トーマス・ベルンハルト『消去』読了

 ほぼ、段落なしでえんえんと続く文章は上下巻474ページに及び(上下巻ですがページは通してふってあります)、そのほぼすべてが家族と祖国オーストリアへの罵倒、呪詛、毒舌というすごい小説。
 けれども、それが読めてしまうというのがまたすごい!
 

 どんな感じかと言うと、例えば次に紹介するのは家族の写真をみたあとに始まる写真に対する罵倒。

 のべつ写真を撮りまくり、絶えずカメラを首にかけて走り回っている人間を私は軽蔑する。そういった連中は四六時中モチーフを探していて、何でもかでも、このうえなく馬鹿げたものでさえも手当たり次第、写真に撮る。彼らの頭にあるのは、身の毛もよだつような仕方での自己演出だけだが、もちろん自分ではそのことに気づいていない。そうやって彼らの写真には倒錯的に歪曲された世界が定着される。それは倒錯的に歪曲されているという点でしか現実の世界と通いあうところのない世界である。彼らは自らの世界の歪曲に手を下したのだ。写真という下品な中毒症は、徐々に全人類をまきこんだ。人類は歪曲と倒錯がたんに好きでたまらなくなったばかりか、すっかりそれに血道をあげ、写真を撮りまくるせいで、歪曲された倒錯的な世界だけが真実の世界だと思いこむ結果になっている。写真を撮る人間は、犯されうる犯罪の中でもっともたちの悪い犯罪を犯す。というのも写真の中で、自然は倒錯的でグロテスクなものに変えられてしまうからだ。写真に写っている人間は、正体不明なまでにねじ曲げられ、ぶざまにされた滑稽な人形でしかない。それがびっくりした表情をして、レンズを覗いているから、馬鹿ばかしくて腹が立つ。写真は、地上のすべての大陸のすべての住民を虜にした下賎な情熱であり、全人類を冒した、癒える見込みのない病である。写真術の発明はあらゆる技術のうちもっとも人類に敵対的なものを発明したのだ。自然とその中に生きる人間が決定的に歪曲され自然の渋面と人間の渋面に変わってしまったのも、みなその発明家のせいだ。私はいまだかつて写真の中で自然な人間、真に実在する人間にお目にかかったことがないし、真に実在する自然を目にしたこともない。写真は二十世紀最大の不幸だ。(20ー21p)

 小説のストーリーは主人公フランツ-ヨーゼフ・ムーラウが両親と兄の死を告げる電報を受け取り、故郷のヴォルフスエックに帰って葬儀を行うという内容なのですが、全編、このような罵倒と毒舌に満ちていて、上巻ではこのあと100ページ近くにわたって家族である、父、母、兄、2人の妹への罵倒が続きます。
 それが終ると今度はオーストリアへの罵倒。
 オーストリアカトリック的で国家社会主義的な文化、そしてドイツ語文化への呪詛が爆発します。
 「二十世紀のショーペンハウアー」との異名を持つだけあって、ベルンハルトの描く世界は厭世観に満ちています。文章は上に引いたものでわかるように繰り返しが多く、読みやすいものではないのです。
 ただ、それが面白いんですよね。
 ショーペンハウアーもそういったところがあるのですが、行き過ぎた厭世というのは何かユーモアに通じるところもあって、繰り返しの中で増幅されていく毒舌は、時に笑いを誘います。

 
 下巻は舞台を主人公の生まれ故郷で非常に立派な城に移し、大掛かりな葬儀が始まるのですが、そこでも主人公は周囲の人間に対して、心の中で、そして時には口に出して罵倒をつづけます。
 一方で、自分の行動がどう見られているかを常に気にし、優雅に振舞う例外的な人物に対しては驚嘆の念を抱きます。とにかく自意識の塊ですね。
 それで、読んでて気づきました。
 「これは夏目漱石の『行人』の第2部だ!」って。
 自意識に捕われた滑稽すれすれの深刻さ、あるいは深刻さをはみ出してしまった滑稽さ、そういったものを、夏目漱石と同じく、このベルンハルトも容赦なく描いています。
 自分は実は夏目漱石では『行人』が一番好きといってもいい存在で、われながら「なんて考えてばっかなんだ!」と思いながら夢中で読みましたが、この『消去』の面白さもそれに通じるものがありますね。
 メタ的な言及とか「二十世紀の小説」っぽい仕掛けもあるのですが、意外と漱石好きにお薦めできる小説ではないでしょうか?


消去 上
Thomas Bernhard 池田 信雄
4622048698


消去 下
Thomas Bernhard 池田 信雄
4622048701