『めぐりあう時間たち』の愛のかたち

 今月は、月のはじめに見たため少し記憶は薄れたけど、素晴らしい映画だった『めぐりあう時間たち』について。日記にも書きましたが、今年見た映画の中ではNo.1、それ以前にさかのぼっても、これほど緻密につくりこまれて完成度の高い映画ってのはラッセ・ハルストレムの『サイダーハウス・ルール』以来です。アカデミー賞では派手な『シカゴ』と巨匠の『戦場のピアニスト』に挟まれて、主演女優賞くらいしか取れなかったけど、個人的には作品・監督・脚色・主演女優・助演女優(ジュリアン・ムーア!)・音楽の6部門あげてもいいくらいの出来です。


 この映画は3人の女性、1923年、精神病の療養のためロンドンを引き払い、郊外の館で『ダロウェイ夫人』を執筆する作家ヴァージニア・ウルフ、1951年、ロサンゼルスの明るい一戸建てのベッドで『ダロウェイ夫人』を読む主婦ローラ・ブラウン、2001年、ニューヨークの自宅アパートで、エイズを患う親友の詩人を囲むパーティーの準備に追われる編集者クラリッサ・ヴォーンの一日をそれぞれ描いているのですが、この中で一番わかりやすいのはメリル・ストリープ演じるクラリッサでしょう。


 というのも、ジジェクによるラカン理論においての“愛”の定式、「われわれは、われわれ自身を、<他者>の欲望の対象として、<他者>に差し出し、それによって、「汝何を欲するか」の堪えがたい空隔、すなわち<他者>の欲望の開口部を埋めようとするのである」がクラリッサにはぴったりと当てはまるからです。この基本的な構造からすると、クラリッサとローラの夫は「<他者>を愛することによっておのれの空虚さを埋めようとしている」という点で一致します(もちろん、このことにある程度自覚的なクラリッサとまったく脳天気なローラの夫では大きな違いがあると言えますが)。そしてこれはきわめて一般的なメンタリティーでもあります。ですから、クラリッサの愛を受ける詩人リチャードの「僕は君のために生きてきた」というセリフ、リチャードがクラリッサの目の前で自殺するシーンがあれほどショッキングなのでしょう。ここでは「愛の“幻想”」が観客の前で粉々に破壊されているのです。


 これに対してヴァージニア・ウルフ統合失調症分裂病)なのかな?(このへんはとくに調べてません)彼女の中心にあるのは“空虚”ではなくある種の“過剰”です。ですから彼女は夫の献身的な愛を受け入れることが出来ません。もっとも、彼女はこの“過剰”によって詩人であるわけです。


 残ったジュリアン・ムーア演じるローラについては、「自分の中にある空虚から目を離すことが出来ない」という感じでしょうか。彼女は優しい夫(少しヘンだけど)、かわいい子ども、豊かな暮らしといったものがありながら、満ち足りることはありません。近所の女性が、「すべてを手に入れながら病気によって子どもだけが手に入らない」ことから空虚感に苦しめられるのに対して、ローラはすべてがありながら空虚感に苦しめられています。彼女は50年代のアメリカの郊外住宅という“幻想”に満ちあふれた空間にいながら、自分の中の“空虚”を忘れて“幻想”の中で生活することが出来ないのです。このあたりは、例えば息子のリッキーがローラに「愛には証拠がいるの?」と尋ね、それに対して「ええ」と答えるシーンにもあらわれていると思います。ローラは愛の“幻想”を信じることが出来ないからこそ、“証拠”が必要だと考えるのです。


 この映画は、『ダロウェイ夫人』という小説を下敷きにし、3人の女性の一日をうまく関連づけて鮮やかに描いてみせるだけでなく、3人の違うタイプの人間と“愛の形”を描き出している映画です。そしてこの映画は、こうした複雑な構造を、完璧なシーン構成、編集、そして3人の女優(とくにジュリアン・ムーア)とその他の脇を固める役者たちの素晴らしい演技で、圧倒的な完成度でもって描き出していると思います。


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