今日は紀伊國屋のサザンシアターで行われた『思想地図』発刊記念シンポジウムに行ってきました。
パネリストは東浩紀に北田暁大、宮台真司、鈴木謙介、そして姜尚中という豪華メンツ。
『思想地図』のVol1は30代の書き手が中心だったんだけど、今回は宮台真司と姜尚中という大物を交えてのシンポジウム。
いきなり、休憩も質疑応答もなくして2時間半ぶっ通しで行きますっていうアナウンスがあって北田暁大の基調報告からスタート。
以下、メモから印象に残った部分を拾って再構成してみます。
北田暁大
「公共性への動機付けとしてのナショナリズム」という概念をとり上げ、宮台真司のエリート主義的なナショナリズムと、萱野稔人や中島岳志の国民の政治参加のための「方法としてのナショナリズム」を対比。しかし、両者は思想的なものでもので動機付けを行う「内在主義」だと規定。一方、システムによって公共性を生み出そうとする東浩紀を「外在主義」とする。
北田暁大としては、収入が高い層ほど愛国心が高いといったデータから、ナショナリズムが一種の「強者の論理」となるのではないかとして、ナショナリズムによる動機付けに疑問を示す。
姜尚中
宮台真司の理想とするエリート主義は戦前の官僚制度の下である程度実現していたのでは?
しかし、30年代の草の根のウルトラナショナリズムでその体制は崩壊した。
天皇という強大な権力があった戦前に比べて、今は民主主義という体制を考えざるを得ず、むかしほど簡単には行かない。
東浩紀
宮台真司のエリートは社会全体を把握しているようなエリートだが、それは不可能では?
ナショナリズムがとり上げられるということは、政治が危機ということでもある。
宮台真司
新自由主義は国家に頼らない社会の構築を目指しており、グローバリズムに対抗するにはこれしかない。
そのため、アメリカでは「市民宗教」、フランスでは「連帯」といった伝統的なリソースが使われるが、日本にはそれがなく、「アジア主義」とかの伝統を掘り起こすしかない。
鈴木謙介
「日本のリソースって会社共同体しかないじゃん!」
東浩紀
「宮台さんは全体主義者なんですよ」
↓
宮台真司
「そうですよ!」
姜尚中
「宮台さんは理性信仰な面があると思う」←東浩紀「すばらしい!」
冷戦以後、多国籍企業や国家連合など国家以外の主権の可能性が出てきた。
宮台真司
合理性の限界を知ることが合理的。理性の限界を知ることで理性的になれる。
ムフを引用して、グローバリズムな主権に対抗するためにナションリな主権を持ち出すことが有効なことも。
東浩紀
それは否定神学的。
確かにコントロール不能な「帝国」的な主権が広がってきており、加藤容疑者を苦しめていたのも国家とかではなくて、こういった「帝国」的な主権なのかも。
宮台真司
個人をグローバリズムと直接向き合わせてはならない。
東浩紀
「現に向き合ってる!」
宮台真司
それは社会の失敗。
社会が個人を包摂していることが重要だ
鈴木謙介
「宮台さんの話を聞いても今の日本を変えるものは出てこない」
↑
宮台真司「えらそうに!じゃあ、お前にあるのか!」
東浩紀
政治に興味がなくても、その知を集められるような仕組みが必要。
人間ではなく、その断片的な知を見るような形で。
宮台真司
「断片的な知ということを語るその知はどんな知なの?」
姜尚中
例外状況に置いて、何らかのコミットメントが必要になるケースがある。
宮台真司
例外状況に備えるのがエリート
東浩紀
今の日本ではアガンベンのいうムーゼルマンはいないけど、労働のときだけなど「パートタイム的ムーゼルマン」がいる。
エリートも人格も含めたものではなくて断片的な知に可能性を見るべき。
北田暁大
エリートの役割は全体性の把握ではなく、ぬるい中間層をどう組織し動機づけるか。
宮台真司
20年前までは、「痛み」から始まる社会把握もできたが今は不可能。
「加藤容疑者の痛みから社会全体に到達できるとは思えないでしょ?」
↑
東浩紀「加藤容疑者の痛みをパートタイム的な痛みとして捉えなければ!」
ってな感じで白熱したまま終った2時間半ちょい。
特に宮台真司と東浩紀のやりとりは熱かった。
逆に北田暁大はそれにのまれてしゃべれず…。
まあ、もうちょい補足して活字にもして欲しいですね。