1968年の必然的行き詰まりとしての2ちゃんねらー

 絓秀実『1968年』(ちくま新書)を読了。面白い部分もありながらも、ここで語られている「1968年の可能性」とやらにはやっぱり無理があると思う。
 著者は1970年の「七・七華青闘(華僑青年闘争委員会)告発」を「1968年」の意味と可能性を表すものとして大きく取り上げています。「七・七華青闘告発」というのは、在日中国人の団体が日本の学生運動における差別的体質を指摘したもので、著者によれば、この告発によって全共闘の学生たちの運動が「ナショナリズムナルシシズム」にすぎないことが暴露され、その後の狭山事件など、新左翼がマイノリティ問題へと向かう契機となったと言います。
 そして絓秀実は、

 六〇年の安保ブント以来、日本の新左翼は、ソ連共産党(あるいは、中国共産党)に代わる、「歴史」の(つまり世界革命)の最前衛であり「主体」であることを自任してきたはずであった。それが日本の新左翼の、かけがえのないアイデンティティーであった。華青闘告発は、そのようなナルシシズムを完膚なきまでに打ち砕いてしまったのである。
 それに代わって多種多様なマイノリティーあるいはサバルタンと呼ぶべき、不可視だった存在が「歴史」の「主体」として浮上してきた。日本という狭い領域ぶ限っても、「在日」中国人・台湾人、「在日」韓国・朝鮮人は言うに及ばず、アイヌ琉球人、被差別部落民、障害者、性的マイノリティー等々、そして何よりも女性が、それである。彼ら/彼女らが、七・七を契機として、一挙に歴史の「主体」として浮上してきたのだ。(193p)

というように「七・七華青闘告発」の意義を総括しています。
 が、しかし、この「マイノリティーこそ「主体」である」的な考えっていうのは、確かに歴史的背景などを考えればある意味「正しい」ことではあるんだけど、一歩間違えれば単なる「不幸自慢」になってしまうし、あるいは不幸なものに寄り添うという、かなり「偽善」的な行為を生み出すだけという気がする。
 抑圧されているものこそが「主体」であるという理論は、結局「より抑圧されているものがえらい」、ということになりかねず、「じゃあ、抑圧されていないものは無価値なのか?」ということにもなりかねません。
 そして、ここで気づくのは、ここであげられている「在日」、「被差別部落民」、そして場合によっては「障害者」と「女性」が、最近閉鎖騒動も起きている2ちゃんねる脊髄反射的に叩かれている象徴だということ。
 確かに「1968年」とういうのはその後も影響を及ぼしていて、この「マイノリティーこそ「主体」である」という考えは論壇などではかなり力を持ったものなのでしょう。でも、その結果として、正しさ云々ではなく、こういった対象に生理的な嫌悪を抱く人々をも生み出したのではないでしょうか?
 この嫌悪感いうのは単なる嫌悪感というよりも、自分が「不幸でない故に不幸である」という、「マイノリティーこそ「主体」である」的価値観のなかで生まれてくるいびつな感情のような気がします。

1968年
〓 秀実
4480063234


晩ご飯は豚汁