ドナルド・デイヴィドソン『主観的、間主観的、客観的』読了

 ドナルド・デイヴィドソン『主観的、間主観的、客観的』を読了。
 デイヴィドソンを知らない人にとって、「主観的、間主観的、客観的」なんてタイトルを聞くと、いかにも固くてつまんなそうな本に思えるでしょうが、これがなかなかスリリングでラディカルな本です。
 この本はデイヴィドソンの第3論文集で、第2論文集の『真理と解釈』の問題意識をさらに発展させたものになっています。中心となるテーマはは「自分の心に関する知識」、「他人の心に関する知識」、「共有された世界に関する知識」の3つの知識の内容とその相互関係です。

 古来、哲学者は「自分の心に関する知識」を確実なものと考えそこから2つの知識を導きだすか,逆に「共有された世界に関する知識」こそを正しいものとしてそこから2つの知識を導きだすかで議論を重ねてきましたが、デイヴィドソンによればどちらか優位と言うというものではなく、これらは密接に絡み合っているものです。それをまとめてあるのが最後の第14論文「三種類の知識」の最後の部分。

 もしも、他人が何を考えているか分からなければ、私は、自分自身の思考をもつことも、したがってまた自分の思考の内容を知ることもできないだろう。もしも私が、自分が何を考えているか知らないならば、私には他人の考えを推定する能力がないことになるだろう。他人の心を推定できるためには、私は他人と同じ世界に住んでいなければならず、その世界の主立った特徴(価値を含めた)に対する反応を共有していなければならない。それゆえ、世界について客観的な見方をしても、自分自身との接触が見失われる恐れはない。三種類の知識は三脚を成している。足が一本でもなくなれば他の二本も立っていられない。(338ー339p)

 こうした知識の獲得の仕方をデイヴィドソンは比喩的に「三角測量」と呼ぶのですが、このアイディアはウィトゲンシュタインの「私的言語の不可能性」の議論などを受けたものでもあり、第5論文の「不確定性の主張と反実在論」には次のように書かれています。

 私の考えでは、,客観性の究極の源(根拠ではない)は、間主観性である。他人とのコミュニケーションに携わっているのでないかぎり、まちがっている(ひいては、正しい)という考えの拠り所になるものは、我々の発言のうちにも思考のうちにも、まったく存在しない。思考とコミュニケーションの可能性は、どちらも、私の考えでは、複数の生物が、共有された世界からの、また相手からの入力に、おおむね同時的に反応するという事実に依存している。
 (中略)
 ウィトゲンシュタインが強く示唆したように、第二の人物がいなければ、ある反応がまちがっているとか、ひいてはまた、正しいとかいう判断には、いかなる基礎もない。(140ー141p)

 このようにこの『主観的、間主観的、客観的』は、『真理と解釈』などでは見えにくかったデイヴィドソンウィトゲンシュタインの関係がうかがえる内容であり、手堅い中にもデイヴィドソンの思考のラディカルさがうかがえる内容になっています。

 この他にも心に関する「非法則的一元論」の議論も以前の論文よりも分かりやすい形で示されていると思いますし、清塚邦彦の書いた解説「外部主義と反還元主義」もデイヴィドソンクワインの違いを知る上で非常に有益です。

主観的、間主観的、客観的 (現代哲学への招待―Great Works)
ドナルド・デイヴィドソン
4393323076


晩ご飯は麻婆豆腐とキュウイ