評判の『ダークナイト』を見てきましたが、前評判通りの面白さ。
ヒース・レジャーのジョーカーをはじめとする訳者もいいですし、何よりも脚本がよく練られている。
ここから先はややネタバレもあるので嫌な人は見ないで下さい。
この映画の深いところはジョーカーという「絶対悪」の存在を描きつつ、同時にそれ以外の「悪」についても描いている点。
ジョーカーは自己中心的に「悪」の快楽を追求する存在で、池田小事件の犯人の宅間守のようなふつうの人間の尺度からは外れてしまったような人間。このジョーカーをヒース・レジャーが熱演し、偉大と卑小の両極端を併せ持つようなキャラクターを形作っています。
それに対抗するのがバットマンなわけですが、バットマンも「悪」を押さえ込むために、時には「悪」に手を染めざるをえません。つまり、「悪」の暴力を押さえ込むには、正義の側にも暴力、つまり一種の「悪」が必要であり、バットマンはその理想主義(自らの「悪」を許せない)から苦しむことになります。
ただ、ここまでは他の物語でもよく描かれることなのかもしれません。
しかし、『ダークナイト』に深みがあるのは、さらにトゥーフェイスという3つ目の「悪」があるからです。(この3つ目の「悪」を演じたアーロン・エッカートも見事!)
トゥーフェイスの口癖は「公平ではない!」という叫びで、「なぜ自分だけが苦しい目に遭うのだ?」という怒りが、その「悪」の原動力になっています。
例えば、自分が重い病気になった時、事故に遭った時、愛するものが殺された時、人は「なぜ自分だけがこんな目に遭うのだ?」という感情を抱きます。けれども、それは時に他人の不幸を願う心へと転化してしまうことがあります。
この「他人を自分の不幸に巻き込もうとする悪」、これがトゥーフェイスの体現する「悪」です。
ここに出てくる「公平(フェア)」という言葉は非常にやっかないなもので、この「公平」を求める心が人の不幸を願う「悪」となります。
トゥーフェイスは自らの行動をしばしばコイン投げによって決めようとしますが、彼はそこにある種の「公平さ」を見ているのです。
この「なぜ自分だけが苦しい目に遭うのだ?」いう感情のやっかいさというのは、例えば、イラク戦争の時に反戦運動が盛り上がったのに対して、9.11テロ後のアフガニスタンへの報復攻撃に対する反戦運動がほとんど起きなかった、あるいはほとんど目立たなかったということもわかります。
「なぜ自分だけが苦しい目に遭うのだ?」というテロ被害者の怒りに対して、それを沈められる言葉はほとんどないのです。
この3つの「悪」にどう対抗するのか?
これはあまりに難しい課題で、その答えというのはないのでしょうが、この『ダークナイト』で唯一「正しさ」が来例に勝つシーンがあって、それは囚人が「他人を信じる」という行動をしてみせるシーン。
救いはやはりここなのかかな、という気がします。