クリストファー・チャーニアク『最小合理性』読了

 久々の分析哲学の本でやや読むのに時間がかかりました。年とると、「難しかろうが何が何でも読み切る!」という気迫というか執念というかが薄れちゃってダメですね。
 といっても、この本はそんなに難解な本ではない。「もっとわかりやすい例や説明があるだろう」と思う部分もありますが、著者の問題意識は一貫しています。
 そして、そのチャーニアクの問題意識とは次のようなもの。

 ここでの私の主要な仮説は、哲学に浸透しそこで暗黙のうちに仮定されてきた合理性という概念は、あまりに理想化されているので、まともな議論の対象となるような意味では現実の人間には適用できない、というものである。(6p)


 つまり、哲学の世界ではa=b,b=cならば、合理的な人間は常にa=cと判断するはずだと考えますし、a>b,b>cなら必ずa>cという選好を示すと考えます。
 ところが、人間には記憶や計算量の限界があって必ずしもきちんと合理的には振る舞えないのではないかというのがチャーニアクの考え。この人間の理性では処理しきれない複雑性があるという考えは、認知科学の分野でH・A・サイモンが主張していましたが、チャーニアクはそれを哲学の言葉で主張したと言えるでしょう。
 そして、合理性というのは0か100%かではなく、この程度の判断ができれば「合理性がある」と言える「最小合理性」なる概念があるはずだというのです。
 この「最小合理性」の概念についてはそれほど有効な形で打ち立てられているとは思えないのですが、完全なる合理性を想定することが非現実的であるという批判は、クワイン全体主義、翻訳の不確定性、認識論といったものに疑問を突きつけるもので、クワイン、デイヴィッドソンの哲学を今後考えて行く上で外せないものかもしれません。


 また、「矛盾」といった今までの哲学では嫌われてきた概念にも新たな光が当てられています。

 したがって、「私にとって、二律背反の出現は病気の徴候である」というタルスキの見解と比べれば、「矛盾は病気一般を引き起こさせる病原菌ではない」という、パラドックスの(非)重要性についての説明に見られるウィトゲンシュタインの前期のイメージの方に、少なくともいくらかの真理がある。矛盾はシステムを完全にだめにするとは限らない。それどころか、本章はさらに歩を進めて、矛盾は時にはまったく健康的だということすら唱えてきた。論理の普遍的受容というテーゼに関する教訓は、次のことである。すなわち、一旦、行為者に対する極端な理想家を排除して、少なくとも行為者の心理学的現実である最も基本的な事実を考慮するなら、そのテーゼは、合理性に対する他の多くの理想化と同様に間違っているように思われる、しかも興味深い仕方で間違っているように思われる、ということだ。通常の善意の原理の言うところとは逆に、メタ理論的に十全な演繹体系の受容は、行為者の合理性にとって先験的に不可欠なわけではないというだけにとどまらない。その受容は、重要な場面において得策ではないし、おそらくその合理性と両立さえしないのだ。(155p)


 そしてチャーニアクは、私たちの合理性に限界がある限り、私たちは私たちの知ることができない「より合理的な世界」というものを想定せざるを得ないと主張します。カントは「経験不可能な物自体がナンセンスだとしても、それはわれわれにとって不可欠のナンセンス」(216p)だと主張しましたが、チャーニアクの主張もこのカントの主張に近づいていると言えるでしょう。


 まあ、万人向けではない本ですが、ここに書いたことの興味がある人なら読んでみるといいですし、将来のために積んでおいていい本かもしれません。


最小合理性 (双書現代哲学7) (双書現代哲学)
柴田 正良 中村 直行 村中 達矢
4326199539