『プラトーン』→(『フォレスト・ガンプ』)→『ブラックホーク・ダウン』

 先月のこの欄でオリバー・ストーンの『7月4日に生まれて』にちょっと触れたということもあって、この前、『プラトーン』をビデオで見たんですが、なんとなく、『プラトーン』→『フォレスト・ガンプ』→『ブラックホーク・ダウン』という流れが確認できました。というわけで、今回はある意味で先月の話の続きです。


 先月、『フォレスト・ガンプ』は東浩紀的な意味での「動物の時代」の幕開けを告げる映画だと述べましたが、このことは「プレ・ガンプ」の『プラトーン』と「ポスト・ガンプ」の『ブラックホーク・ダウン』を比べるとよりはっきりすると思います。


 『プラトーン』にあって『ブラックホーク・ダウン』にないもの、それは人間の「葛藤」です。『プラトーン』では、チャーリー・シーン演じる主人公が過酷な戦場の中で「人間はいかにあるべきか?」という問題に直面します。そしてその問題は、戦場の中でも麻薬に頼りながらも人間性を守ろうとするエリアスと、戦争の極限状態に同化したバーンズという二人のベテラン兵士と主人公の関わりを通して描かれます。


 エリアスを仲間の足を引っ張るやつだと見たバーンズが戦闘の中でエリアスを撃ち、そのことを知った主人公は映画の最後の戦闘の中でバーンズを殺す、けれども、主人公の気持ちはそれで晴れるわけでなく、「エリアスとバーンズは僕の二人の父親ではないか?」と自問し、「戦場ではいつも自分自身と戦っているんだ」という言葉で映画は幕を閉じます。エリアス的価値観とバーンズ的価値観の葛藤というのは、常にありつづけるものなのです。また、アメリカ軍のベトナムでの残虐行為などが描かれることにより、「この戦争は正しい戦争なのか?」という問題についても主人公は葛藤しつづけることになります。


 一方、『ブラックホーク・ダウン』では、映画のドラマの中で、「この戦争は正しい戦争なのか?」ということが問われることはほとんどありませんし、主人公たちは作戦の失敗によって巻き込まれた戦場の中で懸命に戦うだけです。そして、戦場から基地に帰還した主人公の、「俺たちは仲間のために戦っているんだ」というセリフで映画は幕を閉じます。そこには、『プラトーン』にあったような「人間はいかにあるべきか?」というような葛藤はまったく感じられません。「仲間の命」とは無条件に守るべきものであり、その価値は戦場という極限状態によっていっそう高まります。『ブラックホーク・ダウン』の主人公たちは仲間の死に衝撃を受けたりはしても、「内面の葛藤」というものはほとんど持たないのです。


 これはある意味、「(プラトーン)の志願兵と(ブラックホーク・ダウン)の精鋭部隊の差」と言えるかもしれませんが(人間から「内面の葛藤」を奪う軍隊の訓練を描いたのが、キューブリックの『フルメタル・ジャケット』でした)、それ以上に時代の変化というものを感じます。「内面の葛藤がない」というのは、「ポスト・ガンプ」的な映画の特徴であり、この傾向は例えば『タイタニック』、『アルマゲドン』とか『A.I.』などにも感じます(『パール・ハーバー』には一応、恋愛の葛藤があると言えるのかな?)。


 この「葛藤のなさ」というのは、東浩紀の提示する「動物的」な人間観というのに通じます。「大きな物語」が力を失った社会では、人間は自らの「動物的な欲求」を満たしていくだけです。東浩紀の議論がどこまで正しいかはわかりませんが、戦争映画にはそうした傾向が現れているような気がします。


 ただ、『ブラックホーク・ダウン』がまったくなんの批評性もない映画かというとそうではなくて、4月のこの欄にも書いたように、最後にスクリーンにでてくる「この戦闘でアメリカ兵19人とソマリア人1000人以上が死亡した」という説明が、リドリー・スコットなりのこの戦争への批判になっていると思います。ですから、単純なイメージでいうと、『プラトーン』は「『人間』の撮った『人間』の映画」、『ブラックホーク・ダウン』は「『人間』の撮った『動物』の映画」となって、『アルマゲドン』あたりが「『動物』の撮った『動物』の映画」ということになるかな?


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