スティーヴ・エリクソン『エクスタシーの湖』

 エリクソンの新作にして、名作『真夜中に海がやってきた』の続編とも言える存在。
 『真夜中に海がやってきた』で、カルト集団の集団自殺から逃れて新宿の歌舞伎町でメモリーガールの仕事をしていたクリスティンが本作の主人公的存在。
 『真夜中に海がやってきた』のラストでは東京で大洪水がおこり、そのときクリスティンは流産してしまうわけですが、本作ではロサンジェルスでカークという男の子を出産していて、そしてそれとともにロサンジェルスには謎の巨大な湖が出現します。
 この湖は「レイク・ゼロ」と名付けられ、「Z湖」などとも呼ばれるようになり、そこでクリスティンはカークと生き別れになってしまいます…。

 
 と、書いたところで、この小説が9.11テロの強い影響を受けた小説だということがわかると思います。
 実際に「レイク・ゼロ」は「グランド・ゼロ」の呼び名にならったものであるということが明示されていますし、次のような箇所もあります。

 そうはいっても、戦車の前に立った男と飛行機をビルに突っ込ませた男がそれぞれ自分だけの隠れた理由でそうしたとしても、二人は同じとはいえない。つまり、両者の間には違いが存在し、善悪の倫理が存在する。要するに(中略)、善悪の倫理を何よりも証明するのが、そうした隠れた個人的な理由なのだ。愛憎と同じように現実的であり、その代わり、世界で唯一反駁できないものなのだ。(307p)

 この「戦車の前に立った男」とは天安門事件のときにそれを行ったワンという男。
 ワンはロサンジェルスの大部分が湖に水没した2010年代後半、内乱がつづいていると思われるアメリカで、軍においてかなり高い地位にいます。
 このワンや、クリスティン、そして生まれなかったはずの娘ブロンテ、カークの生まれ変わり(?)のような少年など、さまざまな登場人物が入り乱れ、そして転生しながら話は進んで行きます。
 そしてその話をレイアウトにも横切るようにクリスティンの過去についての語りがストーリーを文字通り横断します。この凝ったレイアウトと入れ替わっていく語り手によって、この物語はかなり複雑な構成を見せます。


 ただ、例えば『黒い時計の旅』、『Xのアーチ』、そして『真夜中に海がやってきた』のようなダイナミズムはないんですよね。
 時間こそ2004年から2089年まで大きく動くのですが、舞台はほぼロサンジェルス。一つ前の長編の『アムニジアスコープ』と同じく、時間こそ動くものの歴史を飛び越えるようなエリクソン的な躍動感みたいなものはないんですよね。
 引用した「倫理」についての問いに関しても、正直なところきちんと答えているとは言い難いです。
 「子を失った母の悲しみ」がこの小説全体を貫くモチーフなんですけど、それではテロを止めることは出来ないでしょう。むしろ、パレスチナなどで行われている自爆テロを正当化することにしかならない。
 ダメな小説というわけではないですけど、以前のエリクソンに比べるとどこか衰弱した感じがします。


エクスタシーの湖
Steve Erickson
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