ヘルタ・ミュラー『狙われたキツネ』

 今年のノーベル文学賞を受賞したヘルタ・ミュラーの唯一の邦訳にして長編第一作。
 ヘルタ・ミュラールーマニア出身の作家ですが、もともとドイツ系少数民族の出で、母語はドイツ語。この小説もドイツに出国後ドイツ語で書かれたようです。
 話としてはチャウシェスク独裁政権下のルーマニアの閉塞した社会状況を舞台にしたもの。

 独裁者の顔は年とともに縮んで小さくなっているというのに、写真ではどんどん大きくなっている。(298p)

 という80年代のルーマニアを舞台に、秘密警察に追いつめられる女性教師アディーナを主人公として、当時のルーマニアのいびつな様子が描かれます。


 ところが、読みはじめてしばらくは社会主義や独裁を告発するような小説とは思えません。
 描かれるのは街のある意味で詩的な情景だったり、子どもたちの様子だったり、ちょっぴり歪んでいる社会主義下の工場だったり。社会主義や独裁の歪みは、あくまでも街の情景の一部として差し挟まれ、それほど不穏な様子は漂ってきません。
 しかし、その歪みは徐々に小説全体を覆いはじめ、アディーナの生活にも暗い影を落とします。「この国を世界から遮断してくれるドナウ川があるおかげで、世界はずいぶん幸せな想いをしているんだよ」(141p)と小説の登場人物に評されるルーマニアの状況があらわになってくるのです。
 主人公の部屋に秘かに侵入し、キツネの敷物に傷を付ける秘密警察。獲物をなぶるようにじわじわと主人公を追い込んでいきますが、この小説自体もじわじわと怖さを感じさせる小説です。


 最後に気に入ったセリフを一つ。

 「誰だって感情のひとかけらくらいは口のなかに抱えているものなんだ。だからどんな人間に会っても相手の舌をよく見て、相手が言いかけていることに注意しなくてはいかん。ひとたび怒りにまかせた言葉が口に出されたら最後、それはあっという間に実に多くのものを踏みつけてしまうんだからな。それと比べれば、二本の足が一生かけて踏んづけるものなんて大したことはない」(211p)


狙われたキツネ 新装版
山本 浩司
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