昨日(http://d.hatena.ne.jp/morningrain/20070917)のつづきです。
昨日の日記で紹介した手紙を見てもわかるように池袋通り魔殺傷事件の造田博容疑者は明らかに普通の人とは違う精神構造をもった人物です。
また、外務省などに送りつけた手紙を見れば、この変わった精神構造が犯行前からあったこともうかがえます。
その後も、『池袋通り魔との往復書簡』の筆者である青沼陽一郎氏に造田博はさまざまな手紙を送っているのですが、決まり文句のように書かれるのが「私の思ったことを適当に書いただけなので、あまり深刻に考えないで下さい。」、「長いのでボールペンで消しているところがあります。」という文章。前者は一種の責任回避ともとれなくはないですが、後者が毎回のように登場する理由は謎です。
ただし、個人的にはこのあたりに統合失調症の気配のようなものを感じます。専門家ではないので文章については詳しくわかりませんが、統合失調症を発病する人の特徴として同じフレーズの言葉をよく使う、というのが個人的な経験からあると思うのです。
また、造田博教なる妄想も、笠原嘉『精神病』(岩波新書)の「残遺状態」についての次のような記述を読むと少し納得がいきます。
そういう元気のなさに加えて、この場合ちょっと気になる行動をすることもよくあります。たとえば、少々奇抜でわざとらしい服装やアクセサリーを好んで身につけたり、たいていはきわめて個人的で他者と共有されることのむずかしい奇妙な信念や進行をひそかに抱いたり、また独自の語呂合わせや彼一流の言い回しや癖のある文字にこだわった文章を書いたりします。(97p)
『池袋通り魔との往復書簡』で青沼陽一郎は事件の動機を探ろうと、造田博に何度も手紙を出すのですが、事件に関しては要領を得た返事は返ってこず、相変わらず奇妙な妄想が繰り返されるだけです。
このあたりに関しても、笠原嘉『精神病』の統合失調症患者(この本ではまだ「分裂病」表記です)の病識についての記述が参考になります。
その彼に対して私が「あのときはどうしてあんあふうに行動したのだろう?」と話の流れを病中のことに向けたとしたら、彼はたぶん多くのことを説明できないでしょう。せいぜい「どうしてそうなったのかよく覚えていない」と困った顔でいうだけでしょう。彼が例外ではない。たいていの患者さんがそうなのです。(53ー54p)
このように事件がもし発病中に起きたものならば、自らの犯罪についてきちんと説明できないのも理由のあることなのです。
もちろん造田博に対する精神鑑定は行われていて、その結果は「精神分裂病であるとは確定的には言えない」というもので、同時に「犯行前の数年間に精神分裂病の辺縁群である疾患に罹患していた可能性は否定も肯定もできない」という何とも曖昧な意見もついています。
精神鑑定において統合失調症(精神分裂病)との断定がされなかった理由として、『池袋通り魔との往復書簡』では次のようなことが書かれています。
しかし、幻覚や妄想、作為体験などの異常体験は見られず、短期間に職業を転々として入るが、職に就いて一応の社会生活を送っていることからすると、精神分裂病であるとの診断はできないとするものだった。特に、新聞配達という早朝の仕事をこなしていたことは、朝起きられない、意欲の鈍化といった分裂病の陰性症状と合致しないことが理由とされる。(218ー219p)
職を転々といっても給料ももらわずに辞めてしまうこともたびたびで、朝強かったからというような理由で統合失調症の可能性を否定してしまうのもどうかとは思いますが、たぶん2人を死亡させ、6人を負傷させたという凶悪な通り魔事件において被告人を免責する「統合失調症」との判断は下せなかったのでしょう。
もし、3人が怪我という程度の事件であれば、おそらく造田博は統合失調症と判断されたのではないでしょうか?
エントリーの「無罪では?」というのは多少大げさですが、彼の精神状態から見て、刑法第39条の
規定があるかぎり、造田博が死刑というのはやはりおかしい気がします。
そして、2009年から始まる裁判員制度において、裁判員が精神鑑定の採用不採用を決めることがあるのか?精神医学の知識がない一般の人が統合失調症の人などについて適切な判断ができるのか?というようなことも考えてしまいます。
池袋通り魔との往復書簡 (小学館文庫)
青沼 陽一郎
精神病 (岩波新書)
笠原 嘉
晩ご飯はチンジャオロースと冷奴