高橋源一郎・講演『文学以外・なんでも』

 今日は上記の講演を聴きに多摩美の八王子キャンパスまで行ってきました。
 ただ、講演とは言っても何かのテーマを設定して高橋源一郎がしゃべるのではなくて、事前に参加者から集めた質問にたいして高橋源一郎が答えていくというもので、ふつうの講演とはちょっと違うスタイルでした。(タイトルは『文学以外・なんでも』ですが、文学関係の質問も可でした)

 そこで僕も質問を考えて、事前に送ったのが次の質問。

 高橋さんは90年代に日本に起こった変化とそれにつづく00年代をどのように捉えているでしょうか?
 95年の阪神大震災オウム事件は日本社会に大きな変化をもたらした出来事とされ、実際、村上春樹氏はこの二つの出来事に正面から取り組んでいます。一方、高橋さんは表立ってこれらをテーマとした作品を書いていないように見えます(『文学なんか怖くない』のオウム信者の文章の分析はありましたが)。
 けれども、90年代の前半にほとんど小説を書かなかった高橋さんが90年代末から00年代の初めにかけて再び小説を書き始めたのは、この90年代の変化があったからだとも感じるのです。
 そのあたりの御自身の考えと、いまだはっきりとした方向性の見えてこない00年代についての印象をお聞かせねがえればと思います。

 これに対して高橋源一郎は次のような感じに答えてくれました。


 「確かに90年代前半は自分も小説を書けなかったし、めぼしい書き手も出なかった。ところが、90年代後半になると阿部和重中原昌也など新しい才能のある書き手が登場した。90年代前半は何か新しいものが到来するのかと思ってみんな身構えていたが、結局90年代も半ばになってそういった変化はないということがわかった。そこでみなは今あるもので小説を書かなければならないということに気づいたのではないか。「近代」の次はもうなく(つまり「ポスト・モダン」はないということなのでしょう)、これからはずっと近代が続くだけということがわかった。本当の変化の時代にはみんな小説を書いている暇などはないが、時代が変わって落着くと優れた小説が書き始められる。つまり変化が終わった時代に小説が復活するです」

 
 もっと、いろいろ話してくれたのですが、だいたいはこんな感じです。
 宮台真司オウム事件後に唱えた「終わりなき日常」を思い出しますね。はっきりとは言いませんでしたが、高橋源一郎はこの00年代を「終わりなき日常」が続いている時代として捉えているのだと思います。
 残念ながら村上春樹については触れてくれませんでしたが(最初は村上春樹のことをズバリ聞く質問も考えたのですが、嫌がるかと思って質問の中に潜り込ませたのです)、これはやっぱり同年代の作家のことは話しにくいのでしょうかね?


 僕の質問についての質疑応答はこんな感じだったのですが、高橋源一郎は本当にサービス精神の旺盛な人で、一つ一つの質問に対して一つのエッセイを書くくらいの勢いで答えてくれました。(あまりのサービスっぷりに当然時間が足りなくなり答えられない質問もありましたが…)
 「他の芸術(例えば詩)は人のことを書かなくても成立するが、小説は人のことを書かないと成立しない。そこが小説の好きな所であり嫌いな所」、「漫画家はうまくなると物語が広がるが、小説家はうまくなると物語が狭くなる」といった文学的なことから、「本当にひどい失恋などの時は感覚を遮断してとにかく寝る」とかいう人生相談的なもの、「ヒップホップが好きでSHING02が好きだ」という意外な発言まで(あげてもスチャダラパーあたりまでかと思ってた)、まさに何でも答えていました。
 僕の質問の答えに関連するものとしては、「大人になったと自覚したのはいつ?」という質問に対する「日本人は大人にならない」という答え。「みんなが子どもの世界でどう生きていくかが重要だ」という答えは、まさに変化がなくなった時代への認識みたいのを感じました。
 「正しさを突き詰めるとやさしさから離れていくような気がする」という質問に対して、吉本隆明大塚英志の対談のタイトル「だいたいでいいじゃない」を引用して「正しさを突き詰めた所に優しさがある」ってしゃべった答えも、いいなって思いましたね。


 また、最近注目の思想家としてレヴィナスをあげていたんですが、その後に出た「好みの女性のタイプは?」という質問に「美人の人!性格は関係なく、とにかくまずは顔です。私はレヴィナスの原理に忠実なんです」って答えた所が個人的には一番ツボでした。
 わかる人にしかわからないツボだと思いますが…。