ROSSO・チバユウスケの詞

 新聞に長渕剛のニュー・シングルの広告があったのですが、タイトルが「静かなるアフガン」!。まあ、いいですけど、なんかすごい歌そう。


 ところで、こういうタイトルの歌を「左派的?」な歌手ではなく、「右派的?」な長渕剛が歌うというのは、最近の傾向をあらわしていると思います。ここ十年ほどの間に左派より右派の方が、なにか「反体制的」な価値をおびるようになった気がします。フランスでのルペンの躍進も、このあたりが一つの理由となっているのではないでしょうか。


 長渕剛の歌がどんなのかはわからないですけど、素晴らしかったのはミッシェルのチバユウスケブランキー照井利幸の組んだROSSOの『BIRD』。聴く前からかなり期待していましたが、期待に違わず「かっこいい」です。


 ここで取り上げたいのはチバユウスケの歌詞について。今回の『BIRD』では、最近のミッシェルのアルバムのようにあるイメージに基づいて詞がつくられているのではないのですが、非常に魅力的な詞です。


 チバユウスケの詞といえば、ミッシェルの「バードメン」の「さっきまでがアタマの中ではねた」というような独特の言葉の使い方が特徴的でしたが、最近は「言葉そのものの力」を活かすような詞を書きます。例えば今回のアルバムの1曲目「惑星にエスカレーター」は、この「惑星にエスカレーター」という言葉が曲に大きな力を与えていますし、最後の曲の「モンキー・ラブ・シック」では、「足の生えたネイビーブルー/暗くなったら公園」など、ほとんどまともには意味のとれない歌詞ながら非常に印象的な歌詞になっています。


 ブランキーやシャーベッツの浅井健一と比較するならば、浅井健一が世界の中からその繊細な感覚で「美しさ」や「かなしさ」のようなものを取り出すのだとすると、チバユウスケは「何もない空間」に言葉をオブジェのように置いていく、といった感じです。例えば、2曲目の「シャロン」の「ねぇ シャロン 砂漠で暮らす/ピンクのカラス 青いガラス くわえて/ヒマワリへとゆくんだろう シャロン」という韻を踏んだ美しい響きの部分は、実際の世界ではまったくあり得ない映像でありながら、それぞれの言葉の力が独特の世界をつくり上げていると思います。


 また、「物語的でない」というのもチバユウスケの詞の特徴です。同じく「シャロン」の「地下鉄が唄うメロディー/誰も知らないメロディー/悲しいから うさぎは死んだ/そんなことは わかってたのに」というところも、ここだけ取り出すと浅井健一的な詞にも見えますが、浅井健一ならばこういった詞を、もう少し物語的に提示するような気がします。


 少し思い切った言い方をするならば、チバユウスケの詞では言葉が「意味」を持つものとしてではなく、たんにその言葉として「使用」されています。例えば、「モンキー・ラブ・シック」では、「エヴァーグリーン 湖/モンキー・ラブ・シック・ウォーター・ベイビー」というフレーズが繰り返されます。当然ながら、このフレーズの意味というのはよくわかりませんが、非常に強い印象を残します。この歌詞の世界は「意味の届かない世界」であり、「世界」が「意味」で成り立っているとするならば、「世界の果て」です。「世界の終わり」でメジャーデビューしたミッシェルのチバは、ミッシェルの前作・『ロデオ・タンデム・ビート・スペクター』で、ついに「意味の届かない世界の果て」に辿り着いた、「世界が終わったあとの風景」を描いて見せたという気がします。そして、この『BIRD』でもそのイメージは変わりません。


 なんか今回は、ずいぶんと思い入れを持ってこの文章を書きましたが、最後に「モンキー・ラブ・シック」の語りの部分から魅力的な一節を一つ。

火のついたポリエステルの気持ちをわかりたいと思わない?


BIRD
ROSSO
B000063C2O