マイケル・S. ガザニガ『脳の中の倫理』と道徳の「本能」

 マイケル・S. ガザニガ『脳の中の倫理』を読了。ガザニガは長年、分離脳などを研究してきた認知神経科学の研究者で、この本はそのガザニガが2001年に大統領生命倫理評議会のメンバーに選ばれたことから倫理問題に目を向けるようになり、そのときの経験した様々な倫理的問題を自らの専門である脳神経学の立場から語ったもの。
 「脳倫理学序説」とサブタイトルにあることから、様々な倫理問題を脳科学の面からバッサバッサと切りまくるという内容を想像してしまいますが、その中身は思ったよりも慎重で常識的。例えば、末期のアルツハイマーの患者に対して脳科学の立場から「彼らにはまったく自己意識がなく、自分が悲惨な状態になってしまったことさえわからない」と断言しながら、「どれほど脳機能が衰えようと損なわれようと,もはや人とみなさなくてよいという一線など引けそうにないと思えるからだ」と、ある種の倫理問題の割り切れなさを認めています。
 また、自由意志の問題や脳内嘘発見器の可能性、脳研究の進展から明らかになってきた自己の記憶の曖昧さなど、脳科学の知見と倫理問題のリンクするトピックスも興味深いです。
 そして、この本の中でも一番興味深いのは第4部の「道徳的信念と人類共通の倫理」の部分。第9章の「信じたがる脳」では、左脳の中に人間の信念を作り出す一種の解釈装置があることが示唆され、第10章の「人類共通の倫理に向けて」では人間の脳に共通する、他人の心を読み、同じような体験をさせる「ミラーニューロン」の存在から、人類に共通する脳に由来する道徳感情というものの可能性が示されます。ガザニガによれば、直感的な道徳的判断は人類にほぼ共通するものであり、その解釈や理由付けが文化や個人によって異なるというのです。ガザニガの文章を引用すると、

 簡単に言えば、人間は状況に対して自動的に反応している。脳が反応を生み出しているのだ。その反応を感じたとき、私たちは自分が絶対の真実に従って反応していると信じるに至る。何が言いたいかというと、こうした善悪の観念は解釈装置によって、つまり脳によって形作られているのに、私たちはそれが絶対的に「正しい」ことを示す理屈を考えだすのだ。道徳律がこうやって作られているとみなすなら、私たちは大きな課題に直面することになる。前述のジョシュア・グリーンが指摘するように「貧しい人々の苦境を気遣うことと、その気遣いが客観的に正しいと考えることは別問題」だからである。だが、結局はそれが正しいらしい。(234p〜235p)

 このあたりの考えが本当かどうかということは今後の研究にゆだねられるのでしょうが、刺激的な論考であることには間違いないです。

 そんなガザニガの本を読んでいるときにたまたまであったのが孟子のお話。今読んでる末木文美士『仏教vs.倫理』の第11章で紹介されていて中身は以下のような感じ。
 斉の宣王があるとき生け贄に連れて行かれている牛を見て、かわいそうに思って生け贄にするのをやめさせ代わりに羊を生け贄にする。周りの人は牛より羊が小さいから王はケチだと言うが,それに対して孟子は、「これこそ尊い仁術と申すもの。牛はご覧になったが、羊はまだご覧になっておられなかったからです。」と言ったというお話。
 なんかおべっかで偽善ぶった話ですけど、ガザニガの本とかからすると、この孟子の考えこそ正しいのかも。ガザニガを抜きにしてもこのお話は意外に深いような気がする。

脳のなかの倫理―脳倫理学序説
マイケル・S. ガザニガ Michael S. Gazzaniga 梶山 あゆみ
4314009993


晩ご飯は豆乳鍋→おじや