東浩紀の懸念に関しては斎藤環が否定している

 はてブでも注目を集めている東浩紀の次の記事
 http://www.hirokiazuma.com/archives/000368.html

 児童ポルノの単純所持の禁止をめぐって、「児童ポルノの所持はポルノ制作者への金銭の移動を意味する、それは間接的に児童の性的搾取の支援になっている、したがって禁止すべきだという論理」には説得力があり、「マンガやゲームまでひっくるめての禁止があまりに非現実的」だが、実在のモデルのいるものに関しては単純所持の禁止も止む得ないだろうと述べた上で、

 http://gigazine.net/index.php?/news/comments/20080206_not_photos/
 のあまりなリアルのCG画の存在に触れ、CGによるきわめてリアルな児童ポルノが登場した場合、多くの人々が実在のモデルがいないCGなどの規制などに走るのではないかと危惧する内容になってます。


 全体の理論は非常に説得的でいろいろと考えさせられる文章ですが、CGによるポルノの可能性についてはどうでしょう?
 これについては斎藤環が『メディアは存在しない』の中で否定的に述べています。

 『ファイナルファンタジー』の偉大なる失敗を踏まえて、あえて断言するのだが、俳優に至るまでフルCGの映画作品が成功することは、少なくとも今世紀中には不可能であろう。(31p)

 斎藤環は、CGが「人間」を描くときに特に「顔」と「手」の動きに困難があり、CGが「人間」ためには「思想的な飛躍」が必要であると述べています。
 そして、斎藤環がCGの限界を示すためにあげる例がまさにポルノです。

 ここで部分的に結論を先取りしておくなら、CG」の限界の一つに「フェティッシュを描きえないこと」が挙げられるだろう。言い換えるなら、われわれはCGで描かれたキャラクターに「転移」すなわち感情移入を行うことがきわめて困難なのだ。
 話はいささか下世話になるが、端的でわかりやすい例を出そう。メディア・テクノロジーの進化を陰で確実に支えていたものにポルノグラフィーの存在がある。
  (中略)
 私が問題にしたいのは、CG表現が二〇年以上の歴史をへているのにもかかわらず、いまだに固有のポルノ表現を獲得していないという事実だ。(36ー38p)

 このあと、韓国でつくられたフルCGのAV、「Love@House」をとり上げ、「これほどアンリアルな性愛描写は稀だ」と述べていますが、これはこの作品を見ていなくても納得できる感覚なのではないでしょうか?
 確かにCGは実在の人物の如き静止画を描くことは出来ますが、それを人間のように動かすことは出来るのか?また、静止画であっても実在の人間と同じように感情移入、あるいは欲情出来るのか?と考えると、疑問符がつくと思うのです。


 もちろん、東浩紀の懸念はもっともな部分がありますし、CGによるAVの例が否定されたとしてもなお考えるべき問題を含んでいますが、とりあえずCGによるポルノの可能性については、斎藤環の否定的評価の方が正しい気がします。


メディアは存在しない
斎藤 環
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