『へルタースケルター』が提示する”リアル”

 イラク戦争は一昨年のアフガンとまったく同じことを繰り返して終わり(?)ましたね。1ヶ月ほどで首都は陥落、しかし肝心の人物(ビン・ラディンフセイン)は見つからないという状態。しかも、炭素菌騒動を反復するかのようなSARSウィルス、まさに「歴史は2度繰り返す」。


 というわけで、今月は戦争の話とかではなくて、ついに刊行された岡崎京子の『へルタースケルター』について。このマンガは96年の作品なのですが、連載終了直後に岡崎京子が交通事故にあったため、現在まで刊行されなかった作品。「すごい」という噂は聞いていたのですが、噂に違わぬ出来です。


 主人公のりりこは、誰もがうらやむ美貌の持ち主のモデルだが、実はその美しさは全身整形によってつくられたもので、「骨格と上に乗っている表皮と筋肉の動きが一致していない」というもの。


 まず、この設定だけで思い出すのはジジェクの、映画『フェイス/オフ』を使ったレヴィナスへの批判です。レヴィナスは「他者の<顔>」こそが絶対的に固有なものであり、人間の倫理における基本となる述べましたが、ジジェクジョン・トラボルタニコラス・ケイジの顔が手術によって入れ替えられる『フェイス/オフ』をモチーフにし、顔の下の「むき出しになった肉」こそ“リアル”なもの、ラカン的に言えば<現実的>なものであるとの議論をします。実際、整形技術の発達は固有と思われていた<顔>の取り替えを可能にし、身体からその絶対性を奪っています。『へルタースケルター』の「骨格と上に乗っている〜」のセリフは、まさにリアルと思われていた<顔>の下にさらに<現実的>な何ものかを窺わせるものでしょう。


 りりこは、整形手術の副作用などにより、次第に精神のバランスを崩していきますが、その中に次のようなモノローグが挟み込まれます。

「ただあたしは体を使って遊びたいのよ/んでもって 他人をめちゃくちゃにして遊びたいだけ/だって仕方ないじゃない?あたしだって他人に/めちゃくちゃにされているんだから」


 身体が“リアル”なものではなくなり、自分や他者によってコントロールされるものになってしまう。このことは現代に登場した新たな“困難”だと思いますし、最近の「トラウマ探し」のようなものも、身体に代わる新たなる“リアル”を探す試みなのかもしれません。


 りりこは、身体の空虚さを埋めるように周囲が期待するように、周囲の欲望を満たすように行動します。インタビューでは「あんたたちそう思いたいでしょ?/だからあたしが言ってやるのよ」という形です。りりこの身体は「他者の欲望」の具現であり、その行動も「他者の欲望」の具現です。りりこ自身は身体においても行動においても空虚であり、だからこそ万人の羨望を集めるスターなのです。そして、一般の人々はその「他者の欲望」を具現するスターを求め続けます。ジジェクの「「幸福」とは、その欲望の帰結と充全に対面することができないか、あるいはその覚悟がない主体に依拠している」という言葉をひくならば、一般の人々は「幸福」のために自分の欲望が空虚であること、自分は自分のしたいことを知らない、ということを知りたくない人のことです。この作品のラストの近くでの「みんな何でもどんどん忘れてゆき/ただ欲望だけが変わらずそこにあり そこを通りすぎる/名前だけが変わっていった」という記述はまさにこうした関係を示していると思います。


 最後に、この作品はまさにラカンの理論を背景にして書かれたとしか思えないような作品です。ここではジジェクのことを何回か持ち出しましたが、ジジェクが読めば大喜びするような作品ではないでしょうか?(ほんと読ませたい)そして、岡崎京子は現在リハビリ中でこの作品の単行本化にあたっても一応チェックしたといいますが、岡崎京子が7年近くの沈黙を破って再びマンガを書くことがあるのでしょうか?期待もあるのですが、なんかその作品を読むのが少し怖い気もします。


ヘルタースケルター (Feelコミックス)
岡崎 京子
4396762976