中井久夫『精神科医がものを書くとき』

 http://d.hatena.ne.jp/morningrain/20090819/p1でもその内容をちょっと紹介した中井久夫精神科医がものを書くとき』を読了。
 解説が斎藤環で、そこで斎藤環は「中井先生はウルトラマンだ。精神医学にウルトラマンが来てくれて本当に幸運だった」という神田橋條治の言葉を引いてその功績をたたえつつ、同時に「わが国の精神医療を『カルト化』から守った」ことをその最大の功績としています。
 「中井久夫原理主義者」が生まれなかった背景として、斎藤環はその箴言的で体系を目指さない著作のスタイルをあげていますが、この『精神科医がものを書くとき』はその中井久夫の文章の特質をよく表している本と言えるでしょう。
 

 内容を要約するのはほぼ不可能で、中身は精神医学からボケ、ストレスをこなすこと、危機管理など多岐にわたっていますが、いずれにも「なるほど」と思わされる洞察があります。
 ここでは個人的に気になったいくつかの部分を引用しておきます。

 頭の中に萌芽状態の仮説や疑問などをとどめておくという、あの重苦しいことが、どうも治療には重要であるらしい。個々の患者についての「ああではなかろうかこうではなかろうか」「これはどうなっているのだろう」「これはこれからどうなるのであろう」などという、漠然とした仮説や疑問である。それから、経過や基礎的なデータの記憶がある。このプレッシャーが私の日々の臨床にとって必要であるらしい。症例報告を書いてしまうと、この曖昧な雲のようなものが、明確にしすぎたものを若干残して消えてしまうらしい。症例報告を書いた後の治療は、ぎくしゃくするか、気が抜けたものになるか、いずれにせよ、少なくともしばらくはうまく行かない。「精神科医がものを書くとき」(16ー17p)

ー 往診の時に注意しなければならないことは?
 

 たいへんたくさんあるし、誤解しないように表現するのは難しいですね。ただひとつをいえば、家を立ち去る時のストーリーを考えなければならないということです。家を修羅場にしておいて立ち去るわけにはゆきませんからね。


ー 食事を出されたら食べますか。


 食事を食べるということは華族と共食するわけですから、深い関係になるということです。断るということは拒絶です。象徴的に一箸つけて、手を合わせてごちそうさまといって出てきたこともありますが、要するに、即興劇の能力みたいなものを生かしてやるわけです。即興劇の役者は、どこをクライマックスにして、同幕を閉じるのかを絶えず考えているに違いありません。「統合失調症についての自問自答」(144p)

「山でこれはいかんと思ったら、うんと麓まで退却しろ。みなが疲労の色の濃い時に八合目や九合目から再登頂を企てたら必ず遭難する」 「危機と事故の管理」(236p)

「だけど、本人には、こういう思いもあるようだよ。あそこで病気をしていなかったら、もっとひどいことになっていたかもしれませんと言った人があるくらいでね。つまり、病気の前というのは、どこか無理がかかっていて、ゆとりのない状態だったと考えてもいいだろうね」
「でなきゃ病気にならないだろうな」
「うーん、それは理屈だね。でも、病気になる直前には、何かを猛烈に勉強しはじめたり、成績が上がったり、学年委員に選ばれたりしている子がけっこう多いだろ。これで、おや、この子もいいほうの芽が出だしたと周囲は思うわな。結果的に見れば、ゆとりを食いつぶしているわけだけど、その時点ではわからない」


「そう…。でね、精神科の難しいところはいくつもあるけど、まず、病気の前に戻すということが治療にならないんだ」
「というと?」
「それは、病気の前と同じ状態というのは、世間的には、見栄えがするかもしれないけど、いつまた病気になるかもしれない不安定さを秘めた状態だからだ」 「『いいところを探そう』という問題」


 あと、文明論とも身体論ともシステム論とも言いがたい内容ですが、「微視的群れ論」はいろいろなヒントがつまった文章です。


精神科医がものを書くとき (ちくま学芸文庫)
4480092048