斎藤環『母は娘の人生を支配する』読了

 大人になってから自分の父親なり母親なりと2人でどこかに出かける息子ってのはあんまり多くない気がしますが、母親と一緒に行動している娘ってのは街に出ればいたるところで見かけますよね。
 日本の家族関係の中では突出して親密に見えるこの母娘の関係、しかし親密だからこそ病理も生じやすいわけで、そんな母娘関係の病理について斎藤環が語ったのがこの本。


 本書の中でも述べられているように、女性には女性にしかわからない領域というものがあり、斎藤環も主に女性作家によるマンガや小説、心理学の本などを参照して論を進めていくのですが、その中でひときわ力強くて鋭いのが漫画家のよしながふみ三浦しをんとの対談での次の発言。(ちなみに表紙のイラストもよしながふみ

 男の人の抑圧ポイントは一つなんですよ。「一人前になりなさい、女の人を養って家族を養っていけるちゃんとした立派な男の人になりなさい」っていう。だから男の人たちってみんなで固まって共闘できるんです。男は一つになれるけど、女の人が一つになれないっていうのは、一人ひとりが辛い部分っていうのがバラバラで違うんでお互いに共感できないところがあると思います。生物学的な差では絶対にない。これは差別されている側はみな一緒ですよね。アメリカにおいて、全部合わせれば白人より多いはずのマイノリティが文化が違うから一緒になれないのと同じです。(106p)

 斎藤環も指摘しているように、この「抑圧ポイント」という言葉は鋭いと思います。
 そしてはこの発言を受けて次のように書いています。

 男性というのは、欲望という点では多様なものを持っていても、劣等感を感ずるときは驚くほど単純になる。たとえば多くの男性は、「もてない男」や「電波男」のワンフレーズで、熱く連帯できる程度には単純です。どちらも「女性に性的アピールができない」という劣等感しか共通点がないにもかかわらず、です。
 ところが女性は、ずっと複雑な共感の仕掛けを秘めた「負け犬」のようなフレーズによってすら、これほど単純に連帯することはありません。この違いはどこからくるのでしょう。(107ー108p)

 この違いの原因としてこの本で指摘されているのが「父息子関係」と「母娘関係」の違いです。非常にわかりやすく、本質的な部分を突いていると思うので引用しておきましょう。

 多くの場合、人は基本となる価値観を、まず親を通じて学びます。この点は、男も女も一緒ですね。ただし、男性にとっての父親の影響は、娘にとっての母親の影響ほど、決定的なものにはなりにくいように思います。
 なぜなら、男性的な価値規範は、しばしば父親の頭上を越えて、普遍的なもの(言葉やシンボル)とつながっている(ようにみえる)からです。だから、父親は必ずしも絶対的な存在ではありません。父親自らが示した価値規範に照らした結果、当の父親が軽蔑されてしまうということもありえるのです。
 しかし、母親の価値規範の影響は、父親のそれに比べると、ずっと直接的なものです。母親は娘にさまざまな形で「こうあってほしい」というイメージを押しつけます。娘はしばしば、驚くほど素直にそのイメージを引受けます。この点が重要です。価値観なら反発したり論理的に否定したりもできるのですが、イメージは否定できません。それに素直に従っても逆らっても、結局はイメージによる支配を受け入れてしまうことになる。母親による「女の子はかくあるべし」という、イメージによる押しつけの力は馬鹿にできないのです。(108=109p)

 
 これ以外にも、母親の献身的な態度によるマゾヒスティック・コントロールの考えや女性と身体の関係など興味深い考察もあるのですが、この本の中心となるのはこの部分でしょう。
 「国家」、「社会」、「法」といったものが父親的なものとしてみなされるのに対して、よく母親的なものとされるのが「自然」。
 でも本当に母親が「自然」の象徴だったりしたらやっかいですよね。「自然」を否定したり乗り越えたりするってのは不可能なことですから。
 まあ、この母親=「自然」っていう考えは単純すぎる気もしますが、斎藤環も指摘するように母親の影響力というのは非常に複雑で根深いものなんでしょうね。


母は娘の人生を支配する―なぜ「母殺し」は難しいのか (NHKブックス 1111)
斎藤 環
4140911115

 

晩ご飯は豚ロースのガーリック焼きトマトソースがけ