「十川幸司、ラカン派から転向!」
というのが、この本を一言で表す言葉になるでしょうか。
『精神分析への抵抗』といういかにもラカン的な本でデューした十川幸司でしたが、つづく『思考のフロンティア 精神分析』では治療現場におけるラカン理論に疑問を呈し、そしてこの『来るべき精神分析のプログラム』ではほぼラカンからは慣れてしまった感じです。
例えば、第5章で分析治療が目指すものとして「「成熟」という治療課題を挙げることができるだろう。(158p)」という部分。
ラカン派だったら、「成熟はありえない」と答える所でしょう。
では、どうなったのかというと、精神分析にオートポイエーシス・システムの理論を取り入れたもので、方向としては斎藤環が『文脈病』で提唱したものと似てます。
ただ、斎藤環がオートポイエーシス理論の自己言及的な側面を重視しているのに対して、十川幸司の理論ではカップリングに重点が置かれていているというか、この本では、ほぼシステム同士のカップリングの問題が精神病理として現われるというような立場を取っています。
ただ、この理論はまだそれほど成功しているようには思えない。
確かに、臨床の現場ではラカンの理論は「使えない」のでしょうが、例えば、第7章でとり上げられているルジャンドル『ロルティ伍長の犯罪』のロルティ伍長の分析において、十川幸司の理論が、ほぼラカン的な分析であるルジャンドルの分析よりも優れた分析を行っているかというと、それは疑問。
この本の十川幸司の理論の方がラカンの理論より精神病理の細かい部分を説明できるのでしょうし、臨床で「使える」のかもしれませんが、臨床に携わらない者、精神分析を一種の「世界や人間の見方」として読んでいる者にとっては、そんなに魅力のある理論ではないようにも見えます。