被害者参加制度にある被害者を加害者に縛り付ける危険性

 このブログでは何回か被害者参加制度に疑問を呈してきました。
 ダニエル・H・フット『名もない顔もない裁判所』と被害者参加制度 - 西東京日記 IN はてな
 冤罪と被害者参加制度 - 西東京日記 IN はてな


 残念ながら被害者参加制度はスタートしてしまったわけですが、やはり心理的に見てもこの制度はよくなんじゃないかということを、ジュディス・L・ハーマン『心的外傷と回復』の次の部分を読んで思いました。

 つぐなわせ幻想はしばしば、加害者に対する勝利をかちとり、外傷の屈辱をぬぐい去りたいという欲求によって火に油を注がれる。つぐなわせ幻想をつぶさに吟味するならば、心理的要素が混入していて、それが患者にとっては物質的なものを獲得するよりも大切である。つぐないとはしばしば、加害者に傷を負わせたことを公式に認めさせ、言いわけをさせ、加害者を満座の前で辱めてやりたいということである。つぐなわせ幻想が、これによって力を取り戻すためというものであっても、実際には賠償のための闘争が患者の運命を加害者の運命にしばりつけ、患者が回復するかどうかは加害者に気まぐれ次第となり、いわばその人質にとられてしまう。加害者から一切のつぐないを得る可能性をあきらめた時、逆説的であるが、患者は加害者から自由になるであろう。(298ー299p)

 もちろん、これはレイプなどの被害者について語ったものなので一般的な犯罪者にそのまま当てはまるものではないかもしれませんが、この「つぐなわせ幻想」が被害者を事件にしばりつけ、それこそ自らの運命を加害者にゆだねることになってしまうのではないでしょうか?
 「つぐなわせたい」と欲求は正当です。けれども、正当だからこそやっかいであるとも思うのです。
 例えば、被告人が池田小学校での連続児童殺傷事件の犯人、宅間守のような人物であった場合。被害者は悪魔的な加害者に振り回されることになります。
 もちろん、あくまでもつぐないを求めるというのも一つの生き方であり、否定はできませんが、被害者参加制度のような「制度」という形で、この「つぐなわせ」に多くの被害者をまきこんでいいものだろうかと疑問に思います。


心的外傷と回復
Judith Lewis Herman 中井 久夫
4622041138