エリザベス・ムーン『くらやみの速さはどれくらい』読了

 Amazonでの紹介(単行本のほう)はこんな感じです。

 近未来、医学の進歩によって自閉症は幼児のうちに治療すればなおるようになっていた。35歳のルウ・アレンデイルは、治療法が確立される前に大人になってしまった最後の世代の自閉症者だ。それでも、ルウの生活は順調だった。触感やにおいや光に敏感すぎたり、ひとの表情が読みとれなかったり、苦労は絶えなかったけれど、自閉症者のグループを雇っている製薬会社に勤め、趣味のフェンシングを楽しんでいた。だが、新任の上司クレンショウが、新しい自閉症治療の実験台になれと自閉症の社員たちに言ってきた。ルウは、治療が成功してふつうになったら、いまの自分が自分ではなくなってしまうのではないかと悩む。ルウの決断のときは迫っていた…光がどんなに速く進んでもその先にはかならず闇がある。だから、暗闇のほうが光よりも速く進むはず。そう信じているルウの運命は?自閉症者ルウの視点から見た世界の光と闇を鮮やかに描き、21世紀版『アルジャーノンに花束を』と評され、2004年ネビュラ賞を受賞した感動の長篇。

 この紹介文だと、「なんかよくありそうな話」と思う人も多いでしょうが、この紹介だけでは語られていないこの小説の魅力を2つほど。


 まず、基本的にこの小説は自閉症の主人公の一人称で書かれており、自閉症の人の思考をなぞるような形の文体が使われています。
 もちろん、自閉症の人がどのようにものを感じ考えているかということはわからないので、この文体が「リアル」なものなのかはわかりませんが、「実際こんな感じなのではないか」と思わせる説得力のある文体になっています。
 著者のエリザベス・ムーンは長男が自閉症らしく、長年、自閉症の人びとやそれを手助けするグループと交流をもっていたそうです。その経験がこの小説には十分に活かされているのでしょう。


 もう1つの魅力は非常に考えさせられるラストです。
 「驚愕!」というようなラストではないのですが、ハッピーエンドともバッドエンドともとれないラストは、それまでのある意味でわかりやすい展開に比べると、非常に収まりの悪いものです。
 「障害を治すこと」がいいのか悪いのか?
 「障害も一つのアイデンティティである」といった言説がありますが、ではそのアイデンティティが変えられるとしたら?
 今後医療が発展していく中で難問となっていくであろうテーマが問われています。


 個人的にこの本を読んで思い出したのが、数年前にNHK日本賞でグランプリを取った「音のない世界で」というアメリカのドキュメンタリー。

 紹介ページ
 http://www.nhk.or.jp/jp-prize/past/28/post-j.html 

 人工内耳移植により、耳の不自由な人々の聴覚が回復する可能性が広がってきている。聴覚に障害のある幼い子どもに移植を受けさせるか、あるいは、あるがままの姿を尊重すべきか・・・番組は、難しい選択を迫られる二組の夫婦を追ったドキュメンタリーである。
一方の、ともに耳が不自由な夫婦の5歳の長女は、音のある世界に興味を持ち始め、人工内耳の移植を望んでいる。しかし、話し言葉とは違う手話の文化に誇りを持っている両親は、彼女に聾者としてのアイデンティティを持ってほしいと願っている。そして、聾者への理解とおもいやりのある小さな町への移転を決めたのをきっかけに、長女は考えを変える。
 もう一組の夫婦は、生まれた息子が難聴であることを知って、人工内耳移植を選択する。聾者の両親のもとで育った妻は、手話の文化を理解していながらも、親として、子どもの可能性をできる限り広げてやることが最善と考えたからだ。
 番組は、それぞれの決断に至るまでの、お互いの意見のぶつかり合いや心の葛藤を克明に映し出している。

 ここでは子どもがより「ノーマル」になることと、障害者の共同体(ここでは手話文化の共同体)がテクノロジーによって破壊されることの間での葛藤があるわけですが、この小説、『くらやみの速さはどれくらい』のラストでせり出してくるのもこの問題。
 最後の主人公のルウの決断とその後の姿を祝福できるか、それともそれに疑問をもつのか、人によって意見が分かれる所でしょう。
 

くらやみの速さはどれくらい (ハヤカワ文庫 SF ム 3-4) (ハヤカワ文庫SF)
小尾 芙佐
4150116938