斎藤環『文学の断層』読了

 相変わらず斎藤環の本はチェックしていて、しかも毎回誉めているんで、なんだか斎藤環の回し者みたいな感じではあるけど、今回も次の部分には思わず唸った。

 いまやわれわれは「理解とコミュニケーション」の可能性と「変化と成長」の可能性とのいずれかを、相互排除的に選択し続けるほかないのかもしれない。もはやそれらは両立しない。コミュニケーションは変化をさまたげ、理解は成長を阻害するからだ。(190p)

 これは今の社会の現状を非常に鋭く捉えた言葉だし、「真理」だと思う。
 精神科医のアルフレッド・ビオンが患者と接する時の態度を示した名言に「感情なく、記憶なく、理解なく」というのがあって、僕は今までその「理解なく」というのを「相手をわかったつもりにならない」という単純な意味で理解していたけど、その真意は斎藤環の言う理解と成長の相互排除性にあるのかもしれない。


 いきなり、熱く語ってしまいましたが、この本は『文学の徴候』につづく、斎藤環の2冊目の文芸評論集。『文学の徴候』が作家論だったのに対して、この本では「セカイ・震災・キャラクター」とあるように、文学を取り巻く状況とその中で変化しつつある文学の姿を捉えようとした評論集になっています。
 

 冒頭にあげた言葉は、「セカイ系」と「戦争」についての文学を分析したあとの最後におかれた言葉で、高見広春バトル・ロワイヤル』、三崎亜記『となり町戦争』、村上龍『半島を出よ』などの戦争をとり上げた小説において、いずれも主人公の「成長」が描かれていないことについて注目し、さらには『エヴァンゲリオン』で示された成長の不可能性、木堂椎『りはめより100倍恐ろしい』に描かれている一種の「戦争」、「わかり合うことという」暴力についてとり上げ、そこでは人間が成長しない「キャラ」、あるいは「ゾンビ」となっているという認識の中でとりあえずの結論として述べられているものです。
 (この論の途中で述べられる舞城王太郎のキャラは「成長」を志向しているが、西尾維新のキャラは「成長」しない、あるいは禁欲しているとの指摘も興味深い)

 「「戦争」を描くセカイ系と、セカイの中で成長をやめた「ニート」たち。かつては否応なしに成長のきっかけだった「戦争」が、いまや成長回避のための場所に成り果てていくこと」(183p)と分析する斎藤環は、本秀康のマンガ『君の友だち』、絲山秋子の『ニート』、鈴木謙介の議論などを取り込みながら、この「戦争」と「セカイ系」の不思議な関係を読み解いていきます。


 その他にも、清涼院流水西尾維新の「新しさ」を分析した第1章は、東浩紀と似たアプローチながらもゲームなどをしない人にとっては、この斎藤環の説明のほうが腑に落ちるかもしれませんし、Yoshiの『Deep Love』をヤンキー系に、市川拓司『いま、会いにゆきます』をサブカル系、『電車男』をオタク系に分類して、それぞれの特徴を診断した第2章も面白い。

 そして、阪神大震災と文学の関係、そこで起こったリアリティの変容について幅広く考察した第5章も読ませる。
 ここでは斎藤環自身が、震災ボランティアの体験をきっかけに「文章が書けるようになった」という個人的な体験を引きながら、関東大震災新感覚派の登場、神戸で被災した精神科医安克昌が述べる「リアル病」などを分析し、90年代後半からさかんに使われるようになった「リアル」「リアリティ」という言葉の内実とその行方について述べたこの部分は、まだ完全にまとまってはいないものの、90年代以降の文学やサブカルチャーを考える上で非常に示唆に富んだ議論だと思います。

 まだ他にも面白い部分はあるので、興味を持った方はぜひご一読を。


文学の断層 セカイ・震災・キャラクター
斎藤 環
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