エステルハージ・ペーテル『ハーン=ハーン伯爵夫人のまなざし』読了

 ダニロ・キシュの『砂時計』、フラバルの『あまりにも騒がしい孤独』に続く、松籟社「東欧の想像力」シリーズの第3弾がこのハンガリー出身の作家エステルハージ・ペーテルの『ハーン=ハーン伯爵夫人のまなざし』ですが、これまた素晴らしい!
 サブタイトルに「ドナウを下って」とあるように、ドナウ川の上流から河口までを旅していく紀行文学という体裁になるのでしょうが、帯に「「ポストモダン」「文学」とかろやかに戯れる」とあって、小説自体も、さまざまなスタイルや引用、歴史や都市論なども混ぜ込んだものになっています。
 カルヴィーノの「見えない都市』からの大胆すぎる引用、また、ハイデガーウィトゲンシュタインヒトラーなども登場し、時間を超えてドナウの文化というものが描かれています。


 ただ、このように書くと「ポストモダン文学」という言葉にあまりいいイメージを持たない人は、読む気が失せるかもしれません。「どうせ実験的で突飛なものを狙っただけでしょ」、と。
 けれども、このエステルハージの作品の価値というのは、ハンガリーという中欧の国においては、「もはやポストモダン的であることを強いられる」ということを鮮やかに、そして苦味ととも描き出している点です。
 「ポストモダン」とは「大きな物語」が失効した社会で、先進諸国は60〜70年代にその状態に突入しているというのが世間的な認識だと思いますが、近年のアメリカの小説などでは「歴史」、いわゆるアメリカの歴史への信頼、信頼という言葉が強すぎれば一貫性のようなものが、失われた「大文字の<他者>」のような位置を占め、小説に安定的な構造を与えています。


 ところが、ハンガリーにはそのような「歴史」に頼れるような状況がない。

 つまるところ、歴史とは誰がどんなふうに挫折するかではないか?挫折の経験をもたない者などいるだろうか?いるはずがない。(158p)

 第1次世界大戦でハプスブルグ帝国が解体され領土も削られたハンガリー、第2次世界大戦でも負けた側にいたハンガリー、そして社会主義国として西欧から追いていかれたハンガリー
 著者のエステルハージの家はハンガリーでも名門の大貴族で、祖父はハンガリーの首相を務めたこともある人物です。ところが、社会主義国家となると一家は財産を没収され、父親は地方に強制移住させられました。父は社会主義体制下でも家族を守った立派な人物だったのですが、社会主義の崩壊後に待っていたのは、実は父が秘密警察の密告者だったという事実。 
 父が秘密警察の密告者であったことを知るのはこの作品が書かれたあとなのですが、この著者の伝記的な事実だけでも、著者が「歴史」というものに頼れない状況がわかると思います。

 昔は、つまり大きな戦争の前はということだが・・・・・人間の生き死にはどうでもいいことじゃなかった。誰かさんにお迎えがきたら、すぐにかわりの人間が現われて忘れられてしまうなんてことはなく、そこに穴や隙間のようなものが空いて、死者のよすがが偲ばれたものさ。成長するものならみんなそうだが、成長には時間がかかるし、滅びるものもみんな長い時間をかけて忘れられていったものだ・・・・・。昔は記憶を糧に生きていたのが、今ではすばやくきれいにさっぱりと忘れてしまう能力でもって生きている。ルターは慈悲深い神はいるかと問うた。俺の問いは、慈悲深い人間はいるかってことなんだ。(109p)

 引用部分を含めて、さまざまな部分で語られる強制収容所をはじめとする2度の世界大戦の傷。

 さるジョークにいわく、サッカーチームをひとつに束ねるものは、一にアルコール、二にコーチへの絶対的憎悪なり。これだ。これが中央ヨーロッパというものだ。クンデラの定義を有効にしていたのはソビエトの存在なのだった。当時はあんなに気に入っていた定義だったのに。(224p)

 そして社会主義体制が崩壊したあとの虚脱感。
 小説を読み進めていくにつれ、この風変わりの文体こそ必然なのだ、という感じが強く起こってきます。


 今までの紹介だと暗い小説に思えるかもしれませんが、すぐ上で引用した部分など、ユーモアもふんだんに盛り込んであって(ややブラックなユーモアですけど)、決して重苦しい小説ではないです。
 かなり大きな書店に行かないと見つからないかもしれませんが(先週に行った時には池袋のリブロにもなかった)、何か新しい小説を読みたいと思っている人には、強く推したい小説ですね。


 ちなみに著者の姓と名が逆に感じるのは、ハンガリー語が日本と同じように姓ー名前のスタイルをとっているからです。


ハーン=ハーン伯爵夫人のまなざし―ドナウを下って (東欧の想像力) (東欧の想像力)
早稲田 みか
4879842656