『ラスト、コーション』

 仕事が早めに終わったので帰りにアン・リーの『ラスト、コーション』を見てきましたけど、すごいですね、アン・リーは。『ブロークバック・マウンテン』に引き続き、またすごい作品を撮ったと思います。
 もっとも、『ブロークバック・マウンテン』よりもさらに複雑な関係を描いていて、さらにアン・リーがあえてトニー・レオンの演じるイーの内面をはっきりと描かないことで、『ブロークバック・マウンテン』のような比較的ストレートな感動ではなくて、あとからずっしり来るような映画になっています。


 同性愛という「禁断の愛」を描いた『ブロークバック』に対して、『ラスト、コーション』も殺そうというターゲットとの「禁断の愛」がテーマとなるわけですが、大きな違いはタン・ウェイ演じるワン・チアチーにとって、この愛は「禁断の愛」であると同時に「奨励された愛」でもあります。
 「ターゲットに色香で持って近づき、相手に惚れさせて情報を得る」、言葉にすれば簡単なことですが、それはあくまで机上の空論です。
 ニーチェの「怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。」という言葉にあるように、相手の心に入り込もうとする者は逆に自分の心に相手の侵入を許すことになります。


 「愛してはいけない者を愛してしまう」というテーマは非常にありがちで、今までさんざん繰り返されてきたテーマですが、ここまでその心の動きを見事に描いた作品は少ないと思います。
 ヒロインのチアチーは「祖国を守る」という大義のために、好きでもない仲間の一人を相手に処女を失い、スパイということで仲間とは離れた孤独な存在として生きざるを得ません。そして、チアチーが誘惑する相手のイーもまた中国人でありながら日本人に協力して中国人の反日活動を押さえ込むという孤独な役割を果たしている人物です。
 「暗闇の中で相手を責めることだけに生きる実感がある」というのはチアチーがイーについてしゃべったセリフですが、これはチアチーにとっても同じであり、2人は生きていることを確認するかのように互いを求め合います。
 過激なシーンが話題になっているこの映画ですが、性交のシーンを執拗に描く理由の一つはここにあるのでしょう。

 
 この愛に落ちるヒロインをオーディションで選ばれたというタン・ウェイが演じているのですが、このタン・ウェイが素晴らしいです。
 ものすごい美人というわけではないのですが、ちょっと田舎者っぽいかわいさから妖艶な美しさまでを見事に表現し、さらに複雑な心の動きも演じきっています。
 また。トニー・レオンもやや老けましたがさすがの存在感。

 
 そして最後に謎として残ったのがこのトニー・レオン演じるイーについてのこと。
 まず一つ目は、イーはチアチーがスパイだということをどこまで知っていたのか?
 香港での暗殺の失敗から何となくイーが気付いているような感じがありますが、ハッキリとは示されません。ただ、その後の3度の性交シーンを見ると、最初はスパイを痛めつけるような強姦のようなものから、チアチーが主導権をにぎるようなものへと変化していきます。
 ここに注目すると、イーは最初から知っていたが性交の中で情が移っていったということになり、あの執拗な性交のシーンはイーがチアチーを惚れさせるというより、逆にイーがチアチーに溺れていくものとして捉えることができます。
 そしてたぶんそれが正解なんでしょう。
 男根中心主義とかフェミニストから批判を受けそうなこの映画は、じつはまったく逆のことを描いているのだと思います。


 もう一つは、イーははたして本当に日本への協力者なのかということ。
 映画の所々で、イーが逆に中国側のスパイであることがほのめかされているような気もするのですが、これははっきりとはわかりませんでした。


 あまりに通俗的なメロドラマのネタを、あまりに深い映画として撮ってみせたアン・リーの凄みが伝わる映画です。