『A.I』・デイヴィッド少年の怖さ

 高田馬場の駅前に「出かけるときは、目立つ服装、正しいマナー」という標語がありますが、「目立つ服装」って何?
 たぶん警察が立てた看板だと思うのですが、犯罪防止のためかなんかなのでしょうか?
 でも、みんなが「目立つ服装」になったら、それは「目立つ服装」ではなくなってしまうかも…


 ところで、この前、「A.I.」と「猿の惑星」を見ましたが、「A.I.」はなかなか面白く、考えさせられる映画です。


 最初は、キューブリックの企画ということで、どうしても、「キューブリックならもっとすごい映像なのに…」というふうに考えてしまいますが、だんだんと、「キューブリックならどう撮ったんだろう?」とわくわくするようになります。これは、映画の中に哲学アイディアが詰まっていて、いろいろと考えさせるからです。


 この映画の一番のポイントは、ロボットのデイヴィッド少年が少し怖いというところでしょう。基本的には「母を訪ねて三千里」的ストーリーなのですが、このデイヴィッド少年はどこかに少し異常なところを感じさせます。
 スピルバーグが撮ったこの映画では、そうした怖さが前面にでることはありませんが、キューブリックが撮ったなら、もっとこの「怖さ」が前面に出たのではないでしょうか?


 ラカンの考えによれば、人間にとって「欲望」のほうが本質的であり、その「欲望」が「対象」を見いだします。しかし、デイヴィッド少年にとっては、何よりも「母」という「対象」が先にあります。
 映画ではジュード・ロウの演じる旧式のジゴロ・ロボットが出てきますが、こちらのほうが人間に近いという印象を受けます。このロボットは愛を知らず、「ロボットは人間の欲求に奉仕するだけ」と言いますが、ラカンのテーゼ「人間の欲望とは他者の欲望である」に照らせば、むしろこちらのほうが「人間に近い」、とも言えるでしょう。


 デイヴィッド少年を見て考えるのは、キューブリックの映画によく出てくる「洗脳」というテーマです。「時計仕掛けのオレンジ」、「フルメタル・ジャケット」で扱われたこのテーマは、この「A.I.」のテーマでもあったのではないでしょうか?
 デイヴィッド少年の母への愛は一種の「洗脳」でもあります。


 今まで、「キューブリックなら〜」ということばかりを書いてきましたが、キューブリックがあと5年生きていても、この映画は撮れなかったでしょう。完璧主義者のキューブリックがこれほどのアイディアの詰まった映画をそう簡単に作れるとは思えないからです。
 そういう意味で、映画として観客の前に見せてくれたスピルバーグに感謝すべきかもしれません。


 「猿の惑星」は最後の二転三転こそ面白いけど、それまでが平凡すぎると思いました。


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