クリント・イーストウッドの「家族」観

 昨日書いた『硫黄島からの手紙』で書き残したことが実は一つあって、それは渡辺謙演じる栗林中将が最後のほうに二宮和也に向かって言う「家族とは不思議なものだな。家族のために命を捧げるつもりでいたが、いざとなると家族を想うと命が惜しくなる」というような内容のセリフ。
 まあ、ふつうに受け取れば家族のために戦っている兵士たちの心情を表すセリフってことなんだろうけど、今までのクリント・イーストウッドの「家族」の撮り方を考えると、何となくそうストレートにはとれない。
 『ミリオンダラー・ベイビー』ではおよそ考えられる限り醜悪な家族の姿を撮ってみせたし、イーストウッドの「家族」観に関してはジジェク集英社新書の『人権と国家』の中で『ミスティック・リバー』を取り上げて次のように言っている。

 映画は家族の救済を扱う奇妙なシーンで終わる。ジミーの妻アナベスは、困難を乗り越えるために家族を引き寄せる。感情に訴えかける長いスピーチによってジミーを強く信頼できる課長として褒め讃え、彼の自身を立て直すのだ。家族の安息地を守るために、必要だがつらい行為をいつでも引き受けるというものである。この象徴的な調和、間違えられた男の殺害という惨事の<止揚>は表面的に成功するようだが(最後のシーンはジミーの家族が<普通>の家族としてアイルランドのパレードを見物している様子を映し出す)、実は家族の絆の救済的な力を非常に強く非難しているといえるのではないだろうか。作品の教訓は<家族の絆はどんな傷も癒す>、家族とはもっとも恐ろしいトラウマさえも乗り越えることを可能にする安全な避難場所である…というものではなく、正反対である。家族とは、我々が行った、考えられる限りのおぞましい犯罪さえもごまかしてしまうような怪物的イデオロギー組織なのだ。カタルシスを提供するどころか、このエンディングは完全なるアンチカタルシスである。(57ー58p)

 『ミスティック・リバー』のラストに関してはもうちょっと別の見方もあるんだけど、ある種の家族の恐ろしさが出ているという点は同意。
 で、こうしたイーストウッドの「家族」というものを考えると、冒頭に引用したセリフにも「家族」のために戦争が引き起こされ、「家族」のために硫黄島ではこんな狂った戦争が続けられている、というふうにも感じてしまうんですよね。

人権と国家―世界の本質をめぐる考祭
スラヴォイ ジジェク Slavoj Zizek 岡崎 玲子
4087203670


晩ご飯はコロッケとトマト