斎藤環『フレーム憑き』読了、『ほしのこえ』

 斎藤環の『フレーム憑き』を読了。映画についての文章が一番多くて、特に『マルホランド・ドライブ』や『イノセンス』についての論考は読み応えあり。ただ、もっと面白いのがアニメや漫画についての文章。特に宮崎駿についての絶賛しつつのあまりに核心をつく指摘については読んでて吹き出しました。あれだけの作品を生み出す巨匠作家の秘密(?)がズバリです。
 あと、漫画論も面白い。特に最後の山田花子古谷実についての文章は漫画に対する論考という枠を超えて、鋭い教育批評になっています。斎藤環は『「学校」とは、組織的に『去勢否認』を強要するシステム」だと規定し、そこに「去勢」が必要とされる社会と学校の間の齟齬を見ます。つまり、

 今や学校は、著しく均質化を志向する。「平等」「多数決」「協調性」が重視され、子供達は「誰もが完全に平等である」「誰もが無限の可能性を秘めている」といった幻想を強要される

場所なのです。そして、こうした「去勢否認のシステム」に対する対抗策を、古谷実の漫画のキャラの「キレる」という身振りに見て、次のように述べます。

 重要なことは、「世の中にはキレる人間が存在する」のでなく、「すべての人間がキレる可能性を持つ」という事実の発見である。私にとって、この発見は事実上、(「学校」によって強要される)「成熟」や「アイデンティティ」概念の少なくとも一部を無効化するものだった。「人格の成長」ということが、「人格のタイプ分類」と同様、イデオロギー的であったり症状的であったりするのは、故なきことではない。なぜなら人格は存在せず、成熟は起こらないからだ。

つまり「キレる子ども」というのは、学校的価値観が抱える幻想に対する「抵抗」でもあるのです。
 斎藤環『フレーム憑き―視ることと症候』

 夜は、この斎藤環の本でも取り上げられている『ほしのこえ』を見た。この作品は監督の新海誠がパソコンを使ってほぼ一人で作り上げたアニメーションで、結構前から話題になっていた作品ですが、ビデオ屋で見かけて借りてきました。
 この作品はわずか30分弱の短いものなのですが、非常に興味深い作品。僕が知っている中では高橋しんの漫画『最終兵器彼女』に似たテイストを感じますが、こちらのほうが短いだけに、とにかく凝縮されている感じ。
 中学生のミカコとノボルカップルというか幼なじみの、ミカコのほうが宇宙戦争(?)の選抜隊に選ばれてしまって宇宙に旅立ち、二人をつなぐのは携帯のメールのみ。そして二人の距離が離れるにつれメールが届くのも送信してから何年も経ってしまうという設定。この設定で二人の関係を唯一無二と思わせます。このへんは未だに白血病とかの使い古された設定に頼る小説なんかを遙かに超えてますね(今日始まった月9も「難病アリ」っぽいです…)。
 で、さらにこのアニメが特徴的なのは二人以外に登場人物がいないという点。ミカコは宇宙で戦争に参加するのですがその仲間とかも一切なし。あるのは二人と「世界」だけです。始まりからしてミカコの「世界という言葉がある」というモノローグから始まるこのアニメは社会とか人間とかいう雑音を一切廃して、「世界」の中での二人というのを描くわけです。そしてそれをうまく演出するのが抜群の風景描写と一編の詩のような脚本。とくにアニメだと役者の表情とかで泣かせることができないぶん、風景描写とモノローグを効果的に使っています。内容的にも最近の時代の気分というのを濃縮したような作品だと思います。

 晩ご飯は豚肉とピーマンとタマネギのみそ炒めと冷や奴