評価ができない日本

 いつも読んでるわけではないんだけど、たまたまはてなブックマークのホットエントリーになっていたfinalventさんの「アメリカは反知性主義でもあるけど」
 http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20080526/1211757112
 を読んでちょっと思ったこと。


 僕は「反知性主義」って言葉もどうかと思うし、「米人のインテリはきちんと人生の悩みというのを正攻法で向き合っている。」というのも、向精神薬のものすごい使われ方とか見ると「どうなのよ?」とか思うけど、「文学も生きている。」というのには同意せざる得ない。
 正直、日本の文学は一部を除いて縮小再生産を繰り返しているだけのような気がしますが、アメリカからはどんどん面白い作家が出てきていますからね。(個人的には日本の作家でチェックする気があるのは村上春樹阿部和重舞城王太郎くらい)


 で、これは「反知性主義」とか「知性主義」の問題ではなくて評価の問題なのではないかと。
 ひょっとしたら日本にもアメリカに負けない才能がいるのかもしれないけど、その評価に失敗しているから「文学が死んでいる」んじゃないでしょうか。
 日本の文学の王道というと芥川賞
 だいたい新人賞がもっとも注目される文学賞というのがおかしいと思うのですが、村上春樹にも高橋源一郎にも舞城王太郎にも受賞させず、阿部和重は『シンセミア』で評価が定まった後に、彼の中では非常につまらない『グランド・フィナーレ』で受賞させる始末。まったく評価の尺度として機能してないですよね。
 老人たちが「純文学」なるものを縮小再生産させているだけだと思います。


 これは映画なんかにも言えることで、日本アカデミー賞とかひどいですよね。
 アメリカのハリウッドだって「スター頼み」とか「大作の続編ばっかり」とか言われているけど、アカデミー賞になれば、メジャースタジオの思惑を超えて低予算ながらも面白い作品がノミネートされているじゃないですか。
 今年だってノミネートは『ノーカントリー』、『つぐない』、『JUNO/ジュノ』、『フィクサー』、『ゼア・ウィル・ビー・ブラッド』。もし日本のアカデミー賞のノリだったら、ノミネートは『フィクサー』はありとして、他は『チャーリー・ウィルソンズ・ウォー』とか『アメリカン・ギャングスター』とかだったでしょう。


 芥川賞でも日本アカデミー賞でも日本の評価ってのは「いいか悪いか」というよりは、「その賞にふさわしいか」といったものが中心になっていると思います。そして結果として新しいものを評価できずに、縮小再生産が繰り返されている。これが日本の現状なんじゃないでしょうか?

 
 「じゃあ、どうする?」というと難しいですね。
 今までの権威とちがうものという位置づけの本屋大賞も、いまさら伊坂幸太郎ですし、『ダヴィンチ』の読者投票とか見ると読者参加の賞も期待できない。
 ですから、おそらく鍵は編集者なんでしょうね。
 日本みたいな「新人賞に応募して」というルートをあまり聞かないアメリカでは編集者たちによって新しい作家が見いだされているわけですから。