アルモドバル『トーク・トゥ・ハー』VSヒッチコック『サイコ』

  今月はペドロ・アルモドバル監督の『トーク・トゥ・ハー』について。この映画、とにかく映像が素晴らしく綺麗だし、音楽も非常に効果的だし(特に映画の中で歌われるカエタノ・ヴェローゾの歌は素晴らしい!)、演出もよいし、役者もよい(とくにマルコ役の人はいいし、アリシアはかわいい)。監督は『オール・アバウト・マイ・マザー』の人なんだけど、それより上の出来でしょう。ただ、この映画が好きかと聞かれると、「うーん…」ですね。


 主人公のベニグノの愛がキモイという意見は当然でしょうが、それ以前にベニグノの行為は愛とは言えないのではないでしょうか?


 15年間、母の介護をし続けたベニグノはアパートの窓から見たバレエ・スタジオで踊るアリシアに一目惚れをしてしまう。ベニグノは母を亡くした後、アリシアに近づこうとするが、ある日彼女は交通事故にあい昏睡状態となってしまう。ベニグノは母親の介護経験を生かし、自ら志願し、アリシアの献身的な看護士となって彼女の介護をするようになる、というシチュエーションなのですが、20年間、母を世話し続けたベニグノが昏睡状態のバレリーナを介護するという行為は、愛というのではなくて、不在の母の<欲望>に囚われているということでしょう。つまり、「私の世話をしなさい」とい母の命令にいまだに捕らわれているにすぎないのではないのかと思うのです。


 こうした「完全な母による支配の病理」を裏テーマにしているのがヒッチコックの『サイコ』や『鳥』で、この映画と『サイコ』はひそかに平行関係にあると思います。つまり、万能の母の影響の下で、女性にたいして犯罪行為に走る男、という点でです。『サイコ』のノーマン・ベイツは、死んだ母のミイラとともに暮らし、時には母と自らの2人の人物に分裂します。彼は自らの内なる母と対話し、その母に支配されています。彼の趣味は鳥の剥製をつくることです。そして、かれは若い女性を殺します。


 このあたりの状況をベニグノに当てはめて考えると、まず昏睡状態のアリシアはミイラであり、剥製です。決して目覚めることがなく、24時間の介護が必要なアリシアは母のミイラ、つまりベニグノにとっての<主人>であると言えるでしょう。また、アリシアは剥製でもあります。母と一体化した世界に住むベニグノにとって、それは1人の人格というよりは、自分の欲望を満たすための<対象>です。ですから、ノーマンが人を殺せるように、ベニグノはアリシアをレイプできるのです。さらに、彼がアリシアと行う「会話」というものも、ある意味、自らの内なる幻想との対話にすぎないでしょう。


 けれども、この映画というかこの監督は、そうした「完全な母による支配の病理」というものに対して、どうも肯定的に思えます。映画の中で挿入される男が縮んでいって、最後には女性の性器の中に入っていくというサイレント映画なんかは、完全なる母との一体化、子宮への回帰の願望を表しているのだと思いますが、それすら、どことなく肯定されているような気がします。また、アリシアが奇跡的に回復し、しかもベニグノの行為を知らない、というのもベニグノの行為を肯定する要素となっています。


 確かに、ラストでは大きく心を動かされる映画だし、これを今年のベスト1とする人がいても納得するけど、僕は手放しには肯定できないですね。確かにベニグノがもたらしたものは“奇跡”なのかもしれません。“奇跡”を起こすには非合理な力が必要なのかもしれません(このあたりはラース・フォン・トリアーの『奇跡の海』に通じますね)。でも、これが人の心を動かす“奇跡”というのなら、ヒッチコックの『鳥』の、鳥が突然人を襲い始めるというのも同じ“奇跡”だと思うのです。息子を完全に支配しようとする母親の歪んだ欲望の現れとして。


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