ピム・フォルタインの示した”寛容のパラドックス”

 ジジェクの『「テロル」と戦争』に、2002年の5月に暗殺されたオランダの政治家、ピム・フォルタインが取り上げられている箇所がありますが、このフォルタインというのは非常に注目すべき人物。日本ではあまりほとんど報道されず、知っている人も少ないと思いますが、彼の思想と行動は現在のリベラルの限界と無効性を鋭くついています。


 彼はいわゆる右翼的なポピュリストと見られていた政治家なのですが、ジジェクに言わせれば彼は「彼は、その個人としての特質またその(大方の)見解がほとんど完全に政治的に正しい−PC−右翼ポピュリスト」なのです。彼はゲイであり、多くの移民者と良好な個人的関係を保ち、マリファナの売買や安楽死、売春などを容認した“寛容”な人物でした。そして「オランダはもういっぱい」というスローガンを訴え、移民の制限を主張して、政党を結成。彼は選挙戦の最中に暗殺されてしまいますが、その政党“フォルタイン党”は26議席を獲得し、議会の第2勢力へと躍進したのです。


 そして、特に注目すべきなのは彼の移民、特にイスラム系の移民を制限しようとするときに使うロジックです。例えば、彼はイスラムグループの指導者とのテレビ討論番組では、フォルタインがゲイであることを不道徳であると激しく詰問する相手のゆがんだ表情がテレビに大写しになった直後、彼はカメラに向かって、「ね、こういうことなんです。みなさんわかりますね」とだけ言って、いかにイスラム社会が非寛容な文化であるかということを示して見せたといいます。つまり、今までは移民を受け入れる側の主張であった“寛容”という概念を逆手にとってイスラムの後進性を訴えるのです。彼に言わせれば「イスラム教は時代遅れ。党が移民の受け入れを規制する政策を掲げているのは、イスラム教がゲイやレズビアンを受け入れていないことが理由のひとつになっている」という訳なのです。


 この“寛容”という概念の問題点については、馬場靖雄が『反=理論のアクチュアリティー』という本の中の「二つの批判、二つの「社会」」という論文でも問題にしており、彼はその中で次のように述べています。

 「単一の価値観の専制を排除して多様な価値観の共存と互いに対する寛容さを称揚する態度(「<大きな物語>などない」)自体が、逆に排他的な非寛容性をもたらしかねないということは、冷戦後の今日ではもはや常識に属している。「原理主義者」に対する苛烈な非難・攻撃が、まさにこの寛容の名においてなされていることを考えてみるだけで充分だろう。多様性を承認し、固定的なアイデンティティにはこだわらないという態度こそがアイデンティティと化し、他者を攻撃する根拠として用いられる可能性が常に存在しているのである。」


 “われわれ”という言葉が常に他者との対比でしか示せないように、“寛容”という言葉もつねに“非寛容”との対比が暗黙のうちに差し込まれているのです。つまり“われわれ”が“寛容”なのは、“非寛容な他者”がいるからです。


 このような問題は何も“寛容”という言葉についてのものだけではありません。例えば、アメリカがテロリストから守ろうとする“自由”というものも、これと同じものでしょう。“自由”を守るためのテロリストの戦いの中で、中東地域やアフガニスタンでの“自由”は奪われ、国内の自由でさえ抑圧されているわけです。


 東浩紀大澤真幸の対談『自由を考える』で、東浩紀は国民の安全だけを保障する最小国家(つまり夜警国家のこと)が、最大国家となってしまう事態が出現したと述べていますが、このことなども今までの概念が無効になってしまった例の一つでしょう。「国家は国民の安全だけを守るべきだ」という、消極的国家の概念は、もはや国家の肥大化を防ぐものとはなり得ないのです。


 新しい世界の変化に対する新しい批判の概念が見つからないという中で、現在流通している“正しい”概念を、今一度考えてみる必要があります。


「テロル」と戦争―“現実界”の砂漠へようこそ
スラヴォイ ジジェク Slavoj Zizek
4791760239


反=理論のアクチュアリティー
馬場 靖雄
4888486328