな組み合わせ」(205p)で、その人が実現しうる生活の可能性になります。

 例えば、「大怪我をしない」という価値だけが重視される社会では、危険なスポーツは禁止されるべきかもしれませんが、このケイパビリティ・アプローチならば、「危険なスポーツを楽しむ」という選択肢の存在が評価されるわけです。

 

 この考えをもとに考えると、コロナ対策として、①外出禁止、②ワクチン接種、という政策があり、いずれもコロナを抑え込めるとした場合、同じコロナの抑制という結果を得られるとしてもケイパビリティを改善するのは②でしょう(ただ、実際には飲み屋の営業時間が短縮される代わりにコロナになる確率が下がるといった微妙なケースがおおいでしょうが)。

 ケイパビリティ・アプローチをとったからといって望ましい1つの答えが出てくるわけではありませんが、1つの手がかりとなる概念であることは確かだと思います。

 

 さらに終章では、本書で残された問題として、「健康」という概念、生権力、ジェンダー、グローバリゼーションという4つの観点をあげています。 

 このうち、生権力についてはフーコーの議論の重要性は認めるものの、生権力からはどのような公衆衛生政策が望ましいかを考えるのは難しいとみています。

 

 このように本書は肥満やパンデミックなどのわかりやすい問題を扱いながら、公衆衛生における倫理の問題を分析しています。

 全体的にわかりやすいですし、何よりも答えではなく、考える上でのポイントを取り出していることが本書のポイントでしょう。

 「健康」というのは多くの人が同意できる価値観であるからこそ、そこに潜む問題を明らかにしてくれる本書は一歩立ち止まって考える切っ掛けになるものだと思います。

 

 また、高校では「公共」が始まり、今まで政治経済を教えていた教員が倫理的な部分を教える必要が出てきていますが(自分がそう)、そういったときに本書は非常に役に立つのではないでしょうか。

 巻末にはブックガイドもついていますし、社会の問題を多面的に考察するための入門書ともなっています。

 

 

長谷敏司『プロトコル・オブ・ヒューマニティ』

 伝説の舞踏家である父の存在を追って、身体表現の最前線を志向するコンテンポラリーダンサーの護堂恒明は、不慮の事故によって右足を失い、AI制御の義足を身につけることになる。絶望のなか、義足を通して自らの肉体を掘り下げる恒明は、やがて友人の谷口が主宰するダンスカンパニーに参加、人のダンスとロボットのダンスを分ける人間性の【手続き/プロトコル】を表現しようとするが、待ち受けていたのは新たな地獄だったーー。SF史上もっとも卑近で、もっとも痛切なファーストコンタクト。『あなたのための物語』「allo, toi, toi」『BEATLESS』を超える、10年ぶりの最高傑作。

 

 これがカバー見返しに載っている本書の紹介になります。

 著者の小説を読むのは今回が初めてで、ほとんど予備知識もないままに読んだのですけど、思った以上にずっしりと密度のある小説でした。

 ジャンルとしてはSFですし、舞台は2050年なのですが、本書の中心となるのは著者の経験とそれを言語化しようとする試みという印象を受けます。

 

 紹介にあるように、主人公の護堂恒明はコンテンポラリーダンスのダンサーでしたが、不慮の事故で右足を失います。ダンサーが片足を失うことは致命的ですが、友人の谷口の伝手もあって最新式のAIつきの義足をつけられることになり、その義足とともにダンサーとして復活しようとします。

 

 一方、谷口にはロボットにダンスをさせたいという構想がありました。もちろん、既存の振り付けを真似るだけならロボットにもできますが、谷口が考えているのは内発的に踊るロボットです。

 人間には音楽を聞いて思わず踊りだしたくなったり、今までにはない動きを生み出したりすることがあります。いわば、意識と身体が共振しているわけですが、AIには身体がありません。

 AIに身体性をもたせることで「人間性(ヒューマニティ)」を獲得しようというのが谷口のプランです。

 そのために護堂恒明とロボットによるダンスカンパニーを立ち上げます。

 

 一方、この小説では「人間性(ヒューマニティ)」の喪失も描かれています。

 主人公の父でダンサーでもある護堂森が交通事故による入院と妻の死をきっかけに認知症になってしまうのです。

 記憶が弱くなり、今までやっていたことができなくなり、周囲との意思疎通も難しくなります。介護する立場からすると「人間らしさ」が徐々に失われているようにも思えるのです。

 

 本書はこの2つの問題、「人間性」の獲得の試みと「人間性」の喪失の過程が同時並行的に描かれています。

 最終的にどうなるかは読んでもらうとして、このダンスと介護はともに著者の経験をもとに描かれています。ダンスは、ダンスカンパニーとのコラボレーションの企画が、認知症の問題は自らの父の介護経験が下敷きになっているといいます。

 

 というわけで、見たことのない世界を見せてくれるSFというよりは、見ているはずの世界をSF的な道具立てで突き詰めて考えてみせた小説とでも言えるでしょうか。

 ヒロインの永遠子の描き方など、やや不満の残る点もありますが、ずっしりとした読後感の残る小説ですね。