BUMP OF CHICKEN/ユグドラシルに広がる世界

 2002年の2月のこの欄で、BUMP OF CHICKENについて、「Mr.childrenの歌詞のように、内省する自分をさらに客観的に観察するような詩を書けるようになってくるともっとよくなってくる」と書いたのですが、その後の曲とアルバム「ユグドラシル」を聴いて、その考えを訂正したいと思います。


 まず、シングルの「ロストマン」を聴いたときに感じたのですが、バンプは“エモ”だと思います。この“エモ”っていうのはアメリカのロックのある種のジャンルで、“エモーショナル・ロック”の略です。現在では範囲が広がりすぎて具体的に「これだ」というのは難しいんですが、人生についての激情がほとばしるようなタイプの曲です(必ずしも激しい曲とは限らない)。で、この“エモ”ってジャンルなんですが、日本のバンドに当てはめるとぴったりくるのがバンプだと思います(OCEANLANEなんかはいかにもエモっぽい音作りですが、別に“エモーショナル”ではないし、アジアン・カンフー・ジェネレーションはパワーポップだと思う)。だから、「客観的に観察する」というような詞は、ちょっと違うのかもしれません。


 そしてもう一つ、今回の「ユグドラシル」で気づいたミスチルとの世代的ともいえる違いがあります。それは“レム”という曲なのですが、2ちゃんねるで「2ちゃんねらーの歌だ!」といわれた、この曲の冒頭にはこんな歌詞があります。

狂ったふりが板について 拍手もんです 自己防衛
それ流行ってるわけ? 孤独主義 甘ったれの間で大ブレイク


 この出だしの歌詞を読むと、ミスチルとかでもありそうな歌詞なんですが、ミスチルのファンならこの歌詞を見てアッパーな感じの曲を想像すると思います(”everybody goes”とか“タイムマシーン”みたいな感じ)。ところが、バンプのこの曲は、ほぼアコギの弾き語りという非常にしんみりと語りかけるような曲なのです。


 ミスチルの場合。こうした曲に一貫して流れるのは自分と社会に対するシニシズムで、そうした中でも“愛”とか“きみ”とかへのかなり屈折した期待やロマンがあって、それが僕なんかにとってはけっこう共感できるわけです。一方、バンプの曲ではミスチルに見られたシニシズムは全くと言っていい程なく、「世界とまっすぐに向き合いたい/べきだ。」という一貫したテーマというべきものがあります。


 ここで「世界とまっすぐに向き合いたい」と書きましたが、この「世界」というのがバンプの歌詞の上でポイントとなる言葉だと思います。今回の「ユグドラシル」では、具体的な社会への言及といったものはほとんどありませんし(引きこもりに向けてのメッセージみたいな歌詞はあるけど、そこで学校とか仕事がらみの具体的な社会制度が出てくることはない)、歌詞に登場する「きみ」に関する描写といったものもほとんどありません。歌詞に描かれるのは、とにかく“自分”と“世界”なのです。


 こうした感覚というのは時代的なものでもあって、漫画やアニメ、ノベルズなどには「セカイ系」などと称される一群もありますし、東浩紀が今の風潮として「きみと僕的な身近な人間関係、社会的なもの、自分と世界や神との関わり、といった中で社会的なもののレベルがすっ飛ばされている」というようなことを言っていたのとも通じることだと思います。


 ただ、バンプに関しては昨今の流行の「純愛」にも背を向けていて、「ユグドラシル」の歌詞カードに登場する「愛」という文字は、僕が調べた限りでわずか6回、しかも恋愛的な意味で使われている部分はありません。アルバムのラストを飾る“ロストマン”のラストでは「愛する」という言葉が次のような形で使われます。

君を忘れたこの世界を 愛せた時は会いに行くよ/間違った 旅路の果てに/正しさを 祈りながら/再会を 祈りながら


 現代という時代に対してミスチルが「屈折」というスタイルで対抗しているとすれば、バンプのスタイルは「禁欲」では?という気もします。


ユグドラシル
BUMP OF CHICKEN
B0002KVDCM