イアン・エアーズ『その数学が戦略を決める』読了

 イアン・エアーズ『その数学が戦略を決める』を読了。
 ローレンス・レッシグの本とか、ロンボルグの『環境危機をあおってはいけない』とか、非常に論争的で斬新な考え方の本を翻訳して紹介してくれる山形浩生ですが、この本も非常にラディカルな考え方を打ち出している本。
 「絶対計算」と呼ばれる大量のデータを用いいた統計分析がさまざまな分野で新しい物事の捉え方を発見しており、その「絶対計算」が各業界の専門家を打ち負かしつつあることが述べられています。


 この手の統計はレヴィットとダブナーの『ヤバい経済学』なんかでも使われていて、この本でもレヴィットへの言及があったりするのですが、レヴィットはその考え方が余りに独創的なため、この手の統計が一部の天才的な経済学者だけが使っている方法に見えてしまいます。
 ところが、「絶対計算」はアメリカ社会の隅々にまで進出しつつあり、ワインの出来不出来から、野球選手のスカウト、政府の失業対策、映画の脚本、医療や教育にまで進出しつつあるのです。


 ネタ的には成功する野球選手や興行収入を上げる映画の脚本が統計によって分析でき、映画の脚本についてはどのような要素を入れればいいかというアドバイスまでするといった話に目が向きますが、今までの専門職の神話を完全に打ち倒してしまいそうなのが医療と教育の分野における「絶対計算」の進出。
 医療現場において「手を洗う」などの単純な手続きをデータ分析に基づいて行ったところ、死者が大きく減少したという話は、まあ抵抗なく読めると思いますが、その後に続くのは診断や治療法も医者が自らの知識や経験に頼って行うよりもコンピューターにデータを入力して行った方が的確だという話。「医療は仁術」などと言われ、医者の職人的な経験が尊ばれる日本では想像しにくい御話ですが、アメリカではすでに「イザベル」という名前の診断ソフトが導入されつつあり医者の見落としがちな可能性を的確に指摘しているそうです。


 さらに教育。
 教育の世界で、「絶対計算」が推奨するのはダイレクト・インストラクション(DI)と呼ばれる方法。本文から説明を抜き出すと

 ダイレクト・インストラクションは、教師を脚本にしたがわせる。授業はすべて ー 「指を題名の下において」といった指示も、「続けて」といったうながしも ー キュオしようのマニュアルに書かれている。発想としては教師に、理解しやすい細かい概念として情報を提示させるように強制し、そしてその情報が本当に咀嚼されるよう確認するということだ。
 それぞれの生徒は、毎分最高10個の答えをするように呼びかけられる。教師一人でどうやってそんな事を?大事なのはペースをすばやく保って、生徒に一斉に答えさせることだ。脚本は生徒に答えさせる前に「よーい!」と言って、先生が合図したら教室のみんなが同時に答える。生徒の一人一人があらゆる質問に答えさせられることになる。(216p)

 このように書くと、「どうせ効果があるって言っても、暗記力が上がるくらいだろ」と誰もが思ってしまうと思うんですが、このダイレクト・インストラクションの教育を受けた生徒たちは、読み、書き、計算だけではなく、思考力、文脈を読む力、自尊心の育成にいたる幅広い分野で他の教育法を上回ったというのです。
 懸命に授業の準備をして独創的で子ども中心の授業をこころがける教師たちの教育が、何も準備をせずに脚本通りに指示を与えるだけの教師の教育に負ける。教育の現場では「あってはならない」ようなことですが、データにしてみれば、これが現実らしいのです。

 
 前の医療の分野も含めて、この本で主張されるのは「現場の専門職の裁量をなくし統計データに従わせた方が正しいことが行われる」という、いささかショッキングな事実です。でも、これはいずれ世の中に浸透してくる事実なのでしょう。
 この事実がどれほど今までの社会を塗り替えるかということはわかりませんが、これからの社会を考える上での必読書とも言えるのではないでしょうか。


その数学が戦略を決める
イアン・エアーズ 山形 浩生
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