死刑神話の終わり

 昨日は外に出ていたため秋葉原の無差別殺傷事件の詳しい報道を見ることができなかったのですが、今日、新聞やニュース、ネットなどを見て思ったのは、完全に死刑の抑止力の意味がなくなったということ。
 今年の3月に起きた土浦の連続殺傷事件でも犯人は「死刑になりたかった」と無差別殺人に走ったわけですが、今回の加藤智大容疑者も「世の中が嫌になった。生活に疲れてやった」という自暴自棄な動機。
 もはや、動機というよりは単に自殺するのが悔しかったから凶行に走ったという気すらします。


 そして指摘されていることですが、昨日は宅間守による池田小学校での児童連続殺傷事件からちょうど7年目の日。
 http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/080608/crm0806081629015-n1.htm

ちょうど7年前の平成13年6月8日、大阪教育大付属池田小(大阪府池田市)に包丁を持った男が侵入、次々と児童、教師を襲う事件が起きた。小2女児7人と小1男児1人が死亡。児童と教師計15人が重軽傷を負った。事件を起こした宅間守死刑囚=16年に死刑執行=は「大量殺人して死刑になりたい」と自暴自棄な動機を口にしていた。


 「大量殺人して死刑になりたい」
 宅間守は大量殺人を行って死刑になるという新しい自殺のやり方を確立してしまいました。
 こうした通り魔事件の犯人にとっては何人殺せるかということが水からの死を飾る勲章のようなものであり、小学生や秋葉原の通行人という、およそ犯人にとって恨みのないような人々を狙う理由も、たんにより多くの人数を殺せるからという気がします。


 死刑の抑止力というのは、宅間守によって「そんなものなはい」と言われてしまいましたが、さすがに社会もこの事実をそろそろ認識すべきではないでしょうか。
 死刑のハードルが下がっている現状からすると、通り魔事件で2人殺すことができれば、ほぼ死刑でしょう。
 ですが、その死刑という究極的な刑罰の存在は通り魔事件に対する抑止力にはならず、かえって通り魔事件を引き寄せているような気さえします。
 (このように書くと、死刑廃止論者のように思われるかもしれませんが、僕自身は死刑は究極的には存在すべきだと考えており、近年の犯罪でいうとオウム真理教麻原彰晃と北九州の一家監禁殺人事件の松永太は死刑にすべきだと考えています。)


 今回のような自暴自棄的な通り魔に対して果たして死刑に抑止効果があるのでしょうか?
 個人的には、自分の将来あるいは老後といったものにまったく期待が持てない人にとっては、死を約束してくれる死刑よりも、生かされ続けて年老いてから世間に放り出される終身刑や懲役50年とかの長期の有期刑のほうが抑止力があるのではないかという気がします。