ドン・デリーロ『堕ちていく男』読了

 2001年9月11日、世界貿易センタービルは崩壊する。窓外には落ちる人影。凍りつく時間。狂乱と混沌。愛人をつくり、ポーカーに明け暮れ、何かから逃走するように生きてきたエリート・ビジネスマン、キースはその壮絶なカタストロフを生き延びる。妻と息子の元に帰った彼は新しい生へと踏み出すかに見えたが―。

 傑作『ホワイト・ノイズ』をはじめとして、『アンダーワールド』など常に時代と格闘し続けてきたアメリカを代表する作家ドン・デリーロ。常に現代社会を意識してというか、意識しすぎてきたデリーロが今回挑むのが9.11テロ。
 デリーロを読んできた人なら「絶対書くと思った!」という感じですが、期待に違わず、この『堕ちていく男』を書いてくれました。
 上に引用した「あらすじ」からもわかるように、この本の中心となるのは世界貿易センタービルから逃げ延びたキースとその家族。タワーから脱出したキースは誰の者ともわからないブリーフケースを持ち、自分でもよく理由がわからないままに別居していた妻リアンの元へと行きます。
 現実への感覚を何となく失ってしまった感のあるキースと、不思議な行動を示す息子のジャスティン、そして不安定になるりアンの気持。こういったものが断片的に描かれ、9.11以降の風景というものが提示されます。そんな風景の中でアクセントとなるのが、高い所からロープでつり下がるパフォーマスをする「落ちていく男」の存在。これらの以後の風景を通じて、「9.11に何が起きたか?」ということに迫ろうとしているのがこの小説の構成です。
 さらにテロの実行犯のモハメド・アタとその仲間を登場させることで、テロの側からも9.11を描こうとしています。


 ただ、このテロの実行犯のパートは弱い。
 ベテラン作家らしく、「9.11」という事件を包囲する形でエピソードを配列しているのですが、テロ側の視点の弱さはこの小説の中の「穴」になっていると思います。
 リアンの母の恋人で、ヨーロッパ的な価値観を代表するマーティンという人物についてはよく書けているので、このマーティンにテロ側の視点を補足させた方がよかったかもしれません。
 例えばマーティンは次のような形でアメリカ人とは別の視点を提供していますから。

「彼らがきみたちを殺せば、きみたちは彼らを理解しようとする。おそらく最後には、きみたちも彼らの名前を覚えるだろう。でも、そのためには、まずきみたちを殺さないといけないんだ」(148p)

 『ホワイト・ノイズ』のように時代と格闘しそれを乗り越えたレベルまでは達していないとおもいますし、9.11に関してはこれからもっと優れた小説が登場するとは思いますが、とりあえず、この『堕ちていく男』がその最初の一歩なのでしょう。


墜ちてゆく男
Don DeLillo 上岡 伸雄
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