サリヴァンとラカン

 おとといに引き続き、『サリヴァンの精神科セミナー』からの引用。

 自分の役割はクライエントに対するエキスパートだと定義してある。それ以上でも以下でもない。精神医学のエキスパートであると言うに尽きる。私は患者を治療的に扱わなければならないとということだ。今さら論争する気はない。これこそ私の役割だと主張するわけだ。この役割を自分に割り当てたことによって、精神療法にとりついている二つの大きな悪を回避することができた。第一に私に対して超越的な(この世の限度を越えた)期待をふくらますという、おぞましい災厄を回避するすべを学んだということだ。それは、誰にも断然許さないことにした。以前ある患者に対して私に対する超越的な依存を許してしまったが、そのために彼は今も州立病院に入りっぱなしだ。私が提供するべきものはスキルだけである。それに尽きる。(中略)
 精神療法問題に取り組んでいる場合に非常に重要なのは転移であるが、この型の関係を堅持し、さらに確固なものにしてゆくと、その解消、その解決が、何と、私の場合、転移が出現するより先にできてしまうのだね。 (中略) (転移を扱う)われわれの強迫的過程はゆきすぎだよ。(中略)
 私の理解で私の役割とは、自分がやっていると思うことをちゃんと跡づけようとする人間であることだ。私の扱わなければならない一時的な障害以外の何事にも巻き込まれない立場だ。(306ー307p)

 こうしたサリヴァンの考え方とある意味対照的なのが、ラカンの考え。ジジェクの『イデオロギーの崇高な対象』から引用すると、

 新しい意味を生むためには、それが他者の中に存在していることを前提としなければならないのである。これが「知っているはずの主体」であり、ラカンはこの主体が転移現象の中心軸であり錨であると考えた。分析家はあらかじめ知っていると考えられる。何を?分析主体の症候の意味をである。この知はもちろん幻想だが、必要な幻想である。(280p)

 というように、転移の持つ力を最大限に利用して分析家への幻想を育みつつ患者の治療をはかることが述べられています。
 どちらが正しいと言える立場ではないですが、精神科医として多くの患者を診なければならないのなら、サリヴァンの戦略が正しいのでしょうね。まあ、とにかくこれは興味深い違いだと思います。

晩ご飯はカレーとトマト