『ミリオンダラー・ベイビー』

 クリント・イーストウッドアカデミー賞受賞作。去年の『ミスティック・リバー』がかなりよかったんで、さすがに2年つづけて傑作はないかな?とか思ってもいたんだけど、これもすごい。もはやイーストウッドはすごい領域に突入していると思う。
 イーストウッド演じるフランキーという老トレーナーがヒラリー・スワンク演じるマギーという女性ボクサーと出会い、最初は冷たくあしらうが彼女の情熱に打たれて彼女にボクシングを教え、二人は成功を手にするがそこに悲劇が待っていた…、というような話。話自体はありがちと言えばありがちな話だと思うし、人を驚かせるような映像があるわけでもない。でも、前作『ミスティック・リバー』で”ギリシア悲劇”的なレベルまで行ってしまったイーストウッドは、この『ミリオンダラー・ベイビー』でも圧倒的に”物語”を見せてくれる。ギリシア悲劇とかとおなじような”普遍的な物語”みたいのを感じさせるんですよね。
 例えば、イーストウッドの描く人間には細かいディティールのようなものがあまり感じられません。フランキーもマギーも過去を抱えた人間であることは確かだけど、その過去が事細かに描かれることはないし、マギーの家族なんて深みもなんにもありはしない。モーガン・フリーマン演じるエディは確かにシブイ役ではあるけど、もはや物語の予言者といった趣です。イーストウッドが撮るのは人間の個性じゃなくて人間が出会う運命だし、個々の事件に原因を持つトラウマじゃなくて人間が生きていく上で背負っていく罪なんですよね。また、この映画では最後にフランキーはある決断をするんだけど、その決断自体がテーマなわけではない。この「決断」はほとんど「追認」に等しいもので、ある種の英雄主義とも無縁です。いかにも最近のアメリカ映画のの流行的な話であるトラウマ物語を、単なるトラウマものの語りを越えた水準で描いた『ミスティック・リバー』を見た時にもそうしたことを感じたけど、この『ミリオンダラー・ベイビー』はもっと強くそうしたことを感じさせる。
 例えば、こうした感触は人間の内面を描くことを徹底的に拒否した北野武のいくつかの作品(『ソナチネ』とか『キッズ・リターン』とか『HANA-Bi』なんか)にも通じるものがあるけど、たけしが変な日本趣味の雑音の中で失ってしまったものを、イーストウッドは完全に手に入れてる感じで、そしてさらに普遍的なストーリーへと昇華させていると思う。
 とりあえず、今年見た映画の中では間違いなく№1。

晩ご飯はナスとピーマンと豚肉の炒め物