郡司ペギオ-幸夫『生きていることの科学』は逆ソーカル論文?

 講談社現代新書郡司ペギオ-幸夫『生きていることの科学』を読み終わったんだけど、だらだらといい加減な概念が羅列してある本にしか思えなかった。
 意識や生命を解読する鍵となる概念は「マテリアル(物質)」であるという基本コンセプトは、ちょっとは興味を引くものではあるんだけど、それを説明するために繰り出される比喩や説明が酷い。
 例えば、アペオスのCM(「走りますよね、アペオスは」、「走らんよ、アペオスは」ってやつ)を例に挙げてその後の説明の部分。

 内包的規定も、外延的規定も共に、ある個人、たとえば僕が、勝手に決めるわけだけど内包的規定はどちらかと言うと主観的な取り決め、外延的規定は客観的取り決めと言っていいだろうね。僕の頭の中で、僕は内包として、こう勝手に思ってしまうけど、みんなが思う規定の仕方(外延)はこうだろうねって具合に、両者を規定する。この両義性でもって、まぁ社会性を自覚したりね。(144p)

 内包と外延ってこんな意味なのか?
 普通、内包は概念が適用される全ての事物に共通する性質を指して、外延は適用される事物の範囲とかその概念い含まれる具体的な要素を指すと思うんだけど、なんで内包と外延が個人と社会の問題みたいになる?
 確かに、具体的な要素に対してその性質といったものには主観が入りやすいというのはあるかもしれないけど、「外延=みんなが思う規定の仕方」ってのは何よ?

 最後の部分では

 本書の全体を通して、僕たちの問題は実在論との戦いであり、だけど同時に擁護だったとも言える。主体の側から、独我論的に出発、展開していく。このとき、どうしてもわたしには自由にできない何ものかが発見されるわけだけれど、そこですぐに、「だから世界は実在する」って回収のされ方はしたくない。そういった実在論は、何も生み出さず、生の現場に何も貢献しない。だから僕たちは、実在論と戦う。(264ー265p)

 とか言ってるけど、最初に「現実の現象における計算過程ってすべて物質における計算だから、プログラムの物質的状態って意味があるはずだよね。(18p)」って、冒頭で実在論を宣言しちゃってんじゃん。本当に実在論と戦うなら「すべて物質における計算」なんて言えないんじゃないか?
 「無限」の概念とかも何のためらいもなしに導入してるってことは数学的な反実在論ってわけでもなさそうだし。

 郡司ペギオ-幸夫はこの本でいわゆる科学哲学的なことを語っているわけだけど、それは哲学的な用語を適当に借りてきた思いつきや連想の羅列にしか思えない。
 
 ニューヨーク大学物理学教授のアラン・ソーカルは、ポストモダンと呼ばれる哲学者たちが、いい加減な数学や物理学の知識を乱用にしていることに抗議するために、『境界を侵犯すること:量子重力の変換解釈学に向けて』という奇妙なタイトルのパロディー論文を書いて、それを雑誌『ソーシャル・テキスト』に投稿し、そのまま掲載されてしまったことを公表し、そういった風潮を批判し、『知の欺瞞』って本を書いたわけだけど、この郡司ペギオ-幸夫『生きていることの科学』は、ある意味、理系学者がいい加減な哲学の知識を振りかざして書いた逆ソーカル論文みたいなもんじゃない?
 もちろん郡司ペギオ-幸夫のこの本はパロディでもなんでないんだろうけど、『知の欺瞞』でソーカルが批判しまくったポストモダニストたちの論文が酷かったように、この本も酷い。

 でも、それはもちろん僕の頭が悪いせいでほんとはすごい本なのかもしれないけどね。帯で養老孟司せんせいが「彼の話はむずかしい。でもその本気の思考が、じつに魅力的なのだ。」って言ってるし、茂木健一郎せんせいは読売新聞の書評で「怪物本」って薦めてますしね。

生きていることの科学
郡司 ペギオ-幸夫
4061498460

「知」の欺瞞―ポストモダン思想における科学の濫用
アラン・ソーカル ジャン・ブリクモン
4000056786


晩ご飯は麻婆ナスと冷奴