豊永郁子『新保守主義の作用』読了

 政治学は未来に開かれた世界として世界を認識する。
 政治学は、現象の背後に働く力に目を凝らす。現象を構成する実現された力ではなく、実現する力を、従ってせめぎ合う力同士の間で、いまだ局所的なものでしかあり得ない力を凝視する。
 政治学は、ある時点に働く力を見つめる。この力を筆者は「作用」と呼ぶ。その力は未来を規定する一方で、次の瞬間には他の力によって打ち消されているかもしれない力である。(そして、その”他の力”を、我々自身が起こし得る。)その力には論理と大きさがあり、またその時々において作用域を異にする。(作用する範囲とまだ力が及ぼされていない範囲とがあり得る。)どのエイジェントによって担われるかも、その時々において変わり得る。その力は、作用する領域の地勢に阻まれ、あるいは加勢される。地勢そのものが作用の束となって、力が我々の前に表す大きさを決める。

 これは冒頭の「まえがき」に書かれた筆者の「政治学観」なんですけど、この政治の「作用」という実例を、新保守主義がうたわれた中曽根政権、「第三の道」を掲げたブレア政権、そしてネオコンが政権を握ったとされるブッシュ政権について分析してみせたのがこの本。
 著者の豊永郁子はデビュー作の「サッチャリズムの世紀」でサントリー学芸賞を受賞した気鋭の政治学者で、個人的にも「サッチャリズムの世紀」がものすごく面白くて次回作を期待していたんですが、今回も政治学の本としてはあり得ないくらいに面白い本です。
 「サッチャリズムの世紀」からは10年振りくらいとなる本なんですが、実はこの筆者の豊永さんはチャーグ・ストラウス症候群という病気になって苦労されたみたいで、病気を乗り越えて再び政治学の名著を送り出してくれた事も喜びたいですね。 

 
 第1部が描くのは日本の中曽根政権による「新保守主義」とその改革が不徹底に終ったあとに起こったコーポラティズムの動きとその挫折。
 第1章の中曽根論も面白いですが、なんとっても面白いのはNTTの分割政策に焦点を当て、コーポラティズムの挫折と「社会民主主義勢力の消滅の瞬間を確認する」(まえがき4ページ)第2章の面白さは出色。
 89年の参院選と連合の発足以来、政治勢力としての連合は非自民連立政権成立に大きな役割を果たし、コーポラティズム的な政治が出現します。しかし、その動きは社会党の左派を切り離そうとする「排除の論理」などから迷走を始め、ついに自民・社会・さきがけによる村山政権の成立を見ます。
 そのような状況の中で政治上の問題となったNTTの分割論争は、分割に反対する全電通といった労組の自民党と、自民の政治家への接近を招き、1996年の衆院選ではついに全電通自民党の政治家を支援すると言った事態を生み出します。そして結果的には労組は政治の舞台から疎外されていき、コーポラティズムへのシナリオは頓挫する。この流れを鮮やかに描き出す筆致は、今までのこの時期を論じたものにはない説得力を備えています。


 第2部はブレア政権についての分析。
 ブレアがメイジャー以上にサッチャリズムを受け継いだ政治家であり、政策的にもサッチャリズムを押し進めたものである事が示されます。
 ここでは詳しい内容はとり上げませんが、この第2部も細かい分析が行き届いていて非常に面白いです。
 

 第3部はブッシュ政権論。
 ブッシュ政権を「活力に満ちた強いアメリカを構想する」ハミルトン主義の系譜に位置づけ、その「強いアメリカ」のポイントとして「テクノロジー」に注目します。
 小さい政府を目指していたかのように思われる初期から、ブッシュ政権は連邦予算の研究開発費(R&D)を一貫して増加させており、そこにはハイテクによって他国に対する圧倒的優位を構築しようという「テクノエンパイア」の思想が見えてきます。
 そこから著者は京都議定書からの離脱などの孤立主義的な行動、大量破壊兵器保有国への執拗な圧力などを読み取っていきます。
 個人的にもこの考えはまさにしっくりくるもので、9.11からアフガン攻撃などに関しても、アメリカの一極支配の終焉などでは決してなく、アメリカのテクノロジーの圧倒的な誇示による一極支配の顕在化と見ていた自分の考えを補強してくれるものでした。

 
 このように内容的には多岐にわたった本ですが、全体として80〜00年代にわたる政治のパースペクティブを与えてくれる内容となっており、政治学の本でありながら非常にスリリングな本です。
 とにかく政治学の本としては著者の前著『サッチャリズムの世紀』以来の面白さでした。


新保守主義の作用―中曽根・ブレア・ブッシュと政治の変容
豊永 郁子
4326301732