主体と対象と、『ピアノ・レッスン』

 日記にもちょっと書きましたが、ハマスの最高指導者ヤシン師が暗殺されたことに対する日本のマスコミの感度の鈍さには唖然とするばかり。夕方の民放の“ニュース”はニュースとは言えないものなので仕方がないにしても、ニュースステーションでさえ、「ハルウララ武豊騎乗」よりあと。これでよく「アメリカの不公正な中東政策が〜」とか言える。むかし、フェティ・ベンスラマが『物騒なフィクション』という本の中で、ノーベル賞作家サルマン・ラシュディに対するホメイニ師の死刑宣告のファトワホメイニ師の死によって解除できなくなった、というようなことを書いていたはずですが(本自体は未読)、今回のヤシン師の殺害に関しても、これによってパレスチナ人の自爆テロを停止させることができる人がいなくなった、というようになる可能性もあると思うのです。(ラシュディに対する死刑宣告については1998年にイラン政府がファトワの実現を要求しないことを発表しましたが、1999年に別のイスラム指導者が殺害に懸賞金を懸けているようです。)


 この話題については『物騒なフィクション』未読のため、これくらいにしておいて、今月はビデオで見た『ピアノ・レッスン』について。この映画は何といってもマイケル・ナイマンの音楽が有名ですし、海辺に置かれたピアノなどの印象的なシーンがありますし、主演女優のホリー・ハンターの演技も素晴らしい(特に指切られたあとの表情は絶品)!など見所は多いのですが、ここではこの映画のそれぞれの人物とその愛のかたちを見てみようと思います。


 主人公のエイダ(ホリー・ハンター)は6歳のときに話すことをやめたスコットランド女性。娘のフローラ(アンナ・パキン)を伴い大切なピアノとともに、農夫の夫ステュアート(サム・ニール)と見合結婚のためにニュージーランド南端の島にやって来る。ところがピアノは家に運べずに海辺にうち捨てられ、マオリ族の入れ墨をした無愛想な隣人ベインズ(ハーベイ・カイテル)がピアノを手に入れる。エイダはピアノを弾くためにベインズの元に通うことになる。というのが映画の舞台設定です。


 まず、注目すべきはエイダが言葉を話さないということです。娘とこそは手話で話しますが、エイダは“自閉”している存在です。彼女は他者とのコミュニケーションをほとんど求めず、ピアノを弾くことだけによって自らの感情を表現します。このエイダに対してベインズは欲望を抱くわけですが、その“欲望”は変態的とも言えるもので、エイダに対してピアノを返す代わりに「体に触らせろ」とか「服を脱げ」などと命じます。ここでベインズは完全にエイダを“欲望”の<対象>として扱っているわけです。


 しかし、このことがエイダに変化をもたらします。今まで触られることすら嫌がった夫のスチュワートに対して愛撫を行うようになるのです。ただ、あくまでも愛撫を行うだけであって、スチュワートがエイダを愛そうとするとエイダはそれを拒絶します。つまり、ベインズに<対象>として扱われたエイダが今度はスチュワートを<対象>として扱っているのです。この関係は、まさにラカンの「人間の欲望は<他者>の欲望である」を表していると言えるでしょう。エイダは<他者>の欲望の<対象>となることで、自らも欲望を持つ<主体>になったとも言えます。また、裏切りを知ったスチュワートがエイダの指を切り落とすという行為も、エイダを自分の所有物、つまり<対象>として扱うものでしょう。この映画では3人がそれぞれ互いを<対象>として扱おうとするところに破局の要因があります。


 さらにこの破局が「悲劇」のレベルまで引き上げられるのは、エイダが自らの欲望をあきらめないからです。ベインズは早々に自らの欲望が恐ろしくなり、エイダのことをあきらめますが、エイダはベインズと一緒になるという欲望をあきらめません。そして、ついに夫のスチュワートに「自分の意志が怖い」と告げ、ベインズとともに島を出ていくのです。


 なぜ、エイダは自らの欲望をあきらめなかったのか?それについてはエイダが言葉を話さないということが一つの考えを提供してくれると思います。ラカンによれば言葉を覚えることは、“母の不在”を言葉という“虚構”で埋めることであり、一種の断念でもあります。人間は“完全な母”をあきらめ言葉を話すようになるのです。こういうふうに考えると、最後にエイダが言葉を覚えようとしているシーンというのも印象的です。“自閉”していたエイダは、ベインズの欲望を受け、そして最終的には言葉を覚えることで、ふつうの人々と同じような<主体>になったといえるでしょう。まあ、少しラカン的すぎる解釈ですが。


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