サリンジャーの隠れた名作「最後の休暇の最後の日」

 サリンジャーが亡くなりました。
 ずっと隠遁生活を送っていたため、写真は相変わらず若いままで、何だか91歳と言われてもピン来ません。永遠の青春小説『ライ麦畑でつかまえて』のイメージに作者も殉じてしまったかのようです。
 ただ、サリンジャーには第2次世界大戦への従軍経験があり、「エズミに捧ぐ」にも見られるように彼はまたいくつかの「戦争小説」を書いた作家でもあります。
 そんな中で、サリンジャーの独特の倫理観を示しているのが「最後の休暇の最後の休日」という小説。
 日本だと荒地出版の選集の第2巻に収録されている短編で、それほど有名な作品ではありません。僕はこの小説を加藤典洋の『敗戦後論』で知りました。


 この作品は第2次大戦への出征を控えた若い兵士ベイブの休暇の最後の日を描いた作品で、『ライ麦畑』の主人公の名前であるホールデン・コールフィールドの名が友人のヴィンセントの弟の名前として初めて登場する作品でもあります(この小説ではホールデンは戦場で行方不明になっている)。
 最後の晩ご飯を食べ終わると、主人公の父親は自分の従軍した第1次大戦の話を始めます。友人のヴィンセントはそれを黙って聞きますが、主人公のベイブは途中でその話を遮って父親を批判します。
 重要な部分なので長いですが引用します。

「パパ、生意気なようだけど、ときどきパパが戦争のはなしをするとき、(中略)まるで戦争って、何か、むごたらしくて汚らしいゲームみたいなもので、そのおかげで青年たちが一人前になったみたいに聞こえるんだな。ぼく厭味をいうつもりじゃないんだけれど、だけどなんだか〜みんな、戦争に行ったことをちょっと自慢しているみたいに思うんだ」
 (中略)
「ぼくはこんどの戦争は正しいと思うよ。そうでなかったら、良心的参戦拒否者の収容所に行って、戦争が終わるまで斧でも振ってるよ。ぼくはナチスファシストや日本人を殺すことが正しいと思っているんだ。だって、ほかにどうかんがえたらいいんだろう?ただね、この前の戦争にせよ、こんどの戦争にせよ、そこで戦った男たちはいったん戦争がすんだら、もう口を閉ざして、どんなことがあっても二度とそんな話をするべきじゃない〜それはみんなの義務だってことを、ぼくはこればかりは心から信じているんだ。もう死者をして死者を葬らせるべき時だと思うのさ。」
   (中略)
「でも、もしぼくらが帰還して、ドイツ兵が帰還して、イギリス人も日本人もフランス人も、だれもかれもがヒロイズムだの、ごきぶりだの、たこつぼだの、血だのと話したり、書いたり、絵にしたり、映画にしたりとしたら、つぎのジェネレーションはまた未来のヒトラーにしたがうことになるだろう」(108ー109p)


 これは何かの目的のために戦争を語る左右両陣営に対する痛烈な一撃です。
 そして戦争から帰ってきた兵士たちに厳しい倫理を迫るものでもあります。
 

 さらにこのあと、主人公のベイブは眠っている妹のベッドのふちで妹に心の中で次のように話しかけます。

 君はまだ小さな少女さ。でも少年でも少女でも、いつまでも小さなままではいられないんだよ。〜ぼくだってそうだったのさ。小さな少女だったものが、ある日とつぜん口紅をつけるようになる。小さな少年だったものが、ある日とつぜん髭をそり、タバコをふかすようになる。子供でいられる時間なんて短いものなんだよ。
   (中略)
 君は大きくなったら利口になるだろう。でも、もし君が利口ですばらしいひとになるんでなかったら、僕はきみが大きくなるのを見たくはないよ。すばらしいひとになるんだよ、マット

 

 サリンジャーならではの無垢な子供への想いを吐露した部分ですが、前の引用と合わせると、サリンジャーにとっての戦争の意味も浮かび上がって来る。
 サリンジャーは子供の無垢な世界を守るために大人たちが戦争をしなければならない場合があると考えています。しかし一方で、戦争をした大人たちが帰ってくることによって子供たちの世界が汚染されることも心配しています。
 一度、戦場という非日常的空間を経験したものは、日常を乱す存在でもあります。戦場から帰ってきた兵士たちは、子供たちの日常を汚染しないために口をつぐむしかないのです。
 この異常なまでに潔癖な倫理観が、『ライ麦畑』をはじめとするのちの作品や、その後の隠遁生活を生んだような気がします。
 サリンジャーと言うと『ライ麦畑』のホールデンと重ねられ、「子供っぽい」イメージの作家と思われがちですが、実は潔癖すぎるにせよ成熟した倫理観を持った作家だったのでしょう。


サリンジャー選集(2) 若者たち〈短編集1〉
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